セネガルの現代美術 4/5

ウスマン・ソウ  Ousmane SOW

1935年ダカールに生まれる。

黒人で最初のフランス芸術院会員

セネガルの彫刻の巨人・巨匠

ウスマン・ソウの彫刻を初めて見た時、鎌倉時代の仏師、運慶の作品を思い出した。

運慶は、東大寺南大門の仁王像を制作し、魂を彫刻したと言われている。

エネルギーに満ち、人間味にあふれ、今にも歩き出して話しをするかのようだ。

力強さと高い精神性が感じられ、ダイナミックでドラマチック。

筋肉は極限まで張り詰め、アフリカ的な力強さと美しさがある。

彫像は存在感と迫力があり、生き生きと躍動している。

『1組の闘士』(「Paris」より転載)

ウスマン・ソウは、父モクタール・ソウの6番目の子供として生まれ、ダカールのルブスReubeuss地区で育った。父は第1次世界大戦に狙撃兵として出兵し、復員後、運送会社の経営者となる。寛容なイスラム教徒だった父からは厳格さ、義務感、名誉の辞退、自由な精神を受け継いだ。

第2次世界大戦中(1939年~1945年)のダカール空襲を避けて、母方の故郷のサン・ルイに疎開する。(母方の大叔父は、セネガルの反仏抵抗の英雄ラット・ジョール王Lat Dior。1886年の⦅デクレの戦い⦆で戦死した)

空襲が終わると、ダカールに戻り、エル・ハジ・マリック・シイEl Hadj Malick Sy小学校に入学。ここで、週1回、授業の一環として行われていた彫刻に熱中し、早々と才能と創造性が芽生えた。

のちの彼の回想によると、「海岸で集めた石灰岩を地面に擦りつけ、角を取り丸くして、ナイフで削って、水兵や馬など小さな像を作った」という。

作品はたびたび優秀作に選ばれ教師の棚に飾られた。しかし彼にとって彫刻は単なる気晴らしで、日常生活からの逃避であった。15歳で身長がすでに1m83cmあり、あまりにも大きすぎてサッカーもバスケットボールにも興味がなく、彫刻が唯一の趣味だった。

1956年の父の死後、母への強い愛着はあったが、22歳の時ほぼ一文なしでパリに行くことを決断する。パリでは警察署に留置されたこともあった。いろいろなアルバイトをしながら美術学校に通うが中退する。

その後、看護師の勉強を修了した後、運動療法士の資格を取る。運動療法士の仕事を20年以上続け、1961年にダカールに戻る。この頃から少しずつ彫刻を作り始める。

再びフランスに行き、運動療法士の仕事の合間に彫刻を作り続ける。自分で書き上げた空想の物語をマリオネットで演じたアニメ映画を制作したこともある。

1978年、セネガルに最終帰国し、50歳の時、本格的に彫刻に取り組み始める。運動療法士としての経験は、人体の解剖知識を得るのに役立ち、ひいては人体の構造を完璧に覚えることになった。目隠しをしても人体を頭から足先まで再現することができたので、モデルなしで作品を制作した。

夜は診療所とアパートをアトリエにして彫刻を制作したが、気に入らない作品は破壊し廃棄した。

作品の素材は、彼自身が作っていた。20種類以上の製品(接着剤、砂、ペンキなど)を独自の量で調合し、長時間静置する。彼は「これらの材料はすでに作品であり、彫刻が完成した時より、材料を作っている時のほうが幸せだった」と述懐している。

作品は、まず、針金で骨格を作り、その上に数年間水に浸して放置した麻袋や藁を張り、さらに粘土、セメント、アクリル絵の具、接着剤などをミックスした独自の素材を塗り付け、形を作っていく。そして自然や素材の自由な相乗効果に任せて偶然の結果を待った。

粘土の質にはこだわり、手でこねくり回し丹念に調べた。

作品は悪天候にも耐えられた。

1984年、南スーダンのヌバ族を撮影したレニ・リーフェンシュタールの写真にインスピレーションを受け、《ヌバ族の闘士たち》の彫刻の制作を始めた。その後、1988年に《マサイ族の戦士たち》、1991年に《ズールー族の戦士たち》、1993年に《プル族の遊牧民》の彫刻を制作してゆく。

一連の《ヌバ》の作品で人々の関心を黒人文化に向けた功績は大きい。

1987年、彼はまだ無名だったが、ダカールのフランス文化センターが《ヌバの闘士たち》を始めて展示した。この作品は反響を呼び、6年後の1993年、ドイツで展覧会が開かれ、1995年、ヴェネツィア・ビエンナーレ150周年記念で、《座ったヌバ》と《立っているヌバ》の作品が展示された。

『立っているヌバ』

11頭の馬と24の人物像から成る《リトル・ビッグ・ホーンLittle Big Hornの戦い》の作品は、自宅の中庭で製作され、1999年1月に、ダカールのコルニッシュ(海岸通り)の空地で展示された。

