Sama gént gi,
Yee na ma ci àdduna
僕が見た夢は、
僕の目を開いてくれた
(Youssou N’DOUR ‘’Sama Gént gi’’『僕の夢』より)
《地球の誕生》
今からおよそ138億年前、ビッグバンによって宇宙ができ、46億年前に地球が誕生しました。
《生物の誕生》
44億年前に海が誕生し、海が安定して存在できるようになった38億年前頃、地球上の最初の生物である単細胞の微生物(0.01mm)が海底で誕生しました。この微生物がすべての生物の共通祖先となります。
《アフリカ大陸の誕生》
約3億2000万年前に、分裂した大陸が衝突合体して、現在のユーラシア大陸と北アメリカ・南アメリカ、アフリカ、インド、南極、オーストラリアを含む地球史上最大の超大陸パンゲア大陸が形成されました。パンゲア大陸はその後、北半球のローラシア大陸と南半球のゴンドワナ大陸に2分され、1億3000万年前に、南アフリカ大陸とアフリカ大陸の間に超巨大噴火が起こりました。すると、大地に亀裂が生じ、約6500万年前に、アフリカ大陸が南アメリカ大陸から分裂し大西洋が成立しました。
(余談ながら、大江健三郎は『個人的な体験』で、「アフリカ大陸は、うつむいた男の頭蓋骨の形に似ている」と表現しています)
《バオバブの記億》
サン・テグジュペリの『星の王子様』で有名になったバオバブは、セネガルのバオバブからインスピレーションを受けたと思われます。そのバオバブが、現在、マダガスカル、アフリカ大陸、オーストラリアに分布しています。これは、かつて、アフリカ大陸とオーストラリア大陸とマダガスカルが1つの超大陸ゴンドワナを形成していた証しで、バオバブが2億年以上前から現在まで連綿と子孫を残してきたことを物語っています。今は分裂し失われてしまった超大陸の記憶を、バオバブの木が留めているのです。
《人類の出現》
約30万年前、アフリカの大地に私たちの祖先のホモサピエンスが出現し、5万年前頃からアフリカを出て、ユーラシア大陸に向かい、世界各地に広がってゆきました。
私たちの祖先はアフリカ人で、人間はみな兄弟です。
旧約聖書の創世記10章によると、ノアの息子ハムの子孫たちの大部分がアフリカに移り住みました。
《セネガル川の発見》
時は流れ、紀元前5世紀、ギリシャの歴史家ヘロドトスは、その著書「歴史」(巻4、43節)で、ハンノの航海について記しています。
ハンノは古代カルタゴの航海者で、紀元前500年頃、カルタゴの長官の命令を受け、アフリカの西海岸に植民地を設けるため、少なくとも3万人の男女を乗せた60艘の巨船から成る大艦隊を率いて出発しました。第3回目の遠征の際には、「クレテスという大きな河(セネガル川)を発見し、河口からさらに奥に進んで行くと、野獣の皮を身にまとった野蛮人が石を投げつけてきて、我々の上陸を妨げた。そこで航行を続けると、カバやワニがたくさん棲んでいる、大きく広い別の河口に到達した。ここで方向を変え、セルネ(西サハラのヘレネ島)に戻った。さらに陸地伝いに南下し、12日後、高くうっそうとした山々の麓(ヴェルデ岬)に停泊した。その木々は香りが良く、多くの異なった種類があった。」と報告しています。
(楠田直樹名誉教授によりますと、クレテス河は、アリストテレスの述べる大西洋に流れ出ているクレメテス河と一致し、当時はナイル河の支流だと考えられていたとのことです。尚、クレテスは、フェニキア語で「葡萄の流れ」という意味です)
《サハラ縦断塩金交易時代のセネガル》
4世紀になると、セネガル川上流域とニジェール川上流域にまたがるガーナ王国(現在のガーナ共和国とは違う)が誕生しました。ガーナ王国は、北アフリカの商人が運んで来る塩と、自国で産出する金(のちに黒人奴隷も)を交換するサハラ縦断塩金交易をおこなって発展しました(イスラム教もこの頃からセネガルに広まり始めています)。
ガーナ王国滅亡後も、マリ王国(13世紀~17世紀)とソンガイ王国(14世紀~16世紀)も塩金交易を継承しました。
《セネガルのストーンサークル群》
