セネガルサッカー 1/2

パパ・ブバ・ディオプ Papa Bouba Diop

パパ・ブバ・ディオプ

1978年1月28日、ダカール郊外のリュフィスクで生まれる。

身長:193cm

ポジション:MF

2002年5月31日、日韓ワールドカップでセネガル代表は開幕戦の初戦でフランスと戦った。前半30分、はねかえったこぼれ球を懸命に左足を伸ばして押し込んでゴールを決めたセネガルの選手、それがMFのパパ・ブバ・ディオプだった。

「本当にうれしかった。世界チャンピオンを相手にこんなことができて、もう最高の気分だ」試合後、ブバ・ディオップは興奮を隠さなかった。

このゴールがセネガル代表選手たちに自信をつけた。このゴールがなかったら、セネガルサッカーは今も《優しい・平凡な》戦いをしていたかもしれない。彼のあの《一瞬の動作》が、セネガル代表チームを《目覚め》させた。

また、ウルグアイ戦で見せた前半2点目の美しくアクロバティックなボレーシュートを、筆者は一生忘れることはないだろう

5歳の時、兄と一緒にサッカーを始める。最初は、路上でサッカーをやっていたが、

1994、ンデファン・サルティゲ・サッカークラブに加入しMFとして成長する。

1995年、ASCディアラフ・ユースチームに加入。そこでのプレーが評価され、セネガル・ジュニアチームに召集される。

ディオプはヨーロッパのクラブで活躍することが夢だった。兄は、スイスのヌシャテル・ザックスへの登録を準備していたが、ディオプがスイスでのサッカーにまず慣れるために、ヴェヴェイ・スポールクラブに登録した。

2000年6月、ヌシャテルでプレーし、2001年にグラスホッパーでプレー。

2002、RCレンスと契約を結ぶ。ここで多くのサポーターから評価される。

2002年のW杯日韓大会での活躍が評価され、フランスの高級紙ル・モンドは、ディオプを、《W杯日韓大会のベスト11》に選出した。

2004年~2007、イングランドのフラムFCでプレー。

2007年~2010、ポーツマスFCで活躍。

その後は、AEKアテネ、ウェストハム、バーミンガムとクラブを渡り歩き、

2013年1月に現役を引退した

ディオプは、難病のシャルコー・マリー・トゥース病(筋委縮性側索硬化症:ALS)を患い、長い闘病生活の末、2020年11月29日、42歳でこの世を去った。

ディオプの死は国民に深い悲しみを与えた。

ピッチを駆け回る在りし日のブバ・ディオプ

当時のマッキー・サル大統領は、彼の死を悼み、国家勲章を授与し、スポーツ選手として初めて国葬を執り行なった。また、ダカールの郊外のディアムニャージョに建設した「セネガル・スタジアム・アブドゥライ・ワドゥ」内に、「パパ・ブバ・ディオプ・サッカー博物館」を開設し彼の功績に敬意を表した。

セネガル・スタジアム・アブドゥライ・ワドゥ
(Wikipediaより転載)

『パパ・ブバ・ディオプ・サッカー博物館』の内部(SENE.NEWSより転載)
『パパ・ブバ・ディオプ・サッカー博物館』の内部(SENE.NEWSより転載)

ブバ・ディオプの奥さんの言葉

「この『パパ・ブバ・ディオプ・サッカー博物館』には、彼が選手時代にヨーロッパのクラブやアフリカで獲得したすべてのトロフィーが陳列されています。それらは皆さんのトロフィーでもあります。」

レキップ紙によると、元セネガル代表でともにプレーしたエル=ハッジ・ディウフは「友人ではなく兄弟を亡くした。個性を持った、敬意に満ちた人だった」とコメントしたという。

また、かつての所属先だったランスの元会長ジェルベ・マルテル氏も「彼は優しい青年だった。いつも笑顔で感じがよかった。技術面でも、もちろんフィジカル面でもひじょうに優れたスーパープレーヤーだった。彼がこの病気を患っていたと聞いた時、本当にショックを受けた」とコメントしていると伝えた。(『2020年11月30日付日刊スポーツ』(松本愛香通信員)

元セネガル代表メンバーで2002年にフランス代表と共に戦ったファディガの言葉

「ディオプは無口だったが、いつもやさしく微笑んでいた。彼の言葉、彼の行動、彼の心、彼の精神にはやさしさがあった」

ディオプの従兄弟は、「最後は病気が悪化し、車椅子生活だった。もう話すこともできなかった」と泣き崩れた。

ありがとう、ブーバ

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