(訳注:《リトル・ビッグ・ホーンの戦い》は、1876年、アメリカ南部モンタナのリト・ビッグ・ホーン川付近に居住していたスー族とシャイアン族の連合軍の攻撃により、カスター中佐の指揮するアメリカ陸軍第7騎兵隊が全滅した戦い。この作品は、ピカソの『ゲルニカ』を参照していると言われている)

ダカールで開催された『リトル・ビッグ・ホーンの戦い』

『リトル・ビッグ・ホーンの戦い』

同年3月、《リトル・ビッグ・ホーンの戦い》は、パリのポン・デ・ザール(芸術橋)で、《ヌバ》シリーズの作品と共に3ヶ月間展示され300万人の見学者を集めた(平均して、1日に40.00人、1時間に2.000人が訪れたことになる)。

彫刻家ンダリ・ローは、「この成功は、アフリカ現代美術の現実について多くの西欧人の目を開かせた」と述べている。

当初、展示会は3月18日~5月20日の2ヶ月間を予定していたが大好評だったため、6月19日まで延期された。終了日の1週間前の未明、35歳の男が2頭の馬のたてがみと1頭の馬のしっぽをナイフで切って、セーヌ河に捨てたという事件が起こった。

パリで開催された『リトル・ビッグ・ホーンの戦い』

その後、東京(2001年2月15日~5月10日の期間、上野公園で展示された)、オタワ美術博物館、ニューヨークなど、世界各地を巡回した。

ウスマン・ソウは、晩年、⦅偉人⦆シリーズとして、カシアス・クレイ(モハメッド・アリ)、ローザ・パークス、ビクトル・ユーゴ、ネルソン・マンデラ、シャルル・ド・ゴールのブロンズ像を矢継ぎ早に発表した。シャルル・ド・ゴールが最後の作品となった。

尚、⦅偉人⦆シリーズの一環で父の銅像も作成したが、、パスポートの写真と思い出だけで完成させたという。

フランス人の奥さんのベアトリス・スレは、《リトル・ビッグ・ホーンの戦い》の制作開始時から、パリのポン・デ・ザールに展示されるまでの過程をカメラで追ったドキュメント映画《正面の太陽Le Soleil en face》を制作し、2000年5月、ダカールのフランス文化センターで上映した

約1時間のドキュメントの映画の中で、ウスマン・ソウはほとんどしゃべらない。ただ静かに指を動かし人物像を成形してゆく。細部とニュアンスに全神経を集中する。目や筋肉の表現に何時間も費やす。人物の顔や体をじっと見つめ、気に入らなければ容赦なく壊す。

奥さんが彼に語りかける:

「今朝、朝食の時、鳥のカップルがやって来ました。メスが移動するたびに、オスはメスについて行きました。私たち夫婦もこの鳥のカップルに似ています。だけど、私の方があなたについて行っていますけどね。それを聞いてあなたは『それは煩わしいな』と言いましたね」

ドキュメントの最後で彼はこう語る:

「私は制作中、あまりにも遠くに行きすぎて、破壊寸前の崖っぷちにいました」

好きな料理は、チェブジュン(魚ごはん)とマフェ(ピーナッツ・ソースごはん)。

スープカンジャ(オクラのスープ)のようにパーム・オイルをベースに作った料理は好きでない。

ジョギングをたまにするが、家の窓辺に座って海を眺め、鳥のさえずりを聞いている方が幸せだと言う。

クラッシック音楽が好きで、ロッシーニ、ヴィヴァルディ、モーツァルトの曲をよく聴く。ユッスー・ンドゥール、イスマエル・ローそしてラップ、レゲーの曲も気分転換に聴く。

同じ彫刻家、ムスタファ・ディメとは大の親友だった。

ロダン、ブールデル、ダヴィッド、ドラクロアなどの作品から学んでいる。

「政治には全く興味が無いので、政治活動はしない。興味があるのは他人の仕事。現在、素晴らしい仕事をしているンダリ・ローは注目すべき造形作家である」と言う。

2015年、黒人初のフランス芸術院の会員となった。

2016年12月1日、ダカールで逝去。
フランスの国籍を取ることを勧められていたが、最後までセネガル人であり続けた。

ウスマン・ソーの言葉:

「彫刻は神への信仰心を強くしてくれました。人間はそのコンセプションにおいて完全で、誰もそれを模倣することはできません。私の巨大な彫像に命を吹き込む《才能》が私にあったとしても、私は決してやらないでしょう。なぜならば、命を管理することができないからです。私は人々の日常生活を彫刻に固定するのです」(筆者訳)

作品《倒れた人》が、ファーレ立川アート(東京都立川市)のスクエアの植栽内に設置されている。

『倒れた人』

アフリカ・ルネッサンスの像

2005年のある晩、ウスマン・ソウは当時国務大臣だったアブドゥライ・ワドゥのポワンEの自宅に招かれ、ワドゥの奥さんのヴィヴィアンヌと一緒に夕食を取っていた。ソウは、ダカール市内の海岸近くにある火山丘マメルの頂上に、周りの自然と溶け込む、黒人男性1人、その妻と子供2人の像を建てるアイデアを披露した。

