セネガルの現代美術 3/5

【セネガルの現代美術  3/5】

《アーティストたち》

ムスタファ・ディメ  Moustapha DIME

1952年、サン・ルイに近いルガLougaの良家に生まれる。

1992年の第3回ダカール・ビエンナーレでグランプリを受賞。

1998年6月30日サン・ルイで死去。

イスラム教ムーリド教団の忠実な信者で、ムーリド教団の創始者シェイク・アマドゥ・バンバを崇敬していた。

ディメは子供の頃、木が好きだった。木の色や匂いや肌触りに魅せられ、将来は、木と関わりのある仕事につくことを夢みていた。

彼が育ったルガ市周辺にはハル・プラール族の「ラオべ」というコミュニティーがあり、そこにはカースト制度の下層階級で木の仕事をする木こりや木工職人がいた。

木の彫刻をやりたいと父親に言った時、父親は猛反対し、経理の勉強をするよう諭した。

自分の夢を捨て切れず、父と決別し、木を素材とした作品を多く作るガンビア、マリ、ブルキナファソ、コートジボワール、ガーナ、トーゴ―、ナイジェリアを旅した。彼はそこで、伝統的な彫刻の⦅美⦆と⦅深い神秘性⦆を発見した。現地では生活費を稼ぐため、木の彫刻を作り、二束三文で販売していた。

旅の途中、「芸術家になるなら、ダカールの美術学校で学ぶことが必要だ」と考え、ダカールの美術学校に入学したが、授業を受けるうちに、「美術学校では《芸術》を学ぶことはできない、人生を学ぶことはできない」と悟り、美術学校を中退。

彼は自然のままの材料だけを組み立てて作品を作り始めた。また、ダカール市やコロバン地区の道で、釘や針金や紐を拾い、漁師から古い船の木材を買い取り、それらを利用して作品を作った。作品を作る時、西欧の「美の基準」に迎合することはしなかった。

水で傷んだ古木、錆びた鉄、廃材など、一度死んだ⦅物体⦆に命を与えた。自然環境に適合しながらも、不均質で奇抜な作品を作ることから《再創造者》と呼ばれた。時代の空気、時流に乗り、高く評価され、ダカールのフランス文化センターでグループ展が開かれた。

90年代の初め、あるヨーロッパの大使は、植民地時代にゴレ島の警護に使っていた小さなトーチカの1つを修復し、ディメにアトリエとして貸し出すというアイデアを出した。

ディメは2年をかけてトーチカの使用許可を文化省に申請し、取得することができた。

1993年、それまで住んでいた芸術村を離れ、このトーチカに移り住んだ。鉄の廃材や、浜辺や海岸に打ち上げられた流木や船の残骸などの漂流物を利用して作品を作り始めた。

海辺に立つディメのアトリエ

波の音を聞きながら、彼は木や金属や漂流物を組み立て、自然に近い、虚飾の無い、洗練された宇宙を創造した。大西洋や人間が放棄した材料を変貌させ、力強く、霊的な記憶を呼び起こす作品を創り出した。

彼は、崖下の岩礁に座って大西洋の水平線を長いこと見つめていた。そして突然、すごい速さで2~3の作品を作り上げた。木材をまず紐で固く結び、次に鉄片に縛り、感性に任せていろいろな廃材を調和させて組み立て、命を吹き込んでいった。彼はそれを「Grâce(恩恵)」と呼び、物体の本質、肉体、心、魂に到達しようとした。

ゴレ島の浜辺や岩場で拾った鉄材、木片、舟の残骸、そして海の塩と太陽によって傷みつけられ白くなった漂流物、半割のひょうたんのボウル、錆びた釘、ロープ、杵、臼、タカラ貝など庶民の日常生活に馴染みの深い物を使用し、作品を鑑賞する人との絆を築いた。

(ある日、女友達が廃棄されたピローグ(小舟)をディメにプレゼントした。彼はそれを大変気に入って、ただ手で撫でるだけで作品に使おうとしなかったという)

彼はまた、波に揉まれて丸くなった木片が好きだった:

「私が特に木片が好きなのは、木の表面に⦅水の物語⦆があるからです。それは人間の顔と同じですべての実体験を表しています。私はこの物語の中でそれらを自由に放ち、価値を与えたいのです。」と述懐している。

役に立たなくなって廃棄され、見捨てられた物質を変身させることにより、第2の命を与えていた。

かつて果実をつけていた木の枝は、大西洋の海と太陽の輝きによって研磨され、新しい形となる。そのような素材に魅力を感じ、彼は『大いなるダンス』という作品を創った。

その後、サンゴール大統領の奨学金を得て、マリのドゴン地方に行き、「ボゴロン染め」のテクニックを学んだ。当時を振り返って言う:

「僕はアフリカの伝統芸術をたくさん勉強した。アフリカの人たちは、物をつなげる時、ヒモや釘を使っていた。手元にあるすべての物を使っていた。僕はこの《自由さ》を学んだ」

芸術は人の魂だ。材料を使い、それで作品を作るというだけのことではない。むしろ、そこから生じる精神の問題である。なぜならば、自分から他の人に与えることを私たちの心は必要とするからだ」

「アフリカは常に僕の体に流れている。それは僕の彫刻の中で生きている。」

ディメが制作したボゴロン染め

ローランス・アタリ監督のドキュメント映画ムスタファ・ディメ』(1994年製作 12分)を観た:

ディメは背が高く、鼻すじがスッと通っていてかっこいい。俳優にしてもいいようなイケメン。野性的な中に優しさを秘めた男。男でも魅力を感じるほどカッコいい。一度会ってみたかった。

ディメの作品の4分の3は「女性」がテーマであるが、それについてディメは言う:

「作り始める時は、女性は全く頭にないのだが、最後には、女性がモチーフになっている。女性の《美》に惹かれる。セネガルのすべての女性が彫刻であり《美》である。セネガル女性が世界で最もチャーミングだ!まさに⦅美の反映⦆である」

ディメが映画の中で言った次の言葉も印象的だった:

「確かに、私は光しか夢みていない」

「作品を作る時、「創造」と「想像」の扉が開くまで待つ。その時が来るまで待ち、無理矢理扉を開こうとしてはいけない。」

「すべての要素が調和に貢献している」

「私には海と大地と空が見える」

シンプルな事を言っているが、詩的で哲学的でとても意味深い。

1992年、セネガル人として始めて、ダカール・ビエンナーレでグランプリを受賞し、翌年、由緒あるヴェネツィア・ビエンナーレに作品が展示された。

晩年は、徐々に彫刻をすることが少なくなり、イスラム教への信仰が深くなっていった。物の⦅命⦆を信じること。見られるために存在するこの世界の美を信じること。それが彼に大切なことだった。

「ある朝、目が覚めて、僕はできるだけ自然に、そしてシンプルに、僕自身でありたいと思った。自分の人生を複雑にすることはやめ、僕が好きな素材を使うことにした。すると、すべてが簡単になった。身が楽になった」

1998年6月30日、ディメは46歳でこの世を去った。

筆者がディメという彫刻家を知った時、彼はすでに亡くなったいた。生きていれば絶対インタビューに行ったのだが、それももはや叶わなくなった。

盟友だったセネガルの彫刻家、ウスマン・ソウが次のような弔辞を残している:

