セネガルの現代美術 5/5 ガラス絵

【セネガルの現代美術  5/5 ガラス絵】

《ガラス絵》Suweer

ガラス絵は、ガラス絵作家が、宗教指導者の肖像や庶民の日常生活を庶民の目線で描いた絵である。歴史的場面を描いたガラス絵もあり、グリオの口頭伝承のように記憶を伝える役目も担っている。日本の浮世絵のように、親しみやすく分かりやすい、《庶民の絵画》と言える。

1950年代は、ペンキやガラスや筆などガラス絵の材料が売られていた市場の近くの道端で、ガラス絵が制作され、壁に並べられて売られていた。

ペイタヴァン大通りで売られているガラス絵

ガラス絵はフランス語で、パンチュール・スー・ヴェールPeinture sous verreであるが、《フィクセ・スー・ヴェール》(Fixé sur verre )または《フィクセ》(Fixé) とも呼ばれる。また、《スー・ヴェール》の部分がウォロフ語風に《スーウェール》(Suweer)と訛って発音され、ガラス絵のことをウォロフ語では《スーウェール》と呼ばれている。
(日本語の⦅ガラス⦆が、オランダ語の⦅グラスGlas⦆が訛って発音されたことに似ている)

因みに、ピカソやカンディンスキーもガラス絵を制作している。

ガラス絵の歴史

ガラス絵の起源は、まず、10世紀のビザンチン帝国のコンスタンチノープルで、『リンブルグの聖遺物』(960年頃制作)など、初歩的なものが作られ、ヴェネツィアルートと中近東ルートに分かれて世界に広がって行った。(諸説あります)

『リンブルクの聖遺物』(Wikipediaより転載)

中近東の国々では、イスラム教徒の大衆絵画となり、特にイランでは、預言者・宗教指導者・戦争・宮廷などを描くシーア派のテーマ絵画となった。イスラム教では偶像は禁止されているが、聖地やモスクで例外的に尊ばれた。

当時、ガラス絵はイスラム教と一体化し、布教の手段となっていた。

『ミッラージュ』
(「Peinture sous verre du Sénégal」より転載)

(『ミッラージュ』について:ある晩、預言者ムハンマドはメッカのカアバ神殿の近くにいた。突然、天使ガブリエルが現れ、ムハンマドの胸を開き、彼の心臓を取り出し、聖なる泉ザムザムの水で清めた。そしてその心臓の中に信仰心と英知を封入した。
その後、アル・ボラクという名の一頭の天馬がムハンマドのもとに遣わされた。アル・ボラクは、⦅稲妻⦆という意味で、ラバより小さくロバより大きい動物。人間の顔をしていて、翼を持ち、稲妻のように早く駆け巡ることができる。
ムハンマドはある夜この天馬に乗り、天空を旅し、天国のアダムやモーゼ等に会う。この奇跡的な旅はすべて一夜で行われた)

ヴェネツィアでは、14世紀に初歩的なガラス絵となり、18世紀~19世紀にかけてルーマニア、ポーランド、ボヘミアで開花した。その後、ヨーロッパに出現したカラーリトグラフの普及に押され、衰退してゆく。

一方、ガラス絵の技術は、インドや中国に伝わると共に、リビア、エジプト、モロッコ、チュニジアなどの地中海沿岸の国々に伝わって行った。

特にチュニジアでは、1890年頃、トルコの肖像画家の学校とチュニスに住んでいたイタリア人画家たちの影響の下、チュニジア独自のガラス絵が生まれた。

ガラス絵がセネガルで普及してゆく過程は、ダカール大学ブラック・アフリカ基礎研究所助教授のアブドゥ・シィラ氏が、『セネガルの現代造形美術-状況と展望』で詳細に述べている:

「セネガルでは、フランスの植民地時代、主要な都市や商業の中心地において、地元の富裕な商人層が形成されるのを妨げるため、また、抑圧するために、19世紀後半、リビアやシリアなどの中近東の植民地、モロッコやチュニジアなどマグレブの植民地からアラブ人を連れて来て、彼らにリュフィスク市やカオラック市で落花生ビジネスを委ねた。

セネガルに初めて宗教的なガラス絵やリトグラフ版画をもたらしたのは、祖国に里帰りしてはまた戻って来たこれらアラブ人であった。そうした絵や版画は、預言者モハマド、カリフのアリ、バドゥルの戦い、ミッラージュとアル・ボラク、ノアの方舟、宮廷の情景などを描いたものだった」

(1903年始め、聖地メッカから帰国した巡礼者が初めてセネガルにガラス絵を持ち込んだ、という説もある)

「初期のセネガルのイスラム教修道士や文人たちも、同じように、イスラム教の聖者たちの絵を持ち帰った。

しかし、イスラム絵画の普及を刺激したのは、主要な大都市に商店を構えて住み着いたレバノン系シリア人の移民だった。彼らはこうした絵を、都市生活者、つまり「都会の庶民たち」に、他の商品と同様に売りさばいた。人々は、それらの絵を部屋の壁に架け、あるいは店先のテーブルの上に置いた。こうした絵は、人々の日常生活の一部となり、彼らの信仰を支えていた」

「ガラス絵の商売は発展し、商人たちは1910年~1950年にかけて、ダカール市、ゴレ島、リュフィスク市、サン・ルイ市の4都市の中心部に初めてイスラム図書館を建て、アラブの本やイスラム教の本、儀式を描いた絵やオブジェだけでなく、羽ペン、インク、ガラスなど様々な素材も展示したので、ガラス絵を描くことが可能になった」

「ガラス絵の需要が高まるにつれ、大工、建具屋、石工、くず鉄屋、鍛冶屋などセネガルの職人たちが、アラブ人の商人の下で必要な素材や資材を手に入れ、今まで輸入されていたガラス絵の真似を始めた」

セネガルで最初に作られたガラス絵は、人物写真やリビア・エジプト・モロッコで印刷されたカラーリトグラフの複製が組み込まれ装飾されたもので、これはチュニジアのガラス絵の影響を受けたものと考えられる。

写真付きのガラス絵  作者不詳
(「Peinture sous verre du Sénégal」より転載)

本来イスラム教では偶像は禁止されている。しかし、セネガルではガラス絵はムーリッド教団のプロパガンダとして利用され、黙認された。

1908年、西アフリカ総督ウィリアム・ポンティは、《下品なガラス絵》が西アフリカの植民地に広がったのはシリアやモロッコのせいだと非難し、新聞・雑誌などがマラブーやタリベ(神学生)を称えることで、セネガル国民の信仰心がさらに強くなることを恐れ、同時に、フランスの植民地支配への抵抗運動を抑えるため次の通達を出した:

『敵対的な性質を持ち、イスラム導師の行動を助長するすべての刊行物および版画類は破棄される』(筆者訳)

第1次世界大戦の際、ドイツと同盟を結んでいたトルコは、ガラス絵をイスラム教を広めるためのプロパガンダとして活用していた。当時トルコ経由でガラス絵がセネガルに運ばれてきたが、ウィリアム・ポンティの通達により、トルコルートは絶たれ、事実上、ガラス絵複製の手本の輸入は止まった。

ウィリアム・ポンティの通達に基づき、セネガルでは検閲が実施されたが、セネガルの職人たちが描くムーリッド教団やティジャンヌ教団の宗教指導者のガラス絵の複製が逆に増加し、ガラス絵はじわじわとしかし確実に民間に広まって行った。

かつて、仮面や彫刻がイスラム化によって壊滅状態になったのとは逆に、ガラス絵が、植民地支配の検閲に抵抗し、たくましく生きのびてイスラム教の普及に貢献したことは皮肉なことである。

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