セネガルサッカー 1/2

ブリュノ・メツ Bruno Metsu

ブリュノ・メツ

1954年1月28日、フランスのノール県に生まれる。

2006年にイスラム教に改宗。

ニックネームは「白人魔術師」

セネガル人の奥さんのダバDabaによると、メツは『アラビアのローレンス』を演じたピーター・オトゥールのような青い澄んだ目をしていたという。

16歳の時、SCハズブルクでデビュー。

その後、RSCアンデルレヒトなど多くのクラブでMFとしてプレーし、1984年に引退。

1987よりASボーべ、USヴァランシアンヌ、CSスダンなどで監督を務める。

2002のW杯日韓大会でセネガル代表チームの監督を務め、フランス代表を破るという《世紀の番狂わせ》を起こした。準々決勝でトルコに惜敗したが、W杯での活躍はメツの監督としての評価を高めた。

同年、UAE (アラブ首長国連邦)のアル・アインFCと10ヶ月900.000ドル(当時のレートで約90.000.000円)の契約を結び、アル・アインFCをUAEプロリーグで優勝2回、2003年のUAEスーパーカップで優勝に導いた。

その後、カタールやサウジアラビアのサッカークラブの監督を務めた。

2008年9よりカタールの代表監督になるが、2011年のアジア・カップ準々決勝の際、日本に負けたため、1週間後に解任された。

2012年7にディエゴ・マラドーナの後任として、ドバイのアル・ファスル・ドバイと2年間の契約を結んだが、健康上の理由で同年10月に辞任した。

メツ監督の人間性を知るために、2002年5月号ワールドサッカーマガジンに掲載された、『ブルーノ・メツ 青い目のアフリカ人』(文:ジャン=フィリップ・コワント、訳:KEIICHI)の記事を次に引用する:

「2002年1月末。アフリカ・ネーションズ・カップが開催されたマリの首都バマコの一番有名なナイト・クラブで、エル=ハッジ・ディウフが率いるチームメイトが毎晩のようにお祭り騒ぎをしていた。そして、そのお祭りの先頭を切っていたのが、ブリュノ・メツ監督だった。大会期間中にもかかわらず、選手と共にお祭り騒ぎをする長髪の監督のサッカー哲学とは、どんなものだったのだろうか?」

「彼はこう答える:

『今のサッカーの世界では、選手の人間性がおろそかになりすぎている。練習に現れる時、選手たちはまるでサラリーマンのようなんだ。サッカーはゲームだっていうのに。私の場合、ピッチ上以外であれば、選手たちを完全に自由の身にさせている。私は警察官ではなく、サッカーの監督だからね。選手たちも自己管理ができているし。そして、今晩みたいにこうして皆と遊ぶ時は、私も監督ではなく友だちなんだ。私が選手たちに求めていることは、グランドで活躍すること。その他のことはどうでもいい…』」

「彼の横には、セネガル代表の得点王、ディウフが笑みを浮かべて立っていた。彼にとってメツ監督は父親のような存在で、まさに教祖様なのだ。

メツ監督についてディフはこう語っている:

『ブリュノは僕にとって監督というよりも父親、いや、兄みたいな存在なんだ。彼とは女のことやエッチなことでも何でも話せる』」

「メツ監督もディウフの発言を認めていた:

『エル=ハッジは、生まれた時から父親と会っていなかったので、父親のいない淋しさや父親へのあこがれが人一倍強かった。だから、私を父親のように慕っていた。彼とは何でも話しをした。彼の悩みや、家のこと、母親のこと、父親のこと、子供時代のこと、青春時代のこと、すべてを話し合った。いつも私に電話をしてくるんだ。彼の行動を批判する人もいるみたいだけど、私はそれが彼の生き方だと思っている。みんなにも、彼のことをもう少し分かってほしい』

セネガルの代表監督に就任してから最初の数ヶ月は、メツ監督にとっても、厳しいものであった。

セネガルのマスコミもまったくの無名の監督就任にあきれ返っていた。そんなメツ監督を酷評するとともに、彼らは無名監督の就任を決めたサッカー協会の会長の辞任をも強く求めた」

「メツ監督は、独自の哲学で指導を行っている。

『天才の才能というのは、私の哲学には存在しない。成功は努力に限る。その努力が目的にたどり着く、唯一の方法なのだ。モチベーションも大切な要素の一つだね。さらに、精神的な強さも大事な要素といえる。通常、人々はこの要素というものを忘れてしまっている。

先ほど言った精神面の強さがチームの団結につながったんだよ。人間性をおろそかにしてはいけない。今日、結果を残せない大きなクラブは、皆、人間性を忘れているのかもしれないね。エル=ハッジ・ディフだって天才ではないんだよ。彼だってがむしゃらに練習をした努力家なんだ』

『1チーム22~23人を指導するにあたり、いつも必ず文句ばっかり言う選手がいる。でもセネガルの選手は、皆、素晴らしい。それぞれ強い個性を持っていてバラバラなんだけど、私は彼らのことが全員好きなんだ。珍しいことだよね。私の人生の唯一の哲学は、幸せの追求なんだ。もし明日、ロッカールームで選手たちが皆、ふくれっ面をしていたら、ワールドカップがあってもなくても、私は彼らを支えるだろう』