「君は死ぬ数日前に、パリの芸術橋に娘さんと一緒に来ると私に約束した。しかし私はその時の君の眼から、君がそれを信じていないことは分かっていた。今日、運命が僕たちの展覧会を結びつけることになった。僕の展覧会が終了する日に君の回顧展が始まる。僕が思うに、物事を観察したり、指図したりするのは、君の方が良い位置にいると思う。ムスターファ。パリ市庁舎のサン・ジャン室で行われる君の回顧展に幸運を祈る。僕は行くよ」(筆者訳)

筆者もディメの回顧展に行った。

1999年6月~9月、パリ市庁舎のサン・ジャン会場で回顧展が開かれた。筆者は、一時休暇で日本に帰る際、パリに立ち寄って回顧展を見に行った。それまで、カタログだけでしか見ることができなかったディメの作品を、初めて間近で鑑賞することができた。

ディメの回顧展が行われたパリ市庁舎

ディメの作品 『大いなるダンス』

作品を見て思ったこと:

作品は美しかった。一分の隙もないほど完璧な美の均衡があった。そして日本の「わび・さび」に通じる静かさと謙虚さと奥深さを感じた。

ディメは《物質》自体が持つ命を大切にし、その美しさを信じていた。1990年代のあの狂乱の消費の時代に、街に捨てられていた物をコツコツと収集し、海岸に打ち上げられた漂流物を拾い、それらをリユースして、物質が持つ《本来の美しさ》を再生させた。また、彼はマリやコートジボワール等の国々に行き、彫刻や仮面の勉強をして、《アフリカの魂》を自分の心に蘇らせた。その結果、彼の作品には、アフリカの原始美術を見た時と同じ驚きと感動がある。彼は本能的にアフリカ原始美術の美に《回帰》していたのかもしれない。

ゴレ島の最西端に、大砲が設置されている丘があり、その丘の断崖の下に、大西洋が穏やかに広がっている。波打ち際には、歴史を感じさせるトーチカがひっそりと建っていて、そのトーチカがディメのアトリエだったことを知ったのは、彼の死後だった。ある日、アトリエまで降りて行くと、彼の助手のガブリエルがいて、アトリエの中を快く案内してくれた。そこには、彼の遺品と言える作品たちが、波の音の中で静かに並んでいた。その作品の一つ一つを見ながら、なぜディメともっと早く会えなかったかと悔やんだ。

ディメの作品《空想の動物たち》や《ファラオ》は、世田谷美術館の収蔵品となり、2018年~2019年に開催された『アフリカ現代美術コレクションのすべて』で展示された。

ポスターの彫刻はディメの作品
⦅空想の動物たち⦆

ディメの作品は、ニューヨークのモダン・アート美術館にも所蔵されている。

ディメが率直にそして情熱的に語ったインタビューを以下に紹介する。彼の彫刻に対する姿勢、芸術への思いは、他の画家たちにも通じると思う。

ベルギーの美術評論家、ダニエル・ソティオDaniel Sotiaux氏との対談 (筆者訳):

ソティオ:どのようにして彫刻家の道を選んだのですか?

ディメ:私は彫刻とは全く関係ない家に生まれ、《ラウベ》の人達が住む地区の近くに住んでいました。《ラウベ》とは、木を生業としたコミュニティのことで、学校ではその子供達と仲が良かったし、一緒に遊んでいました。《ラウベ》は彫刻家ではなく、本来は、木こりですが、木を使って道具や家庭用品も作っています。

私が小学校を卒業すると、父は、私に勉強を続けることを許してくれました。私はダカールに行き、工芸養成学校に入学しました。そこには、家具/彫刻コース、時計コース、陶芸コース、宝石コース、籠(かご)細工コースなどいろいろなコースがありましたが、私は家具/彫刻コースを選びました。そのコースを選んだ理由は、ルガにいた時、友達と木を触り、木を扱うことを学んだからです。そして、廃材を使って工作をしたり、拾ったブリキや針金で人間や動物を作ったりしました。土遊びも好きでした。

3年経って、私はいろいろな技術を取得しましたが、何かが足りないと感じていました。家具よりも彫刻の勉強を続けたいと思いました。しかし、私の家族は私が彫刻の道を選ぶのは望んでいませんでした。

ソティオ:なぜですか?

ディメ:ルガでは、《ラウベ》という社会的に最も低い階級に属する人たちが木工の仕事をしているからです。ルガはとても保守的な街で、私でさえもルガに帰ると、彫刻の仕事をしているという理由だけで人々から白い目で見られるのです。

ソティオ:あなたの家族の反応はどうでしたか?

ディメ:父は、工芸養成学校で勉強をするために私をダカールに送り出した時、私が将来、木を利用した仕事をしたいと思っていたことを知りませんでした。その後、私の選択を知った父は、私を勘当しました。私は、学校で技術を習得したことで、私自身、何をしたいか分かっていました。もう後戻りすることはできませんでした。1968年代当時は、世界は《反抗の時代》でした。その時代の風潮が、私に闘う勇気をくれました。家族は、「おまえがやろうとしている事は、決して許される事ではない。おまえが学校で学んだことは時間の無駄だった」と非難しました。それを聞いて私は、家族の助けは借りないで、これからは自分一人でやって行こうと決めたのです。この選択は大変辛く苦しかったのですが、私は闘いました。当時、私は工具を持っていませんでしたので、学校にあった工具を4~5個盗みました。悪いことだとは分かっていましたが、私にとってそれが唯一の解決方法だったのです。

私はすぐにその工具を使って作品を作りました。私の初めての作品でしたが、いくつかを売ることができました。そして、しばらくたって、私はガンビアに行くことに決めたのです。

ソティオ:イスラム教は偶像を禁止しているので、彫刻をつくるというのはイスラム教の教義に反しているのではないでしょうか?

ディメセネガルに存在していたすべての偶像は、9世紀にイスラムによって一掃されました。すべてが取り壊されたのです。セネガルには、この時代を想起させるものは何もありませんが、隣国のマリやギニアには残っています。セネガルは地理的に条件が良くなかったため、すぐにイスラム教に征服されてしまったのです。サハラ砂漠を超えて最初に現れる国がセネガルだったからです。宗教と植民地支配がセネガルの文化の根源を破壊してしまいました。セネガルの伝統文化が存続することは受け入れられなかったのです。

ソティオ:あなたは、数世紀前に消滅したセネガル文化の根源の痕跡をあなた自身に感じることがありますか?

ディメ:現在の私たちは、祖先から脈々と続いて来た結果であり、同時に、途中経過でもあります。私は、長い間祖先から継承されて来たDNAを私自身の中に感じることがあります。

ソティオ:あなたは拾い集めてきたもので作品を作っていますが、その「拾ってきた物」は、あなたの作品を鑑賞した人々が、自身のルーツを見出すきっかけとなったでしょうか?

ディメ:面白い話があります。1993年に私は《ギャラリー39》で個展を開きました。多くのセネガル人が私の作品を見てくれました。その人たちはいわゆる文化人ではなく、普通の人たちですが、小舟の木で作った私の巨大な彫刻を見て、大きなショックを受けていました。

作品の材料が彼らに話しかけたのです。作品の人物が、杵や、臼や、水かめや、ひょうたんで出来ているのを見て、驚いたのです。私が造る人物たちは彼らにとって親しみやすかったのだと思います。

私の作品の人物たちは、「人はまだ時間と空間を超越していない」ことを示唆しています。

『セレール族の女性』

ソティオ:あなたは⦅アフリカ⦆を見つけることができましたか?