ワドゥは、そのアイデアにいたく感動し、大統領就任後、検討中だった《ゴレ島記念碑プロジェクト》を取りやめ、黒人男性1人とその妻と子供1人を表現したソウの作品《火山から出る黒人男》をマメルの丘に建てるプロジェクトをソウに打診した。ソウはこのオファーを快諾し、記念碑的な作品をすぐに制作する準備ができていると答えた。そして、建築家とエンジニアと一緒に予定地に行き、地質調査や現地調査を行いたいと申し出た。

彼は、記念碑が建つ場所を観光地に整備し、周辺のウアカム地区やンゴール地区の住民たちの出会いの場所や散歩道にする整備計画案を準備した。

マメルの丘の斜面をくりぬいて像を設置するので、像が両足で立つタイプではなく、掘削した場所に像を埋め込む、よりシンボリックな記念碑にすることを考えていた。

その後、ソウはワドゥ大統領と意見が衝突し、このプロジェクトから手を引くことになる。

2010年4月3日、セネガルの独立40周年記念日に併せ、《アフリカ・ルネッサンスの像》の除幕式が行われた。

《アフリカ・ルネッサンスの像》

総工費150億FCFA(約30億円)。高さ50m。自由の女神やリオデジャネイロのキリスト像より背が高い。

外観のデザインは、ルーマニア生まれで、パリ在住のヴィルギル・マゲルサン。

セネガルの建築家ピエール・グジャビ・アテパが施工監理を行い、施工は朝鮮民主主義人民共和国の国営企業万寿台海外プロジェクトチームが、本国から労働者を派遣して行った。

この《アフリカ・ルネッサンスの像》に対するセネガル国民の反応は良くなかった。

国民の80%が信仰するイスラム教では、「偶像崇拝」が禁止され、女性の像の腰巻が短すぎ、ほぼ「裸」である破廉恥な姿はイスラム教の教えに反し、受け入れられることができなかった。また、膨大な建設費が不透明であったこと、ワドゥ大統領が、像の原案のデッサンを描いたという理由で、入場収入の35%を著作権料として受け取る契約をしていたことも発覚した。

何百人ものイスラム教徒たちがダカール市内でデモ行進を行った。ワドゥ大統領反対派からは、《恥の記念碑》とさえ言われた。

確かに、この像の前を車で通る時、像を下から見上げるのはちょっと恥ずかしい、というか抵抗感がある。

もしウスマン・ソウがこのプロジェクトに関わっていたら、どんな像が建てられていたのだろうか?

筆者がダカールに滞在していた時、ウスマン・ソウにインタビューを申し込むと、「スケジュールが合わないため、インタビューは不可能」という断りの返事がきた。その代わり、パリ市近代美術館学芸員・美術評論家のマリー・オディル・ブリオMarie-OdileBriotとのインタビュー記事のコピーが送付され、それを参考にして欲しいとのことだった。インタビュー記事はかなりのヴォリュームがあり、すべてを紹介することができないので、抜粋のみを以下に掲載する。

マリー・オディル・ブリオ:あなたは作品の展示場所にこだわりがあるそうですが、日本であなたの巡回展が催された時、展示場の場所は日本側が提示してきたのですか?それとも、あなたに場所を選ぶのを任されたのですか?

ソウ:はい、そうです。私に白紙委任状を渡してくれました。勿論、若干の変更はありましたが、私は図面やスケッチを作成し、私がやろうとすることを説明しました。

マリー・オディル・ブリオ:あなたは作品を制作する時、何かに達成したいという明確なイメージがありますか?

ソウ:はい。でなければ、あれこれためらい、変化します。それ故に、私はデッサンを描きません。デッサンを描くと、作品はそれで終了してしまいます。デッサンに戻ることを余儀なくされます。直接、彫刻することで、作品に自由を与えることができるのです。それ故に、作品を見た人は、快い驚きを感じることができます。

マリー・オディル・ブリオ:あなたは、必要以外は、デッサンを描かないのですね…

ソウ:私はデッサンを描くことはできます。デッサンは小学生の時の好きな科目でした。日本に滞在中、日本人には手際よくデッサンを描いて説明をしました。しかし私は、デッサンには興味がないのです。

マリー・オディル・ブリオ:ヌ―バ族の作品を制作する時、小さい彫刻から大きな彫刻に移りましたが、人から止められる前に幾つの彫刻を壊しましたか?

ソウ:壊した彫刻の数は記録していないので分かりません。私が望むものでなければ、本能的に壊しました。気に入らない作品がある時は、他の人がたとえ良いと言っても、それを壊す勇気を持たなけれはなりません。例えば、制作中インディアンの馬を壊しましたが、馬があまりに重く、しまりのない外観だったからです。私が欲していたことと合致していませんでした。このような状態はインディアンのシリーズの作品が終了するまで続きました。

マリー・オディル・ブリオ:あなたは自分を偽ることができないのですね?

