《2002年日韓ワールドカップ》
2002年5月31日。ソウルW杯スタジアム。開会式が終了した午後8時30分、運命のキックオフのホイッスルが鳴った。
(以下の試合展開は2002年6月1日付朝日新聞を基に構成した)
試合直後は、フランスが圧倒的にボールを支配した。ボールをつなぐものの、セネガル守備陣の速い寄せもあって崩せない。ミドルシュートもバーに嫌われた。
フランスの絶対的司令塔、MFジダンの欠場は大きかった。その「不在」が、フランスのサッカー内容に暗い陰を落とした。そして選手たちが、リズムを欠いた個人プレーに奔っていった。ジダンの代わりに、その重役を任されたのはジョルカエフだった。しかし、彼にとって、トレゼゲらとともに魅惑的なコンビネーションを作り出すには荷が重すぎた。
セネガルは堅い守りから、ディウフの足を生かしたカウンターで敵陣深く攻め入った。フランスのDFを、あっと言う間に置き去りにする。少しも迷いを感じさせないディウフの縦への突破。そのスピードは驚異的と表現していいほど、相手守備陣を悩ませた。
フランスの代表監督ルメールも、一度崩れたバランスを立て直すことはできなかった。
先発全員がフランスのクラブに所属するセネガルは、いわば《ミニ・フランス》、3層、4層の守備陣を敷く。個人の力に優れた分、チーム戦術に弱いというアフリカ諸国への評価はもう当てはまらない。11人が鎖のようにつながった。自分たちを育ててくれた国を相手に思う存分、力を発揮した。
【前半】
6分:《セネガル》ディウフが右から折り返し、B・ジョップが合わせたがGKの正面へ。
23分:《フランス》トレゼゲがDFをかわして放ったシュートがポストに当たる。
30分:《セネガル》DFオマール・ダフが、ジダンの代役を任されたジョルカエフからボールを絡め取り、ディウフへ。ディウフは快速ドリブルで駆け上がり、左サイドから折り返した。プティがディウフの左クロスをクリアしようとしたが、中途半端なキックで自軍のGKに当たり、ゴール前に駆け上がっていたブバ・ディオプが、はねかえったこぼれ球を懸命に左足を伸ばして押し込んでゴ-----ル!
アフリカ勢特有のスピードと身体能力の高さを改めて証明するような速攻で、連覇を狙う強豪フランスを初出場のセネガルが沈めた一発だった。
38分:《フランス》約25mのFKをジョルカエフが直接狙ったが、GKの正面へ。
【後半】
12分:《フランス》アンリが頭で狙ったが枠外。再三ゴールに迫ったが実らず。
20分:《セネガル》ファディガがエリア内で放った強烈なシュートはバーに当たる。
21分:《フランス》アンリがループ気味に放ったシュートはバーに当たる。
48分:《フランス》CKからルブフがフリーでシュート。ボールはGKの正面へ。
試合終了のホイッスルが鳴り、セネガルが1対0で勝利。
セネガルの選手たちは跳び上がり、笑顔で抱き合った。
前回優勝のフランスが敗れる波乱のスタートとなった。
試合終了後、当時のセネガル共和国の大統領アブドゥライ・ワドまでが、ダカールの街角に繰り出し、国旗を振りかざして勝利を祝ったという。
この勝利は、植民地時代、宗主国だったフランスへの《リベンジ》だ、と言う人がいるが、セネガル代表の多くが、ヨーロッパのクラブで養成され、経験を積み、学んだことを考えると、勝利はフランスへの《恩返し》と筆者は考える。
フランス代表のMF、トレゼゲは試合をこう振り返っている:
「セネガル戦で勝ちにいくという意識が足りなかったんだと思う。さらに、なかなか僕の所にボールが入ってこなかったしね。デサーイはディウフの走り回るプレーを褒めて、僕のプレーに注文をつけたんだ。僕がボールをキープしなかったとか。でも、彼はディウフと僕が同じタイプのフォワードじゃないということに気づいていない。ひょっとしたら、4-4-2や4-3-2-1で闘うべきだったのかもしれない。セネガルは僕達の戦い方を知り尽くしていた。必ず同じ方法でボールを奪っていったからね。さらにジダンがいないせいで、攻めのバリエーションが乏しかったのも事実だ。セネガルの鉄壁のディフェンスを破るには、サイドから攻めなくてはいけないのに。その辺の戦術の部分が大きな反省点なのかもしれない。」(Number臨時増刊号4『ジダンの故障は痛かった』パトリック・デソ―文、栗木幸二郎訳)
元西ドイツ代表MFリトバルスキーは、この試合を以下のように分析している:
「フランスの第1試合のセネガル戦は、選手のボディランゲージに注目していた。メンタル面を如実に伝えてくれるからね。試合の雰囲気はすごくフレンドリだった。セネガル人はフランス語を話すし、監督もフランス人だ。だからライバル同士という感じも、W杯の試合だという空気もなかった。何が何でも勝つ、という雰囲気がフランスからは感じられなかった。