ディメ:美術学校でさえアフリカの美学に関する講座はありませんでした。私はアフリカを見つけるために暗中模索をし、人と出会ったり、旅に出ました。それで分かった事は、私は私がアフリカ人であることを探し求める必要はない、ということでした。なぜなら私はアフリカ人だからです。それを証明する必要もありません。アフリカは私の体の中に流れ、常にそこにいます。アフリカは私の彫刻の中に生きています。私の彫刻が成熟しているかどうか私にはわかりませんが、それが私の中で成熟していることを私は知っています。

アフリカの現代美術を作り出すことは、西洋から見たアフリカの美術を作り出すことだと思われていますが、それは私達の美術ではありません。私たちの美術は《普遍的な美術》でなければならないのです。

ソティオ:本質は….

ディメ:本質は人間です。人間はすべてのエネルギーとすべての創造力の源ですが、常に足かせをはめられています。アフリカでは、人は、軍隊や植民地支配や宗教の征服によって足かせをはめられました。しかし、人々が抵抗をしなかったため、自分自身で足かせをはめることになったのです。

ソティオ:記憶を蘇らせることは人間を解放することですか?

ディメ:もちろんです。人はあらゆる手段を使って、埋もれた自分の力を解放するよう努力しなければなりません。人は自分自身で解放されなければならないのです。

ソティオ:そのように人間が目覚めるためには、芸術は重要だと思いますか?

ディメ芸術は夢見ることを促し、夢は解決策を見出します。

ソティオ:あなたの彫刻は夢の起爆剤となり得ますか?

ディメ:彫刻が仲介役となることは望みません。ただ、人が自分自身の力を夢見るような感性を彫刻が引き出すことを望みます。

人間の夢を叶える最良の方法は、創造することです。人は自分自身の創造性を発展させなければなりません。自分自身の人生に合った創造をするのです。

ソティオ:あなたはとても抽象的な表現力を持っていますが、あなたの大部分の彫刻は、人間を表現しています。それはあなたの好みのテーマですか?

ディメ:人は完全に自由ではありませんが、私は⦅人間⦆を強く信じています。それ故に、私の作品の人物は、動いているように見えますが、多くの場合《待っている⦆のです。

ソティオ:あなたは漂流物を使って仕事をしていますが、制作途中で材料自体が作品の計画を変更させるということはありますか?

ディメ:私の考えは常に決まっています。私は作りたいものに合わせて材料を探します。材料がそろった時点で、私は仕事を開始します。

材料は《自然》です。私は自然を導きますが、自然を攻撃する権利はありません。材料を使って、生きている自然を再構築するよう心掛けています。

ソティオ:あなたの作品は時として《霊的》です。

ディメ:確かに。私はイスラム教のムーリド教団の信徒です。アラーの神を信じ、すべての預言者とのつながりを信じています。

私の作品は、神について語っています。より正確には、神が自分自身について語っているコーランの章句に基づいているのです。

私の作品には、イスラム教の西アフリカ征服を表現したものもあります。この征服は平和的ではなく、武力によるものです。誰も宗教を無理やり押し付ける権利はありません。各個人には選択する権利があるのです。宗教は《戦士》としてやって来てはいけないのですが、セネガルでは、それが起こってしまったのです。

今日、各々の芸術家は、《人間》という本質に戻らなければならないと思います。人間は、基礎であり、始まりであり、終わりです。それが人間です…

私は、自分の人生を成功させるため、常に自分自身がどこにいるか位置づけることを心掛けています。

『鳥』

アメリカの現代美術評論家トーマス・マケヴィリー氏との対談 (筆者訳)

ムスタファ・ディメが語る創作へのひたむきな姿勢、生きざま、苦悩、美術に対する情熱は他のアーティストたちにも通じるところがある。彼の話しの内容が大変興味深いので、対談のほぼ全文をここに引用する。

ディメ:私が若かった頃、私の街には、たくさんの自然がありました。しかし、自然は消滅し始めています。砂漠化が進んでいるのです。私は、ダカールから200km離れた、ルガという街で生まれました。セネガルが独立した後は、農業が最も盛んな地方の1つとなりました。

マケヴィリー:イスラム教徒が多い地方ですか?

ディメ:そうです。現在、イスラム教はアフリカの伝統文化に溶け込んでいます。私は、ムーリド教団の信者です。私たちは宗教によるアラブ文化への同化を拒否しました。むしろイスラム教の原理を、私たち固有の文化に適応させたのです。それ故に、セネガルはイスラム世界において特別な存在となっています。

マケヴィリー:セネガルの独立はいつでしたか?

ディメ:1960年です。私が生まれた地方には、歌や木彫や演劇やイニシエーションなど豊かな文化がありました。しかし、現在、状況は変わっています。ルガの住民は、アメリカ、フランス、イタリア、スペイン、日本など、世界のあらゆる国々に出稼ぎに行っています。文化および社会の階級制度の観点からすると、ルガは大変特別な街だと思います。なぜなら、グリオ(口承伝承者)や皮革製造職人や鍛冶工など多数のカースト階級が、今も存在しているからです。もちろん、カースト制度に属さない人も多数います。

マケヴィリー:カースト制度というのは、父親から息子に受け継がれる世襲制ですね?

ディメ:そうです。世代から世代に受け継がれています。ルガではカースト制度が定着していて、生活、特に人々の行事において重要な役割を果たしています。その意味ではルガは特別な街です。

マケヴィリー:カースト制度に属さない人はどのような人ですか?

ディメ:商人や、かつて、王様の家族に生まれ育った人たちや、王様の側近だった人たちなどです。彼らは、もう、王様でもなく、指導者でもなく、高官でもなく、普通の人と一緒に生活をしていますが、社会において今でも高い地位に就いています。たとえ貧乏でも、人々から尊敬されています。カースト制度に属さない人たちは、カースト制度に属する人たちに物質的な施しを行っています。

マケヴィリー:カースト制度の多くの仕事は世襲制ですか?

ディメ:そうです。私の父は、木を扱う仕事をするのを禁止していました。なぜならば、ルガではそれはカースト制度に属している人の仕事だからです。敢えて言えば、カースト制度に属する人々は、社会的および文化的階級において最も低い地位にいる人たちです。

マケヴィリー:あなたはカースト制度に属していない家の出なのですね?

ディメ:そうです。しかし、私には、カースト制度に属する《木こり》の家族の友達が5人いました。ルガの小学校で同じクラスでした。彼らの父親たちは、料理に使う燃料用の木を売っていました。それは、辛く、きつい仕事でしたが、私にとっては大変興味深い事でした。この友達が住む家の前に、大きな広場があり、その子の父親はそこで木を売っていました。私は常にその辺をうろつき、時々、斧で木を割るのを手伝っていました。そこでいろいろなノウハウを学ぶことができました。しかし、私の母は、私がカースト制度に属する人たちの仕事を、公共の広場で手伝っていることを好みませんでした。

マケヴィリー:木を扱う仕事をするということは、卑しい仕事と見なされるのですね?

