セネガルサッカー 1/2

アリウ・シセ  Aliou Cissé

アリウ・シセ
(Wikipediaより転載)

1976年3月24日、セネガル南部の都市ジゲンショールに生まれる。

9歳の時、家族と共にフランスに移住。

現役時代は、パリ・サンジェルマンFCやモンペリエHSCなどでプレーをした。

ポジションは、DF(センターバック)、MF(ボランチ)。

オコシャやロナウジーニョの傍でプレーしたことは良い経験になったと言う。

メツ監督に呼ばれてセネガル代表チームに入り、2002年の日韓ワールドカップではキャプテンを務める。

2006、古巣のスダンFCに戻り、引退までプレーする。《スター》になることはなく、あくまでも《労働者》だった、と彼自身は述懐している。

2015、セネガル代表チームの監督に就任。

現在、アフリカ大陸で台頭しつつある新世代監督の代表格でもある。メツとは対照的に、シセはチームに明確な戦術的アイデンティティを与えることを重視している。選手の才能に依存する部分が大きい。

トレッドヘアにスーツ姿、ダンスのような身振り・手振りに、日本のサッカーファンも魅せられている。

20029、ガンビア沖で発生した旅客船ジョラ号遭難事故では、シセの姉と親族10人が亡くなった。

2015年、セネガル代表チームの監督アラン・ジレスは、2014-2015年のアフリカ・ネーションズ・カップの第1次予選で、セネガルが敗退したことの責任を取り、代表監督を辞任した。同年3月4日、セネガル・サッカー連盟(FSF)は、ジレスの後任にシセを代表監督に選任した。

就任の際、シセは今後の展望を次のように語っている:

「我々にとっては新たな挑戦だ。グループステージのような形式で試合に臨むことには慣れているが、ノックアウトステージはまったく違う。勝ち残っているのは良いチームだけで、世界のベストチームによって争われる。だからこそ、どのような相手にも対応できるように準備しなければならない」

「勝つか負けるかの2択しか用意されておらず、そこには2度目はない。勝てば突破、負ければ敗退だ。だからこそ今はとにかく休み、次の試合に向けてコンディションを整えるというシンプルなことに集中したい」(SOCCERKING 2022.11.30)

シセは、当時、低迷していたセネガル代表チームを2002年のような戦術的なチームにし、サディオ・マネやカリドゥ・クリバリをチームの中心選手においた。これによりセネガル代表チームは復活し、快進撃を始めることになる。

シセは、チームに明確な戦術的アイデンティティを与えることを重視している。また、チームとしての基本戦略とそれに基づくゲームモデルの枠内で、ポジション・チェンジを頻繁に行う流動性の高いスタイル、《ポリバレンス(多様な機能性》を目指している。

2018のW杯ロシア大会のアフリカ第3予選では、グループ首位で4大会ぶり2度目の本大会出場を決めた。

2017年12月1、シセは組み分け抽選会のためモスクワを訪れ、くじを引いた。抽選の結果、セネガルがポーランド、コロンビア、日本と同じグループHに入ったことを知ると、シセは「このグループはバランスは良いが厳しい。ポーランドは皆さんご存知の通り。コロンビアは国際試合の経験が豊富だ。日本はやれることは何でもやる(努力を惜しまない)だろう」と感想を述べ、「セネガルらしさを保ったままの代表チームで、再びここロシアに戻って来る」と語った。

2018の本大会では、初戦のポーランド戦は2対1で勝利。第2戦の日本戦では、サディオ・マネのゴールなどで2対2の引き分けにもつれこんだ。最終戦のコロンビア戦では、0対1で敗れた。3戦を終えた時点で、日本と勝ち点、得失点差、総得点の全てで並んだものの、大会史上初めての「フェアプレーポイント」(反則ポイント)の差により3位となり、グループリーグ敗退となった。(注:セネガル代表の勝ち点は4で日本と並んだが、日本よりイエローカードが2枚多かった)

2021年開催のアフリカ・ネーションズ・カップでは、エジプトをPK戦の末に破り、セネガル代表チームを初優勝に導いた。

2022のW杯カタール大会アフリカ最終予選でもエジプトと対戦。アウェーで行われた第1戦は、0対1で敗れたが、ホームで行われた第2戦では1対0 の末、PK戦にもつれ込み、最後は5人目のマネが決め、2大会連続の本大会出場を果たした。

しかし、大会直前に、エースのマネが負傷のため欠場するというアクシデントに見舞われた。大きな不安を抱えながら開幕戦を迎えるが、初戦でオランダに0対2で敗戦。しかし、第2戦で開催国のカタールに3対1で勝利した。最終戦のエクアドル戦では、後半、クリバリが決勝ゴールを決め、2対1で勝利し、2002年の日韓大会以来20年ぶりの決勝トーナメント進出を果たした。