ソウ:私が一番嫌いなのは、偽善と、そして、いわれのない意地悪です。その人が好きでなくても、意地悪になる必要はありません。私はあなたが言うように少し反抗的かもしれません。偽善を見出した時は、そこから離れ、見ないようにします。離れることにより、安堵を感じるのです。

マリー・オディル・ブリオ:あなたはそこに⦅芸術性⦆を感じているのですね?その安堵は、世間から引き籠っているあなたの哲学と一致しているように見えます。

ソウ:私は世間から引き籠っているのではありません。なぜなら、人間を見るのは好きだからです。多くの人は、たくさんの人と会って、いろいろな話しをすることを必要とします。私はその逆で、孤独を探し、そこで自己を実現するのです。私は私自身と一緒にいると退屈することはありません。

マリー・オディル・ブリオ:あなたは他の人の要求以上にあなた自身の要求に自信があるように思えます。

ソウ:そうです。若い頃は正にそうでした。不思議なことに、この自信は、年を取ることによって得たものではありません。常に強い自信を持っていました。そういう傾向が強かったのです。私が子供の時、もし月を取って来るように言われたら、靴を履いてすぐに月を取りに出かけたでしょう。棒を高く掲げ、月が取れるよう挑戦していました。

マリー・オディル・ブリオ:いつ頃から、アーティストであることを感じましたか?

ソウ:私は運動療法士の仕事が終わった後や、日曜日などに彫刻を制作していました。そして、何もすることが無い時は、すぐに制作に取り掛かりました。パリ郊外のモンルイユの診療所では、客と客の間の時間がある時に、彫刻を制作していました。それは私の行動に変化が現れた時で、制作活動により多くの時間をかけ始めていました。多分、その頃からアーティストであることを意識していたと思います。

マリー・オディル・ブリオ:あなたが作品を制作し始めた時、アートに対する哲学や概念がすでにありましたか?

ソウ:アートに対する哲学を悟ったのは、運動療法士の仕事から芸術の仕事に転職することを決めた時でした。しかし、物事はそううまくは行きませんでした。

それは完全な変化でした。私が運動療法士だった時は、治療の対価としてお金を払ってくれました。しかし、アーティストとしてはそれを期待することはできません。それは単なる自己満足です。作品を売らないで、彫刻を制作し続ける覚悟ができたと思います。お金の概念は、完璧に消えました。

マリー・オディル・ブリオ:具象との関係はどうですか?子供の頃から物を《いじって》人物を作っていたのですか?

ソウ:はい。アートは表現手段だと思います。人は理解されたいために会話をします。それと同じようにアートは創作されても、人がそれを理解しないならば、興味を持たれないのです。

私がこれから何をするか、何をしたいのかを尋ねられても、私は全然気になりません。厄介なのは、誰もいないところに向って話しをしたり、独り言を言われることです。

マリー・オディル・ブリオ:子供の頃や若い頃からそのように行動してきたのですか?《理解しやすい》表現手段を探しているのですか?

ソウ:はい。人が私を理解してくれないことや、私が言っていることを間違って解釈されることに恐怖を覚えます。それはアートでも同じです。私は抽象的作品を作る事はできなかったので、むしろ具象作品を創ることを選んだのだと思います。

マリー・オディル・ブリオ:あなたの人生とあなたの作品にどんな関係がありますか?

ソウ:私は何かに成功すると幸せを感じます。私の人生においてそれが重要なことです。運動療法士の仕事をしている時、私は行きたい所に到達するための道を知っていましたが、今は、手探りの状態です。

マリー・オディル・ブリオ:あなたの彫刻について、あるジャーナリストは、あなたはジャコメッティからロダンに移ったと言いました。

ソウ:確かに。彼が私にそう言った時、私は『本当だ』と呟きました。技術ではなく、仕事の進め方です。まず骨格を作り、そして筋肉で包み込む、やり方です。

マリー・オディル・ブリオ:あなたは、ロダンとジャコメッティの彫刻を敬愛していますが、彼らはあなたにとってのお手本ですか?

ソウ:彼らだけではありません。ブルデル、マイヨール、カミーユ・クローデルも好きです。お手本ではなく、ただ単に私が好きなアーティストということです。

マリー・オディル・ブリオ:あなたがパリにいた時、彼らの作品を見に行きましたか?

ソウ:はい。できるだけ頻繁に見に行きました。

マリー・オディル・ブリオ:ジャコメッティの作品のどんなところが好きですか?

ソウ:簡潔さです。そして細身の形です。彼は並外れた足を持つ大きな彫刻を制作しています。安定性だけの問題ならば、台座を設け、正常な足を作っていたと思います。ジャコメッティには、誇張と簡潔さがあります。分かり易い彫刻だと思います。純粋な状態を創りあげる天才です。

マリー・オディル・ブリオ:ブルデルはどうですか?