ディメ:正にその通りです。極めて侮辱的なことです。家族にとっては、私はしてはいけない事をしてしまったのです。父は最初、私に何も言いませんでした。そのうち私の気持ちが変わると思ったのでしょう。父は会社の経理をやっていましたが、土地を持っていて、自分で土地を耕して農作業もしていました。私は小学校を卒業し、ルガを離れ、ダカールで美術の勉強をすることにしました。

マケヴィリー:ルガを離れたのは何歳の時だったのですか?

ディメ:1966年ですから、15歳の時です。私はとても頑固でした。何かをやろうと決めた時は、それはもうすでにやっていることと同じでした。ダカールには工芸養成学校がありました。そこでは、彫刻、宝飾製作、馬具製作、陶芸などを学ぶことができました。

マケヴィリー:それは、美術学校というより、装飾芸術学校ですね?

ディメ:そうです。私は美術学校にも行きましたが、それはずっと後のことです。私が行った工芸養成学校は、家具や装飾品を制作する職人を養成することを目的としていました。デッサンの先生、技術の先生、数学の先生、フランス語の先生、文学の先生、アトリエの先生たちがいました。

マケヴィリー:文学とは何ですか?

ディメ:フランスの歴史を学ぶのです。美術の歴史ではありません。当時、セネガルはフランスの植民地でしたので、フランスの歴史を学ぶのです。もちろん、フランス文学も学びました。

マケヴィリー:それは、フランス人はあなた達の文化の祖先という考えでしょうか?

ディメ:フランス人は常に、フランス文化への同化を私たちに強要しました。そして、私たちには文化は無く、文化はフランスの文化である、と洗脳されました。私たちのアフリカの文化は文化ではない、というのです。これに対し、私は反抗しました。学校ではフランス文学の授業中は寝ていました。ちなみに、フランス文学の先生は、ギニア人でしたが、それが理由で寝ていたということではありません。

マケヴィリー:学校では、ヨーロッパ人の芸術家と出会いましたか?

ディメ:いいえ。私はルガの片田舎から来た若造だったので、ヨーロッパ人の芸術家は全く知りませんでした。私は、ダカールで、叔父さんの家にいましたが、叔父さんも芸術には興味はありませんでした。3年間の勉強が終わった後、私はルガに戻りましたが、満足してはいませんでした。父はこれで終わった事として、私が経理の勉強をすることを望んでいました。

マケヴィリー:学校で学んだことは、カースト制度の仕事だったのですか?

ディメ:学校がフランスの学校でしたから、私たちがやっている事をカースト制度の仕事と見做すことはありませんでした。ただ、セネガル社会では、その仕事をする人たちは、カースト制度に属していると見做されます。私は、経理の勉強は拒否しました。

マケヴィリー:工芸養成学校で、あなたと同じ勉強をした同級生たちはどうなったのでしょうか?

ディメ:彫刻家になるのをあきらめ、他の勉強をして、銀行で働いている人もいたし、家具の職人になった人もいます。

マケヴィリー:芸術家の仕事と職人の仕事に違いは無いのですか?

ディメ:かつて、芸術家であることは、社会的に明確に定義されていませんでした。芸術家も職人も当時は同じで、ドゴン族の伝統的な生活においては、芸術家は職人でした。この種の仕事は世襲制なので、すべての人が対象ではありません。現在、カースト制度の職業を辞める職人が多く、ほとんどが商人になっているようです。

マケヴィリー:このタイプの作品は、いつ頃から始めたのですか?

ディメ:4年ぐらい前だと思います。5年前の作品は違っていました。私の彫刻は20年の間に、4~5段階を経て変化をしています。

マケヴィリー:その変化の段階を簡単に説明して頂けますか?

ディメ:工芸養成学校を終了後、私は2年間無職でした。働き口がなかったのです。私の家族は私への援助を拒否しました。私は作業に必要な道具を持っていませんでした。ある日、仕事が見つかったので、工芸養成学校に行って、3本ののみと3本の工具を盗み、上着の下に隠して学校を出ました。

マケヴィリー:そしてどうなったのですか?

ディメ:1973年に私は仕事をしにガンビアに行きました。私の家族が私に圧力をかけてきたので、セネガルにいることが耐えられなくなったのです。

マケヴィリー:ガンビアではどのような仕事をしたのですか?

ディメ:《薄肉彫り》の木彫をやっていました。(訳注:《薄肉彫り》とは、浮き彫りの1つで、模様や形を比較的薄く表面に浮き上がらせて彫る方法。高度な技術が必要)

マケヴィリー:モチーフは何ですか?

ディメ:日常の風景です。家族が一緒に食事をしている風景などです。

マケヴィリー:それは土産店で売っているようなものですね?

ディメ:そうです。

マケヴィリー:薄肉彫りの木彫を作っていた時、あなたは、自分自身を芸術家だと思っていましたか?それとも、職人だと思っていましたか?

ディメ:私はただ単に、工芸の勉強をして物を作りたいと思っていただけです。大した事はできませんでした。私は色々なものに興味がありましたが、それを実行するお金がありませんでした。助けてくれる人もいなかったし、当時、ダカールに美術学校があることも知りませんでした。

私はガンビアに1年いて、すぐにセネガルに戻って来ました。ガンビアはイギリスの植民地でしたので、今も英語が公用語です。私はウォロフ語をしゃべっていましたが、思ったほどコミュニケーションが取れませんでした。

マケヴィリー:ガンビアを去ってセネガルに戻って来たのは、いつだったのですか?

ディメ:1974年です。セネガルに戻って、私は直ぐに兄の家に行き、そこで数ヶ月過ごしました。しかし、私は兄と喧嘩をしてしまい、荷物をまとめて友達の家に転がり込みました。彼の家で6~7ヶ月働いた後、ルガにちょっと戻り、1975年にダカールに行きました。

その後、私は友達と一緒にガーナに行き、仕事を探しました。ガーナの首都、アクラにあるセネガル大使館に行ったところ、偶然、私の叔母の夫の友達と会いました。私の状況を話すと、その人は私にお金をくれました。そのお金でホテル代を支払わなければならなかったのですが、私は木材を買い、セネガルから持ってきた工具を使って彫刻をつくろうと思い立ちました。

マケヴィリー:ホテル代のお金が木材に変わってしまったのですね?

ディメ:ガーナでは伝統的に、日常生活の風景を装飾した扉を制作する彫刻家がいます。私の友達がそのアトリエを探して来ました。そのアトリエの責任者と会って話しをすると、その責任者は、「木材を渡すから、何か作って下さい。あなたがどんなものを作るか見てみたい」

と言うのです。私はすぐに作品を作って彼に見せました。すると彼はとても気に入ってくれて、アトリエの一角を私が使えるようにしてくれました。

私はそこで作品を作り始めました。ある日、作品を持って、セネガル大使館に勤務している友達に会いに行きました。作品を彼に見せたところ、彼は「2日後にセネガルに行くので、君の作品を買いたい。ダカールの財務大臣にプレゼントしたい」と言ってくれました。そして私を大使に紹介してくれました。大使は、私の作品を見るなり、同じ物を1つ欲しいと言って、即座に前金を払ってくれました。後日、私は作品を制作し大使のところに持って行きました。大使は館内の職員に私を紹介してくれました。すると、今度は職員の人達が私の作品を買ってくれたのです。こうして私はホテル代を支払うことができましたし、これを機に、私はたくさんの女性の頭部の彫像を制作し、お金を稼ぐことができるようになりました。それは、私が最初に制作した薄肉彫りの木彫の彫像でした。

その後、私はセネガルに帰りましたが病気になり、ルガに戻って療養しました。

2ヶ月後、ダカールで開催される「青少年のフェスティバル」に、ルガを代表して私の作品が出品されることになりました。

マケヴィリー:なぜあなたの作品が選ばれたのですか?