8世紀~12世紀にかけて、セネガンビア地域にラテライトの岩でできた多数の環状列石がつくられました。石は鉄器などを使って精密に加工され、ほぼ完全な円筒形および多角形になっています。土地の人達は伝統的に「王の墓」とか「王の母の墓」と呼んでいます。
発掘の際には、おり重なった60の遺体が出てきたことから、この環状列石群は埋葬に関係していると考えられています。なかには銅のブレスレットをつけた遺体もありますが、どの民族が、いつ、どのように埋葬したかは未だ分かっていません。
巨石は、主にシン・ンゲイエンヌ村北東の採石場から運んだものと推測されています。石を切り出した傍では、大量の研磨具も見つかっています。
カルナックやブルターニュの巨石の並び方に似ていますが、未だ謎が多い遺跡とされ、今後の調査が期待されています(遺跡の一部は、2006年に「セネガルのストーンサークル群」として、世界遺産に登録されています)。
《セネガルの国名》
とある浜辺に上陸したポルトガルの探検家は、ここがどこであるかを確かめるため、近くにいた漁師に尋ねました:
「ここは何という国か?」
漁師は、突然現れた白人に驚き、自分の舟(ピローグ)が取られてしまうのではないかと勘違いをして、
「Sunu Gal (スヌ・ガル)=これは私達の舟(ピローグ)だ」
とウォロフ語で答えました。
探検家は、「スヌ・ガル」を「セネガル」と聞き違え、帰国後、この国をセネガルと報告しました。
セネガルの国名の由来については諸説ありますが、観光ガイドブックでよく紹介されているのが上記のエピソードです。
セネガルの原形となる名前が初めて紹介されたのは、スペインのアンダルス地方ウエルバ出身の地理学者、アル・バクリー(1014頃~1094)が著した『黒人達の国の概要』の中で、次のような記述があります:
『ベルベル族のベニ・ジョッダラ人は、黒人達の町に最も近い国境地帯に住んでいるが、そこはアフリカでイスラム教が受容された最南端の地域である。黒人達の町は、Sanghanaと呼ばれ、ナイル川によって2つに分かれている。ベニ・ジョッダラ人の町から歩いて6日の距離に位置している。』(筆者訳)
この⦅Sanghana⦆がセネガルを表す言葉です。
尚、当時の人々は、上記の川をエジプトのナイル川の支流だと信じていましたが、この川は実際にはセネガル川のことです。
イスラム学者のSaliou KANDJI氏によりますと、
《『Sunu Galスヌ・ガル』説は、フランス人神父David Boilatが唱えた根拠のない作り話しである。もともとセネガル川流域は古くからセレール語で『Singhaana』と呼ばれていた。「Sin」は「国、地方」を意味し、「ghaana」は「4世紀頃に誕生したガーナ王国」のことで、全体として『ガーナ王国の属国・属州』という意味になる(現在のガーナ共和国ではない)。
この『Singhaana』は、上記のアル・バクリーにより『Sanghana』とアラビア文字に表記され、その後、アラビア文字に表記される度にSingaan⇒Singaalと変化していった。フランスの植民地時代には、フランス式の綴り字の規則に従い、Sinegalと表記され、それが最終的に現在のSénégalとなった》とのことです。
16世紀に書かれた、フランソワ・ラブレーの『第二の書 パンタグリュエル物語』には、パンタグリュエル一同を乗せた船が、『ブランコ岬、セネガル、ヴェルデ岬…を経て、)』と記述されています。原文を見ますと、セネガルに対応する言葉は『Senège』となっていて、これは、当時の『セネガ王国』に相当し、フランスでは『Senège (スネジュまたはセネジュまたはセネゲ)』と呼ばれていたと思われます。
地名については、ラブレーは、後述するカダモストの『航海の記録』を参考にしているようです。
因みに、環状列石群のある、シン・ンゲイエンヌは『Singhaana』時代の名残りで 『Singhaanaの住人』という意味です。
《ポルトガルの接近》
サハラ交易に遅れて参入したポルトガルは、北アフリカの商人を介する取引をあきらめ、1440年頃から、大西洋岸からアフリカの内陸部に直接接触する可能性を探求し始めます。
《ヴェルデ岬》