ソウ:彼の作品は塊です。

マリー・オディル・ブリオ:マイヨールはどうですか?やはり塊ですか?

ソウ:はい。塊を置いて、それを生き生きとさせています。マイヨールの陽気な面もありますが、自分自身を真剣に受け止めていないような印象を受けます。

マリー・オディル・ブリオ:あなたは《ダカールのロダン》と言われています。

ソウ:くだらないことだと思います。レッテルを貼るのは簡単で、そのような言い方は、《知的怠惰》と思います。ロダンは、ブルデルと同じようにたった一人です。

マリー・オディル・ブリオ:ロダンの作品のどんなところが好きですか?

ソウ:大胆さです。誇張しなければならないことをロダンは誇張するのです。人体解剖学に知識がある人が、例えば、ロダンの《考える人》を観察すると、前腕は短く、肩の筋肉は非常に下がっています。ロダンはそれを故意にやっているのです。カミーユ・クローデルはそれを理解できませんでした。彼女は想像できないほどの完璧性を持って彫刻をしましたが、表現力が少ないのです。表現を与えるためには、誇張は不可欠です。なぜならば、すべての解剖学的要素をそのまま形にしたら、彫刻は力を持たなくなります。《リトル・ビッグ・ホーンの戦い》の作品の中で、負傷した馬の足はねじれ、くぼみ、背中は本当の馬には見られない丸みがあります。これは近づく馬の死を表現しているのです。

マリー・オディル・ブリオ:ロダン美術館で《バルザック像》の下彫りを見たと思います。ロダンはまず体を形づくり、そして次に形を覆います。これはあなたの制作の仕方と少し似ているように思えます。

ソウ:はい。私は何かを作ろうと決めたら、とことん最後まで行きます。新しいシリーズの《リトル・ビッグ・ホーンの戦い》は、私が最初に作った彫刻と比べたら全く似ていません。私が作ろうとしている作品はざらついた感触があります。すべすべした作品は好きではありません。

マリー・オディル・ブリオ:あなたはパリにいた時、アフリカ美術を見に人類博物館に行ったことがありますか?

ソウ:はい、あります。1950年代に行きました。アフリカの国王の衣装を見ることができました。

マリー・オディル・ブリオ:あなたの映画に関する見解に驚きました。あなたは、次のように言っていました:「映画では、上半身のショットや顔のクローズアップを見る時、たとえ顔が大スクリーンの上で高さ4mに映っても、それは常に顔であることが分かっています。従って、プロポーションというのは意味がないのです」

あなたには解剖学の深い知識があります。それは、正確ゆえに人を惑わすということで、プロポーションに関する自由を奪うことだと思います。

ソウ:人間の体を治療する仕事に就いていたことは、私に自由を与えてくれました。怪物を作らず、形を変えることなく、私がどこまでゆけるか私は知っています。限界を知っています。人間の体を知らない人、プロポーションの理論しか知らない人には自由はありません。私が解剖学を学んだのは、彫刻をする事を目的にしたのではなく、人間の体を治療するためです。人間の体形が一定ではないことを私は知っています。《美学》が主要な要素である美術学校の生徒は、この分野では敢えて冒険はしません。運動療法士の経験は私を大いに助け、人間の体に関し自信を与えてくれました。

マリー・オディル・ブリオ:ルーブル美術館に行った時、ギリシャの彫刻は好きではなかったですか?

ソウ:あまり好きではなかったですが、いくつかの彫刻は好きでした。それらは多分、完璧さを追求するあまり彫刻を冷たくしていると思いました。

マリー・オディル・ブリオ:あなたは「人間の体を作るのを知っていれば、動物の体を作るのは問題ない」と言っています。

ソウ:人間の体は建築です。論理性が無いので、作るのが最も難しいのです。男性や女性の胸、ヴォリューム感、手など、これらは動物には見られません。人間の体を作るのは非常に複雑です。脊椎もです。人間は丸みがありますが、平たいです。体の真ん中を通る溝があり、両側に骨の隆起があります。人間の体は筋肉の存在ゆえに作るのが複雑なのです。ある動きの中で、筋肉を目立たせることをしなければ、その動きは無と化します。

マリー・オディル・ブリオ:それは、委縮した筋肉のリハビリから学んだことですね。

ソウ:はい。触診するからです。学校にいた時、分析解剖学を学びました。人が立っている時、または歩いている時、どの筋肉が動くかを知る必要があります。どの筋肉が休んでいるか、どの筋肉が半分休んでいるかを学ぶのです。私にとってそれは極めて重要なことです。分析解剖学によって、収縮している筋肉と休んでいる筋肉との拮抗作用をよりよく理解することができました。

マリー・オディル・ブリオ:アートや彫刻はあなたにとって一種の気晴らしでもあるのですか?

ソウ:はい、良い意味でそうです。いつも見ていること、感じていること、時として想像することから離れることができます。それを引き起こすことができれば最高です。

マリー・オディル・ブリオ:それは好奇心でしょうか?