ディメ:私の作品が新しかったからだと思います。

マケヴィリー:あなたは、芸術が何であるかを知る前に、自分に才能があると知っていましたか?

ディメ:確かに、私は自分自身何かを持っていたと思います。それが何であるかを知る前に、私はするべき事が分かっていました。私は多くの事ができる才能を持っていると思っていました。当時は、芸術が何であるかをまだ分かっていませんでしたが、いつか世間で認められる才能があると思っていました。

マケヴィリー:あなたは芸術家になると思っていましたか?

ディメ:はい。今、私は彫刻家以外にはなれなかったと感じています。

マケヴィリー:1976年にダカールに戻って、美術学校の存在を知ったのですね?

ディメ:ダカールで催された「青少年のフェスティバル」の際、私は美術学校があることを知りました。フェスティバルに、美術学校の生徒が参加していたのです。その生徒を通して、美術学校の校長や彫刻科の責任者や文化省の関係者と会うことができました。あらゆる人が展示会場を回っていました。私のブースに文化大臣がやって来て、「これらの作品はあなたが制作したのですか?」と尋ねたので、私は「はい、そうです」と答えました。すると、「美術学校に行きませんか?」と聞いてきました。文化大臣の話によると、私は奨学金をもらうことができ、正規の学生ではないが、研究員として見做され、そして、学生ができないことを私はすでに出来るので、より上の学年に飛び級で進むことができる、ということでした。

マケヴィリー:どんな作品だったのですか?薄肉彫りの木彫ですか?

ディメ:いいえ。コンポジションです。立体の人物のグループ像です。

マケヴィリー:テーマは何でしたか?

ディメ:苦悩….苦悩です。

マケヴィリー:ミケランジェロの『奴隷』のような像ですか?

ディメ:いいえ。『奴隷』は1980年にルーブル美術館で見ましたが、そのようなものではありません。私の作品はもっと田舎くさいものでした。木製の人物像を焼け焦がした作品です。当時、私が始めた手法です。木をわざと焼け焦がし、その炭の粉の中で擦るのです。まず、大きなたき火を準備し、その中に作品を入れます。作品が燃えている最中に、作品をひっくり返しながら、中で転がします。木の種類によっては、表面が黄色くなります。とても鮮やかな黄色です。その方法で、私は色のニュアンスを若干修正することができました。

マケヴィリー:作品を焼き焦がすという手法は伝統的なものですか?それともあなたが直観で見つけたのですか?

ディメ:直観的に見つけたものだと思います。というのも、この手法は誰にも教えてもらったことがなかったからです。伝統的な彫刻家はこのようなことはしません。もしやるとしたら、まず、木を極力熱し、そしてナイフで表面を軽く削ることだと思います。

マケヴィリー:あなたの作品が美術学校への扉を開いたのですが、その後どうなったのですか?

ディメ:美術学校には1年通いました。美術学校に入って1年目に先生からこう言われたのです:「あなたはすでにすべてを学びました。本質的なことを学びました。今からやらなければならない事は、あなたの精神と知性を発展させることです。構成と創造を学ぶことです」

マケヴィリー:どんな作業をしたのですか?

ディメ:私はルガで彫刻の作品を制作し、それを学校に持って行きました。街の通りに座って、手をさしのべている乞食の彫像でした。

マケヴィリー:美術学校の後は、どうしたのですか?

ディメ:私は伝統彫刻家のところに頻繁に通い、手斧を使う技術を真剣に学びました。美術学校では、マルセイユ出身のフランス人教師が、のみの使い方を教えてくれました。私が独り立ちをした時、その違いに気付きました。手斧はアフリカの伝統的な道具です。私は、「私自身のバランスを見出すためには、伝統アフリカ美術で行われていることにどっぷり浸かることだ」と考えました。私は直ぐに手斧を購入し、作業で使い始めました。手斧はのみとは全く違います。2つの相違点があります。のみで作業をすることは、打楽器を打ち鳴らすように、のみを叩くのです。切り込みながら叩くのです。一方、手斧は、伝統世界では、投げつけるというか、打撃を与えるのです。

マケヴィリー:道具というものは文化において暗示的意味がありますね。のみは西欧を象徴し、手斧はアフリカを象徴しています。

ディメ:正にその通りです。それを理解した時、私は、「私たち固有の文化における道具の使い方を学ばなければならない」と強く感じました。そこで私は、なけなしのお金をはたいて、作業に必要な道具を買うことにしました。

マケヴィリー:学校で盗んだ3本ののみはどうしたのですか?

ディメ:今も使っています。他の道具と一緒です。

1977年に、道具というものをすべて理解し始めると、逆に私はプレッシャーを感じ、暴飲するようになりました。ビールやワインをばか飲みしました。酒を飲むためにいつもお金が必要でした。学校の先生が時々、仕事をくれました。私はその仕事をやり、お金をもらいました。

マケヴィリー:のみによる制作ですか?手斧による制作ですか?

ディメ:両方ですが、正確さを要求されるフランスの装飾でしたので、どちらかと言えば、のみの使用が主だったと思います。のみは完全に使いこなせるようになりました。

マケヴィリー:美術学校にいた時、ヨーロッパのアーティストの仕事に慣れ親しみましたか?

ディメ:それほどではありません。私を担当していた先生は、半分ベルギー人、半分セネガル人でした。ベルギーで生まれ、1966年まで勉強していましたが、サンゴール大統領に呼ばれてセネガルに来たのです。(訳注:先生は、アンドレ・セックのことと思われる)

マケヴィリー:あなたの先生は具象的な彫刻が専門だったのですか?

ディメ:ヨーロッパの彫刻をモデルにした、クラッシックな彫刻です。古代の寺院にあるような彫刻です。正直に言いますが、私は「異文化変容」(訳注:異文化への適応)に吐き気を覚えていました。また、美術学校にいた時は、何も知りたいとは思いませんでした。カタログや図書館の本を見るのも嫌だったのです。何も興味はありませんでした。多分、そんなフラストレーションがたまって、酒の量が多くなっていったと思います。そんな事をやっていたのでは良くないと分かっていましたが、やめることができませんでした。

マケヴィリー:美術学校の後は、放蕩の生活だったのですね?

ディメ:そうです。1983年または1984年まで続きました。私と同じ世代の人達は仕事を見つけ、社会において成功していました。私だけが収入がありませんでした。私はカースト制度の仕事を行い、誰からも受け入れられず、完全に社会のアウトサイダーでした。私の父は人に会うたびに、「子供達のなかで、ムスタファはあきらかに失敗だった」とよく言っていました。私と父は、会うと直ぐに喧嘩をしていました。というのも、父は、私が受け入れられないような事ばかり求めたからです。私はそれが我慢できませんでした。私はその事を父の面前ではっきり言いました。それはしてはいけない事でした。私達の社会では、たとえ父親が息子を罵っても、たとえ息子を殴っても、反抗してはいけないのです。私は父と同じような性格だからお互いにうまくゆかなかったのかもしれません。イスラム教徒はお酒を飲まない、というのも重要です。お酒を飲む人はこの国ではアウトサイダーと見做されるからです。

マケヴィリー:1983年頃、何があなたのフラストレーションと暴飲をやめさせたのですか?