ベスト16の第1試合では、イングランドと対戦し0対3で完敗した。

2024年3月8、セネガルサッカー連盟(FSF)は、アリウ・シセ監督と2026年まで契約を延長したことを発表。この契約延長により、2025年のモロッコ開催のアフリカ・ネーションズ・カップおよび2026年北中米W杯予選を指揮することになった。

Aliou Cisse 3

ブリュノ・メツは2012年の最後のインタビューで、アリウ・シセに絶大な賛辞を贈っている(筆者訳):

「アリウ・シセは《人間たち》の指導者だ。彼は成功するために必要なすべての能力を持っている。進取の気性に富み、気骨があり、勇猛果敢だ。彼は私のチームのキャプテンとして有能だった。彼の人柄が代表チームに反映されるだろう。真面目で、厳しく、サッカーに対する情熱が強い。彼に代表チームを任せることは本当に良い考えだと思う。

彼のことは昔から知っている。私が彼の才能を見出した時、彼はまだ若かった。彼が17歳の時、リールで会った。(1993年、メツがLOSCの監督だった時、シセがデビューした) そして、1997年に私が彼をCSスダンに呼んだのだ。

その後、彼はパリ・サンジェルマンに移籍した。強い意思と人柄でサッカーの道を切り開いて行った。彼の才能が彼の個性なのだ。フィールドの勝利者であり、ディディエ・デシャンのように、勝つための情熱をすべての人に伝える男だ。彼は代表チームの選手に自分の考え方を理解させることができる。現在のチームのことをよく知っているので、チームの内部から改革ができると思う

2012年のロンドン・オリンピックの際、シセは監督補佐として参加し結果はベスト8だった。

彼が選手たちの長所や短所をすでに知っているのは大きな利点で、時間のロスを避けることができる。セネガルチームには時間がないからちょうど良い。すぐに目標に到達できる。シセは状況をコントロールする男だ。成功する才能を持っている」(『Dakaractu』より)

【参考文献・Webサイト】

・『Aux origines du football sénégalais』La revue de Dakar

・『La presse sénégalaise d’hier à aujourd’hui : Evolution et difficultés des journaux sportifs dakarois』Ibrahima Sarr et Mamadou Koumé

・『2002年6月1日付朝日新聞』

・『2002年6月12日付朝日新聞』

・『2002年6月12日付スポーツニッポン』

・『2002年6月17日付朝日新聞』

・『Questions directes  Bruno Metsu』TFM 23/04/2012

・『「ブルーノ・メツ 柔軟な独裁者」「リトバルスキー ‘’列強崩壊’’には理由がある」「ダビド・トレゼゲ ジダンの故障は痛かった」「エル・ハジ・ディウフ」』Number 2002/7/3 臨時増刊号 4

・『一流を育てる:W杯代表監督「ブルーノ・メツ(セネガル」、「ロジェ・ルメール(フランス)」』朝日新聞be編集部編 晶文社 

・『ブルーノ・メツ 青い目のアフリカ人』ワールドサッカーマガジン2002年5月号 

・『Bruno Metsu Le lion devenu émir』14 Décembre 2002 N°1074  L’Equip Magazine

・『El Hadji Diouf Footballeur et rebelle』Ndiassé SAMBE L’Harmattan

・『Sadio Mané』文:Frank Simon 翻訳:井川洋一  Number March 2021

・『リバプール完全読本』サンエイムック 

・『フットボリスタ2020年9号増刊 リバプール2019-20 プレミアリーグ優勝記念号』

・『Football Zone』2019.04.08

・『ワールドカップロシア 2018』nikkansports.com

・『欧州有力クラブ 最新選手名鑑』ワールドサッカーダイジェスト 2023/8/3 No.632

・『2023-2024 欧州サッカー選手名鑑』エル・ゴラッソ特別編集

・『Crises et perspectives du football sénégalais』Daour GAYE   XAMAL éditions

・『セネガルサッカー連盟』Wikipedia

・『サッカーセネガル代表』Wikipedia

・『2020年11月30日付日刊スポーツ』(松本愛香通信員)

・『SENE.NEWS』Publié le 22/02/2022

・『W杯にすべてを』Sports Graphic Number Plus World Cup 5 May 2002

・『2002年6月4日付『中央日報』』

・『日韓ワールド・カップ観戦ガイド完全版』DAI-X出版

・『2002年FIFAワールド・カップ直前パーフェクトガイド出場32か国選手名鑑』ワールドサッカーダイジェスト 2002年6月1日号増刊

・『Henry Camara』Thiof 2007年7月号

・『How I became Sadio Mané Documentary』

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