ソウ:例えば、観客が目に涙を浮かべて映画館から出て来るのを見ると、それは好奇心を超えていると思います。アートを定義するのは難しいです。アートを制作している人たちが、アートを明確にすることができるかどうかは私には分かりません。なぜならば、アートの認識は人によって変わるので的確な定義ができないからです。

マリー・オディル・ブリオ:あなたが扱ったすべての主題や、制作したすべての彫刻はあなたを感動させましたか?

ソウ:はい、すべてです。まず、作品を制作している時の感動です。そして作品が完成した時の感動です。

マリー・オディル・ブリオ:あなたは彫刻を制作するのをやめたことはなかったですか?

ソウ:やめたことはなかったです。自分には才能を活かすことが必要だと分かっていました。私は何度も引っ越しをしたので、時期によっては制作を控えめにしていたことはあります。平静な生活に戻り、落ち着くと直ちに彫刻を再開しました。

マリー・オディル・ブリオ:手元にあったいろいろな材料を用いて作品を作ったのですね?

ソウ:1968年~1970年にかけて、私は作品を作り始めました。その時私は、石灰岩の使用を続けることができなかったので、新しい材料を見つけなければなりませんでした。

マリー・オディル・ブリオ:石灰岩の切削から塑造成形に変わった重要な転換期にあったのですね?

ソウ:いいえ、それほど重要ではありませんでした。人は、石灰岩の切削と塑造成形の違いをしばしば問題にします。彫刻で有名になった人たちは塑造成形から始めています。最初は石膏、時として土を使い、次に青銅を溶かし、カラカラ大理石を用いたのです。

マリー・オディル・ブリオ:石灰岩の切削をやめてから、あなた自身の材料を探し求めたのですね?

ソウ:そうです。

マリー・オディル・ブリオ:第1回世界黒人芸術祭であなたは浅浮彫を出品しました。モール人の頭像でしたか?それとも肖像彫刻でしたか?

ソウ:肖像彫刻でしたが、特定な人ではありません。それを友達にプレゼントしたら、泥棒に盗まれてしまったそうです。

マリー・オディル・ブリオ:それは浅浮彫ですか?

ソウ:はい。3つ制作しました。

マリー・オディル・ブリオ:石灰岩を切削した作品は保存していないのですか?

ソウ:もう50年以上前に遡ります。遠い昔のことです。確か最後の作品は「船乗り」でした。彼の額の色を覚えています。額のつやを出すのに苦労しました。そこに色をつけました。

マリー・オディル・ブリオ:石灰岩を切削していた時期にすでに色をつけていたのですね?

ソウ:いくつかの作品にです。最初の頃の作品には色はついていません。色をつけたいと思ったのはその後です。

マリー・オディル・ブリオ:あなた独自の材料を《製造》するため、いつ頃から廃材を使うようになったのですか?

ソウ:私が子供だった頃、接着剤を使っていましたが、あまりくっつきませんでした。彫刻を完成させるためネオプレン接着剤を使ったことがあります。最強の接着材でしたが、ある時期からやめました。圧力や熱に弱かったのです。アフリカで販売されている接着剤は品質が良くありませんでした。重要なヴォリュームを作るのに必要な接着剤を買うお金がなかったため、私は廃材を集め、それを分解し、他の材料と組み合わせました。しかし、それは一度では出来ず、多くの試行錯誤を行いました。物事がうまくゆくまで忍耐が必要でした。

マリー・オディル・ブリオ:「アートとは何か?私にとってアートとは何か?」と自問したことがありますか?輪廻転生を悟ったように、物事について何かを悟りましたか?

ソウ:輪廻転生は、知識人が指摘するように、《ゆっくりだが着実な歩み》であり、《長い道のり》です。しかし、アートは感性であり、感じる事を言葉で表すのは難しいことです。物事が少しずつ必然に向かって進化しているので私は敢えて自問することはしません。計算をする必要もありません。それが私の人生の正常な歩みです。

マリー・オディル・ブリオ:あなたの家の設計は、人生およびアートの哲学と合致していますか?訪問者は上階にある瞑想室に驚かされます…階下には日常の部屋があり、筋トレルームがありますね…

ソウ:私はとても信心深いです。かつては基本的に無神論者でした。つまり、神を語らず、神を称えない人でした。しかし、私は逆説的な無神論者だったのです。病院に勤務していた時、死が間近の少年をリハビリしていました。私は神に反抗していましたが、結局それは神を認識していることでした。彫刻を始めた時、幾人かの人々が「あなたの作品は生きているように見える」と言ってくれました。私は、「すべての神の被造物は、彫刻よりも多くの価値を持っている」と答えました。

マリー・オディル・ブリオ:あなたは信仰していますか?

ソウ:はい。信仰心は私の心の中にしっかり根を下ろしていて、徐々に強くなってゆきます。それは恐いからではありません。人は病気になったり、年を取ったり、死に近づくと信心深くなりますが、私の信仰は発展途上にあります。

マリー・オディル・ブリオ:あなたは宗教的な環境で育ったのですか?