トレゼゲは、シュートがバーを叩いた時、笑っていただろう?あれは『問題ない。またチャンスはあるさ』と考えていた証拠だね。フランスは、自分たちは1番いいチームで、セネガルはレベルが低い、だからこのまま試合を続ければいいという考え方をしていた。でも40分、60分と進んで厳しい展開になっていたとき、彼らは答えを見出すことも、流れを変えることもできなかった」(Number臨時創刊号4『”列強崩壊”には理由がある』田邉雅之)
今回のフランス代表の中にセネガル出身の選手がいた。守備的ミッド・フィルダー、パトリック・ビエラである。
セネガルの首都ダカールで生まれ、祖父母と暮らしていたが、7歳の時、母と暮らすためにパリ郊外に移住した。
身長192cm、体重82kg。脚の長さを生かしたスライディングタックルで敵のボールを刈り取り、瞬時に攻めの起点へ送り込む。
1986年のW杯メキシコ大会で4強入りした、当時のフランス代表で名門ASカンヌの監督に見いだされ、19歳の若さでチームのキャプテンに抜擢された。
その後、ベンゲルの誘いで英国のクラブ「アーセナル」に移籍、才能が花開いた。
2度目のW杯。1998年は主将デシャンの控えだった。今は違う。「守備的MFでは世界最高」との評価が定着した。フランス代表のジダンに、「世界で一番嫌いな選手?ビエラだ。つくづく彼が味方で良かったよ」と言わせるほどだった。
試合前に流れた、フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」が流れた時、目を見開き、口を閉じたままだった。国家は歌わなかった。
祖国への郷愁を振り払う儀式が終わると、仲間とともにピッチに向った。ビエラは祖国への愛を闘志に変えた。
「自分が生まれた国と戦う複雑な感情はもちろんある。でも、国歌が流れたら、気持ちを試合に集中するつもりだ。今大会もぜひ、優勝したい」
2日前にこう話していた。
W杯が終わったら、セネガルで休暇を取る予定だ。
2001年の秋、祖国への恩返しにと、こどもたちのためのサッカーアカデミーをせ設立する計画を発表した。アカデミーの名称は、「ジャンバールDiambars」。ウォロフ語で「チャンピオン」を意味する。(2002年6月1日付朝日新聞)
こうしてセネガル代表のフランスとの熱き戦いは終わった。
しかし、セネガル代表の活躍は決して偶然や奇跡ではなかった。
セネガル代表はこの後も快進撃を続けてゆく。
【グループリーグ対デンマーク戦】
フランス戦で勝ち点3を勝ち取ったセネガルは、デンマークと対戦した。気温は34.5度まで上がり、暑い気候となった。前半、デンマークに先制点を決められたが、後半7分、流れるようなカウンターから守備的MFのジャオが右足で決め同点とした。執念のゴールで引き分けとなった。
【グループリーグ対ウルグアイ戦】
グループ最後の試合は、ウルグアイ戦。引き分ければ、ベスト16に進出できた。
ウルグアイは、1930年の第1回大会の優勝国で、1950年にも優勝経験がある古豪。
2点差以上をつけて勝つことが条件のウルグアイは、もはや積極的に攻めるしかなかった。
フランス戦で歴史的な1点を決めたパパ・ブバ・ディオプが前半戦で2ゴールを決めた。
前半戦まで3対0とリードしていたセネガルだったが、後半に3失点し、3対3で引き分けた。
これにより、1勝2引き分けでデンマークに次ぐ2位で決勝トーナメントに進出。
因みに、前半38分にアンリ・カマラの右サイドからのクロスを、パパ・ブバ・ディオプが2点目を決めた美しくアクロバティックなボレーシュートは、正に《神ゴール》と言える。
身体能力の高いアフリカ選手に戦術が浸透すれば、どれほど強いのか。フランス、デンマーク、ウルグアイと強豪ぞろいのA組を無敗で突破したセネガルが、その答えを出した。4バックと3ボランチの堅守から、縦に速い攻撃を仕掛ける。フランス人のメツ監督が導入した戦術を、フランスリーグで活躍する選手たちが理解し、見事に実践した。
セネガル代表チームのDFでキャプテンでもあったアリウ・シセは、「同点にはなったが、我々は決勝トーナメントに進出することができた。これは、アフリカサッカーの勝利だ。セネガルの歴史の中でも初めてのことで、すべてのセネガル人にとっても勝利であり、素晴らしい出来事だ」と喜びを爆発させた。
(注:アリウ・シセはその後、セネガル代表チームの監督となり、2021のアフリカ・ネーションズ・カップで、セネガル初の優勝を導いた)
メツ監督は、「この引き分けは勝ちに等しい。初出場でベスト16に進むことができたんだから、満足しているよ。アフリカのサッカーの歴史に新たなページを開き、もっと驚かせたい」と語り、終了後には選手たちとシャンパンで乾杯し、快挙を祝った。
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