ディメ:多分、「もううんざり」と思ったのでしょう。そして私は一生懸命作品を作りました。1979年12月~1908年1月まで、ダカールのフランス文化センターでグループ展を開きました。タイトルは《セネガル彫刻の顔》でした。

マケヴィリー:どのような展覧会だったのですか?

ディメ:1人を除いて、私達は皆、美術学校の卒業生でした。その1人は石の彫刻を制作していました。私は木製の彫刻でした。鉄を使っていた人もいましたし、鉄筋の上に石膏を塗って紐を混ぜていた人もいました。

マケヴィリー:どちらかといえばヨーロッパの作品を基礎にした作品でしたか?

ディメ:いいえ、かならずしもそうではありませんでした。アーティストたちが自分自身で想像したものです。みんな自分自身のオリジナリティとスタイルを押し出しながら、自分達固有のコンセプトを創り出していました。私の大きな作品の1つはトーテムのようなもので、円周2メートル30センチほどの木の幹でした。浮浪者や乞食など、社会から疎外された人びとの顔を表現しました。社会における実際の彼らの顔をありのまま見せようとしたのです。私はそれらの作品の題名に《希望》と名付けました。

マケヴィリー:なぜアウトサイダーをテーマにしたのですか?

ディメ:なぜならば、私自身がアウトサイダーだったからです。そして、当時のセネガルの大統領が「観光客のことを想うと、私は公衆の面前で乞食を見たくない」と言っていました。この言葉は新聞にも載りました。私はすぐさまこのテーマに取り掛かり、インスピレーションに任せてたくさんの作品を作りました。この展覧会は、私とサンゴールとの出会いの始まりでした。私はテレビの番組で、「セネガルの文化省は、政治的または文化的制度として何の価値もない。なぜならば、必要な時、誰もいないからだ」と指摘しました。かつては、フランス人が展覧会を準備し、セネガル人は何もしませんでした。そんな状況に私は激怒しました。すると、ある新聞記者は私に、「あなたが言っていることは、あなた個人の意見だ。それについては、どうでもいいことだ。しかし、あなたは言っている事に責任を取るべきだ」と言いました。

テレビを観た文化大臣は怒り心頭だったようです。私達は彼の執務室に呼びだされ、美術部長に会いました。美術部長は言いました:

「あなた達がテレビ番組で言った事は、混乱をあおっています。今日中にテレビ局に行って番組で謝罪し、文化大臣に対し許しを乞うてください」

私は答えました:

「テレビでそうしなければならないのなら、私は永久にアートを放棄します。なぜならば、私が言ったことは、私が信じていることですから。」

そして、私はテレビ番組で、より強い口調でこの事を繰り返しました。

2日後、文化大臣から呼び出され、こう言われました:

「あなた達は全員嘘つきだ。テレビを点けたら嘘つきたちが、真実でないことばかりを言っていた」

私は椅子から立ち上がり、大臣に向って言いました:

「大臣、もしあなたが私に対し無礼な振る舞いをするのであれば、私もあなたに対し無礼に振る舞います。自分の父親でも、私に対して無礼だったら許しません」

大臣との議論は炎上しました。

1ヶ月後、サンゴールがセネガルのすべての彫刻家を大統領府に招きました。

以前、私は建築士協会に作品を1つ売っていて、協会はそれをサンゴールにプレゼントしていたようでした。

サンゴールが私たちと面会した時、私は私の作品が、セネガルの若い彫刻家の作品と、ザイールの伝統彫刻家の作品の横に並べて置いてあるのを見つけました。それは、伝統彫刻と近代彫刻を比較するためらしく、サンゴールはみんなの前で、私の作品は近代彫刻だと言いました。そして、私に作品を説明するよう求めました。文化大臣も同席していましたが、はらわたが煮えくりかえっているのが分かりました。さらに、サンゴールは教授でもあったので、そこで芸術に関する講義を行いました。講義が終わると、サンゴールは退席し、私たちと文化大臣がそこに残りました。すぐに文化大臣と話し合いが行われ、罵り合いが始まりました。

1ヶ月後、私はサンゴールに手紙を書きました。彼は面会を許してくれました。執務室で、芸術のことやその他たくさんの事を30分ほど話したと思います。彼は、フランス留学の奨学金の給付を提案してくれました。しかし、当時の私の関心は、アフリカを旅行し、アフリカの彫刻を勉強することでした。そこで、マリのドゴン地方に行くことを文化省に申請したところ、サンゴールは、「2ヶ月間のバンジャガラの旅行費用として給付金300.000フラン(約10万円)を認める」と、文化大臣に手紙を書いてくれました。そのおかげで、私はドゴン地方の旅行を行うことができました。サンゴールは、同じ年に開かれたセネガル主催の共同展覧会のために、私の彫刻を2つ選んでくれました。展覧会の後、この2つの彫刻が売れ、私は美術界で大きな成功を収めることができたのです。

(注:ディメの1990年代の作品は、かつてイスラム教の征服から逃れ、マリ中央部のバンディアガラ地方に移り住んだドゴン族の美術に強い影響を受けている)

翌年、私は「ダカール芸術村」に住み始めました。芸術家たちによって設立された村です。セネガル政府は「芸術都市」を創設しようとしていましたが、結局、何もできませんでした。私たちは私たち自身の手によって村を設立することにしたのです。私はそこにアトリエも構えました。

マケヴィリー:《私たち》とは誰ですか?

ディメ:画家や彫刻家などの芸術家のことです。

マケヴィリー:あなたは制作活動の中で、廃材を再生利用したり、拾った物を利用することを始めますね?

ディメそれは芸術村にいた時に始めました。私はそれまでやってきたことがルーチンとなったため、すべてを捨てました。今までの作業には何も興味が無くなったのです。緊張感もモティベーションもありませんでした。

マケヴィリー:漂流物を再利用することは、どのように始めたのですか?

ディメ:海辺の芸術家村にいた時、私は浜辺の石を拾い始めました。そしてそれで作品を制作し始めたのです。油性ペンキも使い、たくさんの木材にペンキを塗りました。鉄やロープも使いました。

『馬』(「Moustapha Dimé」より転載)

マケヴィリー:木材や鉄はあなたの作品ですでに使用されていましたが…

ディメ:とは限らないです。私は今まで使っていなかった他の材料を彫刻し、一体化し続けていました。鉄は再利用です。しかし、私は工場に行ったり、木彫の工房に行って、使用されなかった木材をもらったりしました。木材は、片面が機械による切断の跡があり、もう一方の片面は自然そのままの断面であったりと、とても魅力的でした。

マケヴィリー:材料を再利用するということは、あなたと文化を結びつけているという気持ちになりましたか?