ソウ:はい。イスラム教の環境の中で育ちました。

マリー・オディル・ブリオ:あなたはダカールに生まれましたが、そこには伝統文化やアニミズム文化は無いのですか?

ソウ:ここでは、アニミズムと宗教、特にイスラム教と混同されています。カトリックも同様です。病気になった時、御守りを身に付けたり、呪文を唱えます。それらはすべてアニミズムと共通点があります。アニミズムとイスラム教の境界は完全に明確ではありません。

マリー・オディル・ブリオ:あなたは、「信仰は徐々に強くなってゆく」と言いましたが、それは、アートや彫刻の制作も同じですか?

ソウ:はい。神と等しくなることは絶対に不可能であると分かっていますが、常に神を真似るようにしています。

マリー・オディル・ブリオ:それでは、あなたにとって《創作物》はむなしい言葉ではないのですね?あなたは神の創造物を真似ることで、自分自身を創造主と感じているのですか?

ソウ:その言葉は多くのことを意味しています。私にとって、《創作物》というのは、他の人ができなかったとを、私が成功したことを指します。それが私の定義です。それは、子供が父親の靴を履くことに少し似ています。神は私たちが大袈裟に身振りをしたり、真似をしたりしている時、きっと笑っていると思います。それは《創造物》というよりむしろ《模倣作》です。模倣することは私たちに喜びを与え、神秘性を少し明らかにするからです。

マリー・オディル・ブリオ:神秘性とは何ですか?

ソウ:彫刻の神秘性です。現在制作しているインディアンの顔がどんな顔になるか私には分かりません。それは謎です。制作途中ですが、まだ謎です。私が顔を作り、インディアンたちがお互いに見つめ合い、彼らの動作が相手と向かい合った時、彼らは何かを表現し始めるのです。現在、下彫りの段階ですが、とてもわくわくしています。私を見つめる顔や他の人を見つめる顔を作っている時、私は「汚い顔だ」とか「いい顔だ」と独りで呟いています。偏見や先入観はありません。

マリー・オディル・ブリオ:そのようにして、あなたは神を模倣しているのですか?

ソウ:人間の顔を再現しながら、どこまで行けるかを見てみたいという好奇心はあります。しかしながら、それ以上は進むことはできません。たとえ彼らに魂を吹き込むことが出来るとしても、私はそれをやらないでしょう。なぜならば興味がないからです。

マリー・オディル・ブリオ:あなたは魂の再生を信じますか?何か気がかりなことがありますか?

ソウ:はい、私は魂の再生を信じています。ヒンズー教の教えは理にかなっているように思います。魂が再生する度に魂が浄化し、最初の状態に戻るのです。最初の状態に戻れば、もう魂の再生はありません。私が子供だった時、天国は、仕事をしないで、欲しいものをお願いし、それを手にいれることができる場所だ、と教わりました。しかし、私にとってそれは地獄です。欲しいものを手に入れるために努力をしなくなる、そういうことに私は納得できませんでした。

マリー・オディル・ブリオ:仕事中に訪問者が来るのは構いませんか?

ソウ:仕事が中断されると、他の事を考えなければなりません。それは有益だと思います。仕事でへとへとになるのを避けられます。人が来ると、待つか待たないかは別として、小休止になります。

マリー・オディル・ブリオ:人が予告なしに来る方が良いのですか?

ソウ:はい、そうです。なぜならば、訪問者が前もって分かっていると、何故かうまくいかないのです。予告なしに人が来た場合は、私の考え方を尊敬し、仕事を彼らのために止めるのではなく、私のために止めることを分かってもらいます。それは、私にとっては仕事の区切りになるのです。言ってみれば人生のアドリブです。

マリー・オディル・ブリオ:つまり、即興に任せるということですが、それはあなたの世界観の重要な面のような気がします。

ソウ:私は杓子定規な人生は好みません。守らなければならない予定やすべてが取り決められている人生は嫌いです。人生の予期せぬことが好きです。私にはかつて雇い主はいませんでした。それが私を政治から遠ざけた理由です。私の運命が誰かに左右されるのは望みません。朝から晩まで、私は私の運命の支配者でいたいのです。それは幸運にも獲得できた贅沢かもしれません。今の私の歳では、もはや雇い主もいないでしょう。

ジャン・メイサ・ジョップとのインタビュー

ジョップ:なぜ《ヌバ族》と《リトル・ビッグ・ホーンの戦い》を作品のテーマに選んだのですか?

ソウ:《ヌバ族》の作品を作ったのは、南スーダンの人々が、中央政権の不当な抑圧の犠牲になった、という新聞記事を読んでインスピレーションを受けたからです。

《リトル・ビッグ・ホーンの戦い》のインディアンたちは、かれらの聖地が荒らされ、約束が反故されたためアメリカ連邦政府に不信感と怒りを抱き、戦いを始めたのです。インディアン達がアメリカの社会に溶け込んでいる今、《リトル・ビッグ・ホーンの戦い》を再現するのは、突飛で時代遅れかもしれません。しかし、彼らは現在、別の戦いを強いられているのです。

ジョップ:つまり彼らの現在の問題を人々に警告するためにインディアンの物語を想起しているのですね?