『セネガル代表の強さはプレッシャー好きなところにある。だから、選手の個性にあった戦術を見つけだした。攻撃の面で、選手は自由なプレーを展開することができる。守備の面でも、選手が団結して守りの意識を常に持っている。私はいつもカメルーン代表を例に挙げるが、彼らの戦う姿勢というものは本当に素晴らしい。その彼らの戦う姿勢をわれわれも身につけようとしているんだ。そして今のチームはその理想に近づきつつある。私は反逆的な選手を好む。うれしいことに、このチームにはそういう選手がたくさんいるからね』

『私は自分の仕事に自信を持っている。成功しないということもあり得るけど、そういう時でも私は自分の考え方を貫き通すだろう。もし、私がベンチで退屈していたら、それは試合を観戦している観客も退屈しているということなんだ。やっぱりサッカーはゲームやスペクタクルの要素を失ってはいけない。もし相手チームに合わせて、戦術を変えてしまえば、それは相手チームより力が劣っているということを認めることになる。私はそういうことを絶対にしない。』」

レキップ・マガジンのフィリップ・リヨネとのインタビュー (筆者訳):

「アル・アインFCのオーナーは、『2002年のW杯でセネガルを準々決勝まで導いた長髪の私をどうしても獲得したい』と言ってくれました。私が冗談で、『床屋で待ち合わせましょう』と提案したら、彼らは真に受け取って、『髪型は変えないように』と言ってきました。私のこの髪型を彼らは気に入っているのだと思いました。」

「2002年1月にマリで行われたアフリカ・ネーションズ・カップで、初の決勝に進出したセネガルは、カメルーンとの決勝戦では、0対0の末、延長戦でも決着がつかずPK戦で惜敗しました。2002年の日韓ワールドカップでは、セネガルは初めてベスト8に進出しました。しかし、本国のフランスのクラブから私に何のオファーもありませんでした。私はベンチから指揮する髪の短い監督の風貌をしていませんが、しかしそれで私が不真面目だということではありません。」

「私が初めて、CSスダンの会長のパスカル・ウラノと会った時、彼は私に『あなたを絶対に監督として雇わない』と断言していました。彼は私のような長髪が好きでなかったのです」

「セネガルの代表監督に就任した時、サッカー連盟の幹部たちは、試合で良い結果が出始めてから、私を評価し始めました」

「RSCアンデルレヒトにいた時、私は朝6時に起きて練習に行きました。がむしゃらに練習に励んでいた努力家でした。当時、私はカフェ・レストランで働き、その後は、印刷所で働いていました。夜、練習が終わった後は、眠気との闘いでした。ただ眠いだけでした。日韓ワールドカップの時、代表選手たちが十分に睡眠を取らなかった、とセネガルの医師たちが非難していました。また、セネガルサッカー連盟の役員も、監督が選手たちに対しもっと毅然としていたら、セネガルチームは準決勝まで進んでいただろう、と苦言を呈していました。私の親友のギイ・ルーは、テレビ番組で、『もし選手たちが毎晩外出して遊んでいたら、あんなに大活躍はできなかっただろう。夜遅くまで起きていたことを罰することはできない』と言ってくれました。私のチームにスーパーマンなんていませんでした。試合の前日は、部屋でお茶を飲みながら話し合っていました。とても有意義な時間でした。」

「この春、私が結婚した時、ダカールの新聞はこぞって、『メツはイスラム教に改宗し、名前を《アブドゥル・カリム・メツ》と変えた』と報じていましたが、それは間違いです。私は名前を変えたことはないし、ジャーナリストたちは、ウソの情報ばかり流していました。私のプライベートは誰にも関係ないのです」

「セネガルの元大統領、アブドゥライ・ワドゥとは、『ブリュノ・メツは、まず10ヶ月間UAEに滞在し、その後、ダカールに戻り、セネガル代表チーム《テランガのライオンたち》の面倒をみる』ということで合意をしていました。しかし、セネガルサッカー連盟会長のエル=ハジ・マリック・シィがその案を拒否したため、私は2003年11月までのセネガルとの契約を破棄したのです。」

「そのシーズンは、2004年アフリカ・ネーションズ・カップの予選3試合があるだけでした。私のアシスタントのジュール・ボカンデとアブドライ・サールが完璧に私の代行をし、セネガルは容易に決勝に進んだのです。そして次のシーズンに私が復帰することになっていました。私の目的は、アフリカ・ネーションズ・カップで優勝することでした。」

「結局は、私の計画は頓挫してしまいましたが、後悔はしていません。あの時、もし私がセネガルに滞在することを決断していたら、多分、決勝の前に私を交替させていたと思います。」

「セネガルの代表監督になる前、私はカメルーンのチームをよく引き合いにだしました。カメルーンの選手たちは、自信満々の態度でピッチに入ります。彼らはよく《自惚れ屋》と言われますが、それこそが彼らのパワーの源なのです」

また、2012年4月23日、ブリュノ・メツはセネガルのテレビ番組『tfm Questions Directes』に出演し、次のように語った(筆者訳):

「2002年に日韓ワールドカップで戦った選手たちは、試合を重