ディメ:いいえ、その時はなかったです。別の考え方をしていました。自然の材料の内面を深く理解し、そして、素材そのものがもつ特別な価値を見出すこと、そこに重点を置いていました。「材料がすでに利用された」からではありません。「材料が私に属することができる」何かを探していました。

マケヴィリー:実際、あなたに属するとはどういうものだったのですか?

ディメ私の個性を引き出し、私が誰であるかを示し、私固有の個性を示す、つまり、私が他の人と違うという事を表現する何かを探していたのです。テーマを通してではなく、技術の繊細さを通してです。

『友達』(「Dak’Art 96 」より転載)

マケヴィリー:話しを続けてください。

ディメ:マリに滞在していた時、私はボゴロン染め(泥を使って、布に幾何学的なデッサンを描く染織技術)を習得し、それを基にしたものをセネガルで作ることを試みました。

1982年、私は初めての個展を開き、30ほどの彫刻と4枚のボゴロン染めの大きな生地を展示しました。人々は気に入ってくれましたが、全く売れませんでした。それには本当にがっかりしました。本当に好きだったら、人は買ってくれると思うのですが…

マケヴィリー:ダカールには美術館があるのですか?

ディメ:はい。1966年に創立されました。「第1回世界黒人芸術祭」のために開館されたのです。その後、世界的に有名な、セネガルの画家イブン・ンジャイIbn N’Diayeやピカソやフランスのアーティストも作品を展示しました。(訳注:この美術館は「ディナミック美術館」のことと思われる。現在は、最高裁判所になっている)

マケヴィリー:その展覧会を見ましたか?

ディメ:いいえ、カタログを見ました。

作品が全然売れなかった私の個展終了後は、私の作品をアトリエに運ばなければならなかったのですが、私は無一文でしたので、友達に車で手伝ってもらいました。私の個展にはスポンサーがつかなかったため、招待状の作成から何まですべて自分で準備しました。作品が何も売れないということは、どうなるか想像できますか?最終的に、私はすべてを捨てて、全く違ったことをやりたくなりました。1982年のことでした。

私は思いました:

父の言う通りだった。私がやっている事は1フランも価値がないのだ

私はしばらくパニックに陥り、仕事をする気にもなりませんでした。あちこちをさまよい、何をしてよいか分からない状態でした。

それでも、どうにか気を取り戻し、私は制作を再開しました。まずは、芸術村の催し物に参加しました。芸術村のアーティストたちは実行委員会を組織し、展覧会やお祭りを開催し、一般客を招待していました。芸術家と民衆の出会いの場でした。

2年後、政府は、住宅省の建物を建設するため、芸術村の敷地を収用しようとしました。

あるアーティストから、「サンゴール体制の反対派で、刑務所で殺された活動家の回顧展をやろう」という提案がありました。

数週間後、国から「直ちに芸術村の敷地から出るよう」通告がありましたが、アーティストたちは「追放命令」に屈せず、居続けることに決めたのです。国は、サンゴールが旅行中だったため、しばらく待機していましたが、そのうち、文化大臣が午前5時に機動隊とやって来て、芸術村を取り囲みました。午前7時、機動隊はすべてのドアを取り壊し、すべての作品を押収し、荷馬車に乗せ、外の広場に放置したのです。彼らは、すべてのアーティストのすべての仕事の成果を荷馬車に積み込んだのです。私たちは、そこに1週間居座り野宿しました。この時、私は7つの彫刻を失いました。

芸術村は、断崖と海の間にありました。私たちは彫刻や絵画を崖に沿って並べ、展覧会を開きました。何が起きたのかと通行人が尋ねてきたので、私たちは彼らに説明をしました。彼らにとっては私たちの行動の意味を知る良い機会だったと思います。

『ダンス』
(「Dak’Art 96」より転載)

国は、「芸術村では薬が横行し、買春が行われている」と主張しました。そのため、関係者の間で、乱闘がありました。1週間後、国は芸術村にトラックを送り、すべてをの作品を押収して、美術館の地下に放り込みました。

私たちは会議を開き、弁護士のバラ・ジョハンを雇うことに決めました。持ち去られたすべての作品の査定をする必要がありました。すべてが壊されましたが、セネガルには査定できる鑑定士がいませんでした。国は、査定を行う公認会計士を独自に探していました。本当に無責任です。私はどうでもよくなり、2人の友達とダカールに家を借りることにしました。

マケヴィリー:あなたは国から反逆者や無法者と見做されていたのですか?

ディメ:国からしたら反逆者だったかもしれませんが、私は、今は、信仰心の厚い人間です。イスラム教に関心を持ち、アフリカの文化に興味を持つ普通の人間です。

マケヴィリー:1980年代にあなたは家賃をどのように支払っていたのですか?

ディメ:家賃を支払わなくても済んでいました。ただ、作品が売れれば、家賃を払っていました。現在でも同じような状況です。

マケヴィリー:あなたの作品は外国人に売れましたか?

ディメ:2~3人のフランス人に売れました。作品のほとんどがセネガル人や国が買ってくれました。

マケヴィリー:現在の製作手法を始めたのはいつ頃からですか?

ディメ:多くの段階を経て現在に至っています。糸を用いた作品は1982年に行い、1983年には違った方法で再開しました。とても繊細で、人間的で、滑らかな作品です。私は特別な方法で木材を加工していましたので、手で触ると手が滑るくらい木がなめらかでした。

『無題』(「Art contemporain du Sénégal」より転載)

マケヴィリー:今のあなたの作品はごつごつした感じですが、仕上げが変わりましたね?

ディメ:今までのやり方を変えたのは、あるセネガル人彫刻家のせいだったのです。1990年に、フランス文化センターで彼と展覧会を開きました。彼は奨学金をもらってイタリアに留学し、帰国後、私は彼と頻繁に会って議論をしました。そのうち、アパルトヘイトをテーマにした展覧会があり、その展覧会に彼も私も作品を展示しました。しかし、驚いたことに、彼の作品と私の作品が似ていたのです。それは他の人も指摘していました。

私は激怒し、パニックに陥り、制作ができなくなりました。彼は現在も同じような仕事をしています。私は考えに考えた末、廃材で作品を作ることにしたのです。人々の生活に最も近いところに近づかせ、導いてくれる材料を使うことにしたのです。サンゴールが現れる以前は、セネガルでは芸術が完全に社会から切り離されていました。学校に行った人だけが、お役所で働き、展覧会を見に行けるのです。美術館があり、ギャラリーがあり、文化センターがありますが、しかしそれらはすべてインテリのためだけにあり、エリートだけのために建てられたのです。大衆のためではありません。私が今生きている社会と繋がっている材料を使うことは、私にとって重要なことなのです。

マケヴィリー:人々が日常生活で使っている材料ですね?

ディメ:そうです。

マケヴィリー:そして、それは命があり、歴史があり、それ自身の物語があるのですね?

ディメ:はい。自然環境の中で生きた材料です。これらの材料と人々の間に違いはありません。

マケヴィリー:それらの材料は、人々との絆だけではなく、自然環境や大陸やアフリカやそしてアフリカ文化との絆でもあるのですね?