ソウ:いいえ。私にはどんな規則にも従わないという哲学があり、自分に興味があることしかやりません。私に興味があるのは、インディアンとアフリカ人には、生活様式や魔術師の役割など、多くの類似性があるということです。この点からすると、私は私の展示会を見てくれた人には理解されているような気がします。

ジョップ:セネガルに住むアメリカ人も《リトル・ビッグ・ホーンの戦い》を見たと思いますが、彼らはどのような認識を持ったと思われますか?

ソウ:展示場に常にいた訳ではないので分かりませんが、むしろアメリカでの展示を待つ必要があると思います。私の意見では、ダカールで彫刻を見ることと、その歴史が起きた国で見ることとは、認識のずれがあると思います。

ジョップ:ヌバ族、マサイ族、プル族、ズールー族のあと、次はどのアフリカの部族が対象になるかと期待されていました。アフリカではなく、むしろ大西洋の向こう側の部族ですか?

ソウ:私には人間の全体像があります。アフリカは私が生まれた大陸で、そこにずっと滞在していました。しかし他の場所でも、私たちが生き、我慢していることと同じようなことが起きています。場所に関係なく、人は根本的に同じような人生を生きていると思います。

ジョップ:《リトル・ビッグ・ホーンの戦い》を見たセネガル人は、「なぜ、《デクレDélkeuléの戦い》を先に制作しなかったのだろう」と冗談を言いますが….

(訳注:《デクレの戦い》は、1886年に、彼の大叔父にあたる反仏抵抗の英雄ラット・ジョール王とフランス軍が行った戦い。この戦いでラット・ジョールは戦死した)

ソウ:私は戦争熱をあおる風潮や歴史の清算に流されることはありません。私が《リトル・ビッグ・ホーンの戦い》を制作したのは、田舎の日常生活における《ヌバ》や《マサイ》とは違うインディアンたちの表現を提示し、動きを見せたかったのです。私は、インディアンの日常活動を表現するのに十分にインディアンの社会を知りませんし、どんな時にどんな活動をしているのかも分かりません。私は単調さと異常さが嫌いなので、より一般的で、よりグローバルなものを選ぶようにしまた。それが《リトル・ビッグ・ホーンの戦い》です。この作品では、白人とインディアンの2つの人種が対立し、2つの異なった行動が見られます。1つはインディアンの平静さ。もう1つは連邦政府軍の衝撃と状況の悪化に対する動揺です。私はそれを彫刻に表現し、多くの見学者は私の意図を理解してくれたと思います。もしラット・ジョールを作品にするとしたら、彼の生き方に焦点を当てることになるでしょう。彼がどのような人生を送り、どのように勝利を収めたかを、彼の伝説と側近たちと共に表現することになると思います。

ジョップ:ウスマン・ソウはアフリカよりも、むしろ全世界でより知られています。この逆説は、あなたの彫刻の重量、輸送費や保険料が高額であることに因るものだと思われます。

ソウ:確かに。悲しいことです。私も辛いです。セネガル以外にアフリカの国で展示会をやったことはありません。しかし、それは意欲の問題だと思います。ウスマン・ソウの作品を展示することは、アフリカの多くの国々で見られる贅沢な出費よりお金はかかりません。どんな国も私の作品を受け入れることができると思います。もし予算が足りない場合は、ダカールで《リトル・ビッグ・ホーンの戦い》を設置した時のように、スポンサーに支援を仰ぐことを提案します。ダカールの多数の企業が協賛してくれました。アフリカでは決定者に意欲が欠如していると思います。彼らにとってかけがえのないものであれば、すべてのことをやるでしょう。セネガル以外の国で私の作品を展示する場合、どのようになるか予測がつきません。セネガルの人々がテレビや外国の新聞でしか私の作品を見ることができないのは大変悲しいことです。

『老人』(「Paroles de griots」より転載)

《参考文献・Webサイト》 

・『L’art africain』Editions Scala

・『L’art en marche de Ndary Lo』Musée Dapper

・『Entretien Ndary Lô』Le Matin 15/05/2000

・『Ndary Lô』Dakar Soir Vendredi 28 Janvier 2000

・『La longue marche de Ndary Lô』Zenith 15-21/12/200

・『Entretien inachavé』Marie-Odile Briot

・『Ousmane Sow, La splendeur sauvage des hommes』Olivier Cena, Paris, Télérama Sa

・『ポン・デ・ザールのウスマン・ソーの彫刻展』Ovni navi No. 434  1999.04.01

・『Paroles de griots』ALBIN MICHEL

・『Erigé à Dakar, le monument de la Renaissance africaine divise la société sénégalaise』 Le Monde 03/04/2010

・『Cultures Africaines Babacar Sédikh Traoré』RFI  30/07/1998

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