大航海時代、ポルトガル人の年代記作者アズララは、アフリカ航海に関係した人々の話しを聞きとり、1453年、『ギネー発見征服誌』をあらわしました。その中で、ポルトガル王国のディニス・ディアスが、1444年に現在のセネガル沿岸をヨーロッパ人として最初に通過し、アフリカ大陸最西端の岬に「ヴェルデ岬(緑の岬)」(現在のダカール)と名付けた事や、ゴレ島に上陸したことを報告しています。
《アズララの記録》
また、ゴメス・ピレスが率いる船隊の航海について、アズララは、「カラヴェル船がセネガル川沖合を通過し、南下してゆくと、沿岸一帯から『上等の果物』の香りが漂ってきて、海上にいるにもかかわらず、果樹園の中にいるようだった」と紹介しています。(60章)
《カダモストの見たセネガル》
ヴェネツィア出身の23歳のアルヴィーゼ・ダ・カダモストは、ポルトガルの航海王子エンリケの勧誘に応じ、1455年から西アフリカを航海し、帰国後、『航海の記録』を書きました。彼のセネガルに関する報告は、明快で生き生きとしていて、河島英昭氏の名訳により、カダモストの当時の感動を共有することができます。ちょっと長くなりますが、ここで引用いたします:
「さて、翌日も相変わらず陸地を望みながらわれわれは航海を続けた。ヴェルデ岬を越えたところは入り組んで湾になっていた。海岸線は美しい緑の大木で一面に覆われている。…いずれも我が国でいう常緑樹、つまり一年中枯れない木だ。…そういう木々が渚から大弓を放てば届くほどの近くまで一面に密生しているので、あたかも樹木が海から生えているようにみえる。それは、いかにも美しい光景だった。洋の東西にわたり、各地を航海してきた私の経験をもってしても、これほど美しい海岸線は見たことがない」(34章)
「ライオンや豹の類の野獣は非常にたくさんいる。オオカミ、鹿、野ウサギも多い。他の地方と異なって彼ら(セネガ王国の人々)は象を飼わないから、この地方には野生の象がたくさんいる。わが国の森林に豚が遊ぶように、野生の象があちこちに群れをなして徘徊している」(28章)
「(セネガ王国の人々は)慈悲心が豊かで、たまたま自分の家を訪れた外国人に食べ物を与えたり、飲み物を提供したり、時には食事をさせたり、ただで泊めたりもする」(19章)
《ポルトガルによる奴隷貿易の始まり》
ポルトガルはそのうち金よりも、サトウキビプランテーションに必要な労働力、つまり、黒人奴隷を獲得し、新大陸に送るようになりました。1510年、ゴレ島から、最初の黒人奴隷をハイチに輸出しました(因みにザビエルの来日は1549年で、ポルトガル商人が日本人奴隷を売買し始めたのは、16世紀後半のことです)。
《マンゴ・パークとセネガル》
1795年、イギリスの探検家マンゴ・パーク(1771~1806)は、第1回目の探検で、最初にガンビア川河口に到着し、セネガル川上流域を通過して、タンバクンダに立ち寄り、ニジェール川に向かいました。念願だったニジェール川に到達後、さらにティンブクトゥまで進もうとしましたが、「生きて帰れる見込みは、まずない」と言われ、探検の続行を断念し、故国に帰る決断をします。ガンビアに戻ってアメリカ行きの奴隷運搬船に乗り込むことができたパークでしたが、奴隷で満船にするため立ち寄ったセネガルのゴレ島では、食料調達のため1797年6月末から10月初めまで引き留められることになりました。
1805年の第2回目の探検では、まずゴレ島に行き、前回と同じガンビア川河口からタンバクンダを経由し、ニジェール川探検の旅に出ました(しかし、黄金の都ティンブクトゥに足を踏み入れることができなかったうえ、ニジェール川河口まであとわずか800kmというところで原住民の攻撃に遭い、命を落としてしまいます)。
《ルネ・カイエとセネガル》
