ここからは、レキップの記者エルベ・プノHervé Penotが書いた記事「ブルーノ・メツの柔軟な独裁者Sénégal But, danse et victoire」(田村修一翻訳・構成)を基に、セネガルチームが辿って来た道を振り返ってみる:
セネガル代表が劇的に変化したのは、ブリュノ・メツが監督に就任してからである。
それまであらゆる方向に見境なく流れていたエネルギーを、ひとつに束ねたのがメツ監督だった。メツ監督は静かに、そして着実に自分の仕事をこなした。
選手たちは、自分たちの才能に気づき、本当の価値を見出し始めた。
人々はメツ監督を《白い魔術師》と呼んだ。
メツ監督が目指したのは、結束が固く、連帯感に溢れたチームだった。彼の最初の決断は、就任直後にパリ近郊のシャトー・ドゥ・レジニーに、集めうる代表選手のすべてを招集したことだった。
グーニョン(フランスリーグ2部)に所属していた、アマラ・トラオレをアシスタントにして、メツ監督はチームの構築を始めた。
シャトーの大食堂で彼は、チームのコンセプト、自らの野心を語った。ついでベテラン選手たちが言葉を継ぎ、意志を表明した。
「その議論はかなり厳しかった」とトラオレは回想する。
「チームに生命を与えなければならなかったからね。私は選手たちに、それぞれが協会幹部のような責任を負う事を求めた」
軋轢もたしかにあったが、それでも、グループは徐々に固まっていった。
代表メンバーだったハリル・ファディガはチームの状況を、「僕達は仲間割れすることなく、お互いにオープンで、よく気が合った。代表チームとして合流すると、家族的でお祭りのような雰囲気だった」と述懐する。
メツ監督は仕事で手を抜くことは一切なかった。自分の流儀で選手を選び、チームを構築し、政治家や協会からの干渉をすべて排除して、試合の先発メンバーを決定した。
彼以前の監督には、それは不可能なことだった。テランガのライオン(セネガル代表の愛称)は、個々の選手の能力に見合ったレベルのチームを構築できずにいた。
2000年のアフリカ・ネーションズ・カップは、ガーナとナイジェリアの共同開催で行われ、セネガルはそこで確かな可能性を示した。準々決勝でナイジェリアに1対2と敗れたものの、ポテンシャルの高さに国中が大きな期待を抱いた。
メツ監督が賢明だったのは、就任の際に、このチームをベースに、エル=ハジ・ディウフら新しい世代を融合したことだった。アフリカ人の闘争心とMalice(狡猾さ)を呼び覚まし、ディウフのようなちょっと不良っぽい選手を積極的に登用した。
そして、メツ監督はワールドカップ予選を通じて、選手たちにある程度の自由を与えることが肝心だと気付くようになる。
ディウフの「Bad Boy(悪童)」のイメージについて聞かれると、メツ監督はこう答えた:
「試合以外のときに何をしようと気にはしない。肝心なのは試合中のパフォーマンスだ。その点では非常に満足している。」
ピッチ外では何をしてもいい。しかし、一度ピッチに立ったら。自分の役目を果たせ、責任を果たせ、結果を出せ、ということなのだろう。
選手の何人かは、夜遊びや騒ぐことが大好きだった。メツ監督は彼らの好きにさせた。
「僕らもそれはわかっていた。だから遊びから帰ると、彼のために練習に励んだ」とディウフは振り返る。
「彼がわれわれに何を与えてくれたかよく分かっている。すべては彼から始まったんだ」
その無分別で無軌道な行動から、常に批判を受けるディウフも、メツ監督に対しては尊敬の念を隠さなかった。日韓ワールドカップ地区予選でチーム1の8ゴールをあげたディウフは、本大会後にリバプールへの移籍が決まっていた。
この予選で、モロッコとエジプトを破ったセネガルは、その名前を世界中に知らしめたが、名声を決定的に高めたのは、2002年1月にマリで行われたアフリカ・ネーションズ・カップだった。1次リーグでチュニジアに競り勝ったセネガルは、準決勝でナイジェリアを延長の末に破り、初の決勝に進出した。カメルーンとの決勝戦では、「0対0」の末、PK戦に惜敗したものの、内容では確実にセネガルに軍配があがっていた。セネガルはアフリカを代表する強豪に名をつらねたのだった。
メツ監督は、2001年度のアフリカ最優秀監督に選ばれた。
「むしろ決勝は負けてよかったかもしれない」と、試合の翌朝、トラオレは語った。