ディメ:そうです。セネガル社会の発展のレベルを考えると、全国民を感動させ、すべての人が学び直し、同じレベルになるまで高めなければなりません。それこそが私がやっていることで、それはとても、とても難しい任務です。

面白い話しをしましょう。私の部屋に、臼で出来た土台の上に、彫刻1つとひょうたんの半割のボウルが3つ重ねて置いてありました。ある日、セレール族の老人が私に会いに来ました。セレール族はサンゴールと同じ民族です。彼らは今でも、自分たちの伝統を大切に保存しています。老人は私の彫刻を見るや否や、その上に飛び乗ったのです。老人とその家族は、セネガルの独立の前、セレール族の王と親戚でした。彼らは今でもこの種の儀式を行っているのです。私は驚きました。

マケヴィリー:《その上に飛び乗った》とはどういう意味ですか?

ディメ:文字通り、老人は《彫刻の上に飛び乗り》、笑いました。そして、彫刻に名前を付けました。私にはその名前の意味が分かりませんでした。彼は彫刻に話しかけていました。そして私に向って言いました:

「ムスタファ、あなたがやっている事はあなたの魂から来ている事を知っています。なぜなら、あなたと作品の間には心が通っています」

そして、1992年の私の個展の際、ジョラ族の人がやって来ました。彼は私の彫刻を見ると、彫刻の前にまっしぐらに進んで、彫刻を眺め、そして、彫刻に話しかけたのです。話し終わると、彼は私のところにやって来て、

「この彫刻は誰が作ったのですか?」と聞いてきました。

「私です」と答えると、

「この彫刻は何を表現しているのですか?どんな感動があなたにこの彫刻を作らせたのですか?」と彼は尋ねました。

彼の質問に対して説明をすると、彼は言いました:

「ジョラ族の宗教の宇宙観には、3つの次元があります:人間世界、精神世界、そして神の世界です。自然もそこに入ります」

臼とひょうたんの半割のボウルの象徴は、「生命の根源」です。なぜなら、「命の基本要素」であるヒエやアワなどは臼とボウルの中で形を変えるからです。それは、彼らにとって彼らの宇宙だったのです。

マケヴィリー:あなたにとってマリのドゴン族の文化は大変重要ですが、これはセネガルの歴史家シェイク・アンタ・ジョップが説く《重要性》によって説明がつくのですか?

ディメ:フランスの学校にいた時期、私は私自身の言語を捨て、フランス語だけをしゃべっていましたが、自己アイデンティティーのパニックになりました。しかし、私は本当のアフリカ人、本当のセネガル人になるために、そして、私の固有の文化に居続けるために、私はすべてを吐き出しました。私はフランス語を上手くしゃべれないようにするために、私の言語を勉強し直し、ウォロフ語をきちんと話す人たちと会って会話の練習をしました。

マケヴィリー:あなたはイスラム教の教義を実践していますか?

ディメ:私はイスラム教徒ですが教義を実践していません。毎週モスクに行っていません。しかし、私にとって、彫刻を制作することがイスラム教を実践することです。イスラム教がセネガルにやって来た時、イスラム教徒は、コーランが偶像を禁止していることを理由に、セネガルのすべての彫刻を破壊したのです。

しかし私は、それはイスラム教の教義に対する狭い解釈だと思います。なぜならば、神は目に見える美を創造したからです。芸術以上に美しいものはありません。芸術作品は神様に近い存在で、神様の神聖な教えの要素であると考えます。コーランの章句ゆえに破壊するものではありません。私にとって、イスラム教のアフリカ統合を行った人は、宗教指導者だと思います。その統合の本質は心の中にあります。

マケヴィリー:宗教指導者とは誰ですか?

ディメ:ムーリド教団の宗教指導者、シェイク・アマドゥ・バンバです。バンバはセネガル人で、ムーリド教団を創始しましたが、フランス政府によりガボンに7年間追放されていました。彼はセネガルの英雄です。

マケヴィリー:ヴェニスのビエンナーレに招待されたフランス人彫刻家、ルイーズ・ブルジョアの作品を見ましたか?

ディメ:見ました。ヴェネツィアのビエンナーレでは最高の展示品の1つでした。そこには人間性が溢れていました。人間が感じられました。私は、芸術は人の魂だと思っています。ただ単に、材料を選び、それで作業をするという問題ではないのです。むしろ、そこから生じる精神の問題なのです。なぜならば、何かを訴えるのが精神です。他の人に何かを与えるのが精神だと思います。

毎日、私はあなたと会うと、あなたに近づくことを心掛けています。なぜならば、わたしはあなたに何かを与えたいのです。あなたから何かをもらいたいのです。世界とはこのようなことではないでしょうか?それが私の見方です。私たち人類は、お互いに何かを与え合うために生きています。ただ単に、お金を稼ぐというためではありません。人は寛大さを示し、他人に何かを与えることができます。

マケヴィリー:あなたは、その考えを作品の中で具現化していると思いますか?

ディメ:そう思います。もし、私自身がそれを感じなければ、作品を制作することができません。もしその必要性を感じなければ、私は制作をしません。生まれてから現在まで、自分がやっている事を自覚し始めるまでは、私は彫刻以外何もしませんでした。彫刻以外の事を行う必要性も感じませんでしたし、他の事は何もしたくありませんでした。生きるためにお金を稼ぎたいと思いますが、お金を稼がないということも受け入れられます。自分がやっている事をやりたいから、制作を続けるのです。自由の問題ではありません。なぜならば、それは自由ではないからです。それは必要性の問題です。なぜならば、それは自分自身の一部でもある何かをどうしても作りたいからです。私の心のよりどころは彫刻の中にあります。

マケヴィリー:将来は、アフリカとヨーロッパとアジアとアメリカがコラボして、新しいジャンルの文化プロジェクトを立ち上げるかもしれませんね?

ディメ:確かに。多分そうなると思います。なぜそのようなプロジェクトが遅れているか、なぜまだ実現されていないか分かりますか?世界の経済と政治がブレーキをかけているのです。もし芸術家だけの問題だったら、とっくの昔に物事は進んでいたと思います。

マケヴィリー:あなたと話しをするにつれて、あなたの仕事の精神的な意味が3つのレベルで成り立っているのが分かりました。まず、個人的感性と個性のレベル。次に、アフリカおよびセネガルの伝統遺産のレベル。最後に、違う文化のアーティストたちが参加する世界的プロジェクトのレベルです。

ディメ:あなたの言う通りです。私は、ルガで生まれましたが、私は⦅普遍的な人間⦆と見られています。

マケヴィリー:あなたの「普遍的な精神」と、あなたの「固有の文化のルーツを理解したいという願望」との間に拮抗はありませんか?

ディメ:私自身のルーツを守ることができないなら、私は普遍的にはなれないでしょう。なぜならば、私自身のルーツに基づいて私は普遍的になれるからです。なぜならば、このようにして私は、私であることができたのです。今現在の私の人間性は、私自身のルーツから生まれました。でなければ、私はアウトサイダーになっていて、常に、⦅監獄⦆にいることになるでしょう。⦅監獄⦆は鍵で閉まる場所ではなく、⦅心の中の監獄⦆です。今日の世界において、人々は、その人自身の監獄から自由になる可能性は少ないと感じています。他の場所に行くことを障害物に妨げられていると思うことは、心の中に監獄をつくることです。そこから出ることができないならば、絶望の餌食となるだけです。それが今日の状況です。それが世界にブレーキをかけ、足枷となっていると思います。

『マスク』
(「Moustapha Dimé」より転載)

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