マンゴ・パークに憧れていたルネ・カイエ(1799~1838)は、1800年フランスのモーゼの貧しいパン職人の家に生まれました。(父親は、カイエが生まれる4ヶ月前に無実の罪で12ヶ月の監獄刑を言い渡され、服役中でした。) 幼い頃からロビンソン・クルーソーなどの冒険物語に熱中し、小学校を出た後、靴屋で働き始め、1816年、16歳の時、祖母からもらった60フランを持って船でセネガルのサン・ルイに向かいました(ちょっと横道にそれますが、当時カイエが乗ったロワール号は、フランス海軍の軍艦メデューズ号の同行船でした。先頭を帆走していたメデューズ号は、サン・ルイの北方の海上、現在のモーリタニア沖合のアルギン礁で座礁してしまい、乗組員や乗客147名がいかだに乗り込んで避難しました。しかし、いかだは荒海をあてもなく13日間さまよい、救出された時はそのほとんどが死亡し、生き残っていたのはわずか15名だけでした。この事件をフランス政府はひた隠しにしてきましたが、漂流中、いかだの上では、殺人、食人などおぞましい非人間的な行為が行われていたことが明るみになりました。画家のテオドール・ジェリコーは、3年後、この悲劇的な出来事を大作『メデューズ号の筏』に描きました)。
カイエはサン・ルイに到着すると探検隊に参加。セネガル川河畔にあるバケルに滞在していましたが、健康を害し、フランスに戻らざるを得ませんでした。
しかし、アフリカ探検の夢を捨て切らず、24歳の時、再びセネガルに戻ります。
1826年、パリの地理学協会が伝説の都市ティンブクトゥを発見した者に、10,000フランを与えると発表しました。これに挑戦することを決めたカイエはまず、モーリタニアのブラクナでアラブ語やイスラム教を学び、イスラム教徒になった後、1827年4月19日、ギニアのカコンディ(現在のボケ)から、マンディング人の隊商に紛れ込んでティンブクトゥに向かう旅に出発しました。
幾多の過酷な苦難を乗り越え、1828年4月20日、カイエは誰もがなしえなかったティンブクトゥに到着しました。その時の感動を、カイエは旅行記『ティンブクトゥへの旅』でこう伝えています。
「幸運にも、私達は太陽が地平線に沈む頃、ティンブクトゥに到着した。私は、長い間憧れの的だったスーダンの首都を眺めた。ヨーロッパの文明国家から何度も探検隊が送られ、謎に包まれていたこの街に入ると、表現できない満足感に襲われた。このような感覚に陥ったことはかつてなかった事で、私の喜びは絶頂に達した。…….しかし、この歓喜から我に返ると、私の目の前に広がる風景が、私が思い描いていたものではない事に気付いた。私は、この街が偉大で、富に栄えているという全く別の思いを描いていたのだ。一見して、街は泥で出来た貧弱な造りの建物だらけだった。周囲には白色から黄色に変わる広大な砂漠が殺伐と広がっていた。地平線の空は、精彩の無い赤色で、自然の中のすべてがうら寂しいものであった。深い静寂が支配し、一羽の鳥の鳴声も聞こえなかった」(筆者訳)
かつて黄金の都として繁栄を誇っていたティンブクトゥの姿は、もはやそこには無く、カイエの失望は大きかったと思いますが、14日間のティンブクトゥの滞在は、カイエにとってとても「幸せな時間」だったようです。
銘板には、『1827年4月19日、ルネ・カイエはこの地を出発し、ティンブクトゥを訪れた後、1928年9月1日タンジェに到着した』と記されています。
余談ながら、サグラダ・ファミリアを設計したアントニ・ガウディは、ティンブクトゥにある泥土で建てられたサンコレ・モスクの様式に啓発されたと言われています。
《ロティとお蝶夫人》
フランス海軍士官、ピエール・ロティは、1873年~1874年までセネガルのサン・ルイに滞在し、ここで、『アフリカ騎兵』の構想を得ました(この間、ロティは、政府高官の人妻と激しい恋をし、同時に、混血女性、クンバ・フェリシアとも関係を持っています)。 その後、1885年7月8日に長崎に入港、おかねさんと同棲を始め、9月に長崎を離れました。2年後におかねさんとの生活を作品にした『お菊さん』をフィガロ紙に連載。
日本に憧れていた画家のゴッホは、1887年に『お菊さん』が刊行されると、飛びついて購読したとのことです。また、海野弘氏によると、若い時からロティを愛読していたマルセル・プルーストは、『花咲く乙女たちのかげに』を書くにあたり、『お菊さん』をもとにしていたようです。その理由として海野氏は『お菊さん』に描かれている数箇所の場面を挙げていますが、そのうちの1つを次に引用します:
「彼女等は五人とも皆んな手をつなぎ合わせる。丁度散歩に出た小さい娘たちのやうに。さうして、私たちは知らぬ振をして後からついて行く。斯うして後から見ると、此の人形(プウペ)たちは、髪をきれいに揚げて、鼈甲のかんざしを意氣にさした様子が實に可愛らしい。彼女等は高い下駄でいやな音を立てながら、流行で品のよいことになってゐる内鴨な歩き方をしながら練って行く。絶えず彼女等は笑ひ聲を出してゐる。
實際、後から見ると、彼女等は可愛らしい。彼女等はすべての日本の女のやうに、華奢な小さな首筋をしてゐる。その上、斯んな風に大勢して並んでゐると、彼女等はおどけてゐる…..」(『お菊さん』野上豊一郎訳)
小説『お菊さん』は欧州各国で評判になり、フランス人作曲家アンドレ・メッサージェが音楽喜劇『お菊夫人』を作曲し、1894年パリのルネッサンス劇場で初演され大評判になりました。アメリカの小説家ルーサー・ロングはこれに触発され、短編小説『蝶々夫人』を発表すると、劇作家デイヴィッド・ベラスコが舞台劇に脚色し、ニューヨークのヘラルド劇場で上演されました。ロンドンに旅行に来ていたプッチーニは、ベラスコの舞台劇『蝶々夫人』を観てインスピレーションを受け、オペラ『蝶々夫人』を作曲することになります。
《セネガルを最初に訪れた日本人》
セネガルを最初に訪れた日本人は(公式の資料に残っている限りでは)「西南部アフリカ綿布市場調査団」のメンバーと思われます。調査団は、まずロンドンからフランスのマルセイユに入り、そこから船でカサブランカを経由して、1930年12月5日ダカール港に到着しました。
(残念ですが、1582年~1590年の天正少年使節団はセネガル沿岸を素通りしただけでした。)
《サン・テグジュペリとセネガル》
『星の王子様』は、作者のサン・テグジュペリが砂漠に不時着した場面から始まります。エールフランスの前身である郵便飛行会社ラテコエール社のパイロットだったサン・テグジュペリは実際、何度も不時着事故を起こしていて、1927年、カサブランカからダカールに向かう途中、飛行機が故障しセネガル河に近い村落に不時着しました。その時の状況を、ダカールから母親マリーに宛てた手紙にこう記しています。
「飛行機が故障したので、セネガルの現地人の家で一晩過ごしました。持っていたジャムをお礼にあげたらとても喜んでいました。かれらは、西欧人とジャムを今まで一度も見たことがなかったのです。私がむしろの上に横たわっていると、村中の人達が私を見に来ました。私がいた小さな部屋に一度に30人くらい村人が集まりました。午前3時、月明かりの下、2人のガイドを伴って、馬に乗りダカールに向かいました。私はまるで《年老いた探検家》のようでした」(筆者訳)
1994年7月31日午前8時30分、サン・テグジュペリは、グルノーブルを偵察するため、コルシカ島のボルゴ空港を飛び立ち、ニース沖で消息を絶ちました。『星の王子様』は、サン・テグジュペリの「心の遺言」だったのかもしれません。
《翼よあれがダカールだ》
1939年8月26日、世界一周の旅に出た日本の純国産機「ニッポン号」は、1939年10月5日、日本の飛行機として初めて大西洋無着陸横断飛行を成し遂げ、戒厳令下のダカールに到着しました(9月1日に、ドイツがポーランドに侵攻したため、イギリスとフランスが宣戦布告し、第二次世界大戦が勃発。ダカールはフランス領だったため戒厳令が敷かれ、「ニッポン号」は何度も着陸の交渉を重ねました。その結果、「飛行禁止区域の尊重」を条件に、フランス参謀本部から着陸許可が下りました)。
その後、「ニッポン号」は戦火のヨーロッパルートをあきらめ、ローマ、ロードス島、バンコクを経由し、10月20日、故障ひとつなく無事日本に帰還することができました。
(翌年、日本は第二次世界大戦に突入してゆきます)
《ゴレ島を訪れたスーパー・スター》
1974年、1月29日、ザ・ジャクソン5がダカールに到着しました。まずホテル・テランガにチェックイン。2月1日、デンバ・ディヨップ・スタジアムで最初のコンサートを行い、続いてソラノ国立劇場でコンサートを行いました。滞在中、彼らは奴隷の集荷・発送基地だったゴレ島の奴隷の家を訪れ、奴隷が単なる物として扱われていた説明を聞いた時は、大変ショックを受けたようです。
当時、メンバーの一人で16歳だったマイケル・ジャクソンは、「セネガルを訪れて気づかされたことは、『現在の僕たちがあるのは、僕たちの心に受け継がれているアフリカの魂のおかげである』ということだった。僕たちはゴレ島にある奴隷の家を訪れ、とても心が揺さぶられた。アフリカの人々は僕たちに勇気と忍耐の模範を示してくれた。この恩恵に報いることは到底できないような気がする」(筆者訳)と自伝『ムーンウォーク』の中で回想しています。マイケル・ジャクソンはゴレ島の訪問により、自身のアフリカのルーツを再認識したと思います。
また、マイケルの父、ジョー・ジャクソンは、セネガル滞在中の思い出をこう振り返っています。「私達がニューヨークからダカール空港に到着しタラップを降りると、熱狂したファン達が歓迎の歌を歌い、太鼓を打ち鳴らし、『ジャクソン5 ! ジャクソン5 ! 』と叫んでいました。そして輪になってダンスを始めると、輪の中に私の子供達を引き入れ、一人ずつ順番にダンスに誘いました。マイケルは最後に踊りましたが、まるでアフリカ人のように踊ったのです。それは本当に驚きでした。ファンの人達はとても喜んで、すぐにマイケルを仲間の1人として受け入れたのです」(筆者訳)
ひょっとしてマイケル・ジャクソンのルーツは、セネガルかもしれません(👈 個人の想像です)。
《本題》
以上、長々と書いてきましたが、ここからが本題です。
今まで世界で起こった出来事は、一見、独立した「点」のように見えますが、俯瞰して見て見ると、それらのすべての点は、実は見えない線でつながっていて、私達一人一人と緊密につながっているのです(すべての物がつながり、すべての人がつながっていることを皆さんに感じてもらうため、このホームページは敢えて改ページしないことにしました)。
1991年6月。私は、日本政府の無償援助で行われた「セネガル共和国地方都市給水網整備計画」の基本設計調査団に通訳として同行し、初めてセネガルと出会うことになります。それ以来、私とセネガルとの長い付き合いが始まり、良い意味での「腐れ縁」が、30年以上続いています。
私が携わってきたセネガルのプロジェクトは、村人達に飲料水を供給するプロジェクトで、常に苦難の連続でしたが、それを乗り越え、村人達が目の前の水栓から水が出るのを見て大喜びし、プロジェクトの成功を分かちあった時の感動は今も忘れることはありません。セネガルの滞在は私にとって、ティンブクトゥにおけるルネ・カイエのように「幸せな時間」でもありました。
私が特にセネガルに親しみを感じるのは次の理由によります:
・セネガル人も日本人も「おもてなし」の精神がある(セネガルでは「おもてなし」に当てはまる言葉に、「TERANGA」という言葉があります)。
・セネガル人も日本人も魚を食べるのが好き。
・セネガル人も日本人も豆類が好き(セネガル人は落花生、日本人は大豆・小豆製品を好んで食べます)。
・森本哲郎氏によると、セネガルのウォロフ族の言語が南インドのタミル語ときわめて酷似しているという説があるそうです。もしタミル語とウォロフ語との間に何らかの関係があるとすれば、タミル語と関係があると言われている日本語がウォロフ語とも関係があることになります。日本語のルーツはウォロフ語?と考えただけでもワクワクしませんか。
・セネガルの初代大統領で、詩人でもあり、日本の俳句をこよなく愛したレオポール・セダール・サンゴールの誕生日が私と同じ10月9日(ジョン・レノンとその息子ショーンの誕生日も10月9日です)。
セネガルに行ったことがある人へ
セネガルに今滞在している人へ
セネガルにこれから行く人へ
セネガルのことをもっと知りたい人へ
そして、アフリカに興味がある人へ
セネガル滞在中に撮った多くの写真や収集した資料・文献をこのブログで紹介してゆきます。観光ガイドブックでもなく、文化人類学の学術・研究書でもない、ちょっと変わった切り口でセネガル文化へのアプローチをめざします(写真の画質はあまり良くありませんが御容赦ください)。
1ヶ月にⅠ度くらいのペースで更新する予定です。お楽しみに!?
この『セネガル案内図鑑』を配信するまでに随分と時間がかかってしまいました。
当初は、『セネガル図鑑』というサイト名を考えていましたが、私がぐずぐずしている間に、JICA青年海外協力隊セネガル隊有志の方々が運営する『セネガル図鑑』に先を越されてしまいました。(こちらの『セネガル図鑑』の閲覧もお勧めします)
しかしながら、長い間《有言不実行》で守れなかった約束が、この『セネガル案内図鑑』により、やっと果たされたことに、私自身ほっとしています。
そして、ずっと置き去りにされてきた写真たちや資料たちが、今ここでようやく日の目を見ることができ、ブログにおける彼らの存在感に私は誇りさえ感じます。
このブログにより、皆さんにとってセネガルがもっと身近になれば、これ以上幸せなことはありません。
P.S.
記事によっては、結構長い記事もあり、退屈する人もいるかと思いますが、情報を求めて私のブログにアクセスしてきた人には、Maxの情報を提供したいと思い、一見、無用と思われる情報もボツにしないで、そのままにしてあります。
今まで一緒に闘ってきた同志の「写真たち」や「資料たち」をできるだけ《生かして》あげたいというのが、私の正直な気持ちです。
時間があるときにぼちぼち読んでみてください。
《参考文献・Webサイト》
・脳科学メディア [特集]宇宙・地球・生命・人類の誕生と起源、進化の137億年の歴史
・BPプレミアム『ヒューマニエンス’’塩’’進化を導いた魔術師』(2022年1月17日放送)
・体感 !グレートネイチャーSP『オーストラリア唯一無二の絶景』(2021年5月8日放送)
・『自本人はどこから来たのか?』海辺陽介 (文藝春秋)
・旧約聖書
・『世界探検全集 第五巻 アフリカ探検 上』萬里閣書房版
・『世界探検家事典』 日外アソシエーツ
・『ハンノの航海史料に関する一考』楠田 直樹
・『Notice du pays des Noirs』Al-Bakry
・『Sénégal n’est pas Sunugaal ou De l’éthymologie du toponyme Sénégal』Saliou KANDJI Presses Universitaires de Dakar
・『第二之書 パンタグリュエル物語』ラブレー 渡辺一夫訳 (岩波書店)
・『Pantagruel』Rabelais (Le Livre de Poche Classique )
・『ギネー発見征服誌』アズララ 長南実 訳 (岩波書店)
・『航海の記録』カダモスト 河島英明 訳 (岩波書店)
・『ピエル・ロティの館』岡谷公二 (作品社)
・『プッチーニ 蝶々夫人』戸口幸策 (音楽之友社)
・『ピンカートンの息子たち』斉藤憐 (岩波書店)
・『プルーストの部屋』海野弘 (中央公論社)
・『お菊さん』ピエル・ロチ 野上豊一郎訳 (岩波書店)
・Sur les pas de Pierre Loti au Sénégal
・『ニジェール探検行』マンゴ・パーク 森本哲郎・廣瀬裕子 訳 (河出書房新社)
・『アフリカ探検 上』原田三夫・松山思水 編 (萬里閣書房)
・『サハラが結ぶ南北交流』私市正年 (山川出版社)
・『ムーンウォーク』マイケル・ジャクソン自伝 田中康夫 訳 (河出書房新社)
・『マイケル・ジャクソン全記録 1956-2009』エイドリアン・グラント 吉岡正晴 訳
(株式会社ユーメイド)
・The Jackson 5 arrivent en Afrique – le 29 janvier 1974 On Michael Jackson’s footsteps
・『Voyage à Tombouctou』 René Caillé (LD/La Découverte)
・『Saint-Exupéry Oeuvres complètes 』Bibliothèque de la Pléiade
・『翼をください』原田マハ (角川文庫 上下巻)
・『探検コム 世界一周飛行の夢 「ニッポン号」5万キロの飛行記録 』
・『ご先祖が二本の足で歩いた道をジェット機でたどれば』森本哲郎 (週刊朝日1981年
2-15増刊号)
・『Dictionnaire wolof-français』 Editions KARTHALA
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