「達成感が得られなければ、これからも努力をするだろう。より高いレベルに到達するために」
日韓ワールドカップ本大会直前に行われたアフリカ・ネーション・カップの決勝での敗退は、セネガル代表にフランス戦への闘志をより燃え上がらせたのかもしれない。
アフリカ・ネーションズ・カップは、次に続くワールドカップ本大会への前奏曲に過ぎなかった。
フランス・リーグのASモナコは、セネガルにサッカー選手育成センターを設立した。アルド・ジェンティニセンターAldo Gentina Academyと名付けられたその施設は、ASモナコが資金援助して地元の子供たちを育成し、優秀な選手はクラブに招き入れるというものだった。そうして育った選手の中に、ゴールキーパーのトニー・シルバやアムディ・ファイ、スレマン・カマラらがいた。
セネガル代表は、23人中21人がフランス・リーグに所属していた。彼らの大半は、《セネフSénef》と呼ばれる、子供の頃にフランスに渡り、フランスで教育を受けた選手たちである。さらにアビブ・ベイHabib Beyeやシルヴァン・ンジャイSylvain N’diayeのように、フランスで生まれた選手さえいる。セネガル代表は、《ミニ・フランス》とも呼ばれていた。
「しかしそれ以上に重要なのは、メツがわれわれを高いレベルまで導いてくれたことだ」とトラオレは言う。
「特に、彼の作った組織は優れていた。僕の知っているセネガル代表は、かつてマリのアミティエ・スタジアムで試合をしたとき、相手にボールを支配されっ放しで何もできなかった。ところが今はどうだ、まったく逆の事態が起こっているじゃないか」
もちろん功労者はメツ監督。ディウフのような問題児を手なずけるのは簡単ではなかった。
「私は本当のことを話す選手の方が、隠し事をする選手よりも好きだ」とメツ監督は言う。
「彼らは言ってしまえば気がすむからね」
そしてメツ監督は断言する。
「選手たちは対話を重視するんだよ。話し合うなかで互いの合意点を見いだし、誠実に守ろうとするんだ…..」
彼らのプレーは、味方のミスや冒険プレーを積極的にカバーし合う「相互補完マインド」にあふれていた。
メツ監督は、一見無頓着で鷹揚に見える顔の下に、勤勉で優れた戦術家の側面も持っている。
アフリカ・ネーションズ・カップの後、メツ監督はフランス対策として戦術の変更を決定する。それまでの、4-4-2に代えて、ディフを1トップに置く、4-5-1を、新たに採用した。そして相手のパスを分断することで、攻撃力を半減させようとした。
(結果的にこの作戦が功を奏し、セネガルはフランスから歴史的な勝利をあげた)
韓国入りしたセネガル代表は、厳格な規律と無縁だった。
ホテルのロビーを自由に闊歩し、誰にでも気さくにサインに応じる。そして常に冗談を言い合っては、仲間たちと騒いでいる。エル=ハジ・ディウフやカリル・ファディガらは、連日のように閉店時間までホテルのバーに入り浸っていた。
これでベスト8に進めるなどと、いったい誰が想像できただろうか。
ワールドカップに出場するチームは、どこも厳格に監理され、ホテルに閉じ込められている。ときに愛想を振りまくこともあるが、それも軍隊のような規律の範囲内でのこと。
ところがセネガル代表ときたら、それとはまったく逆。その立ち居振る舞いは、傍若無人とすら言っていい。
しかしそれは、セネガル代表の一面に過ぎない。セネガル代表には、自分たちにとって最初のワールドカップのすべてを味わい尽くそうとする貪欲さがあった。
抽選会で組み分けが決定したときから、彼らはフランス代表との対戦を心待ちにしていたのだった。
選手たちは、監督のブリュノ・メツの前で「フランスに勝てる」と宣言した。
メツ監督は彼らの意気込みに満足したが、選手たちほど自信があるわけではなかった。
「わかった。だがそのことは、決してプレスの前では言うな」
この誓いは、彼らの連帯感と団結、そして自信の象徴となった。選手たちはメツ監督に絶大な信頼を寄せていた。
セネガル代表チームは、静岡県藤枝市をキャンプ地とし、地元住民と交流を行った。
ディウフは自ら積極的に藤枝の子供達たちと触れ合い、優しい面を見せた。
キャンプ中、藤枝で柏レイソルと練習試合を行い、0対0の引き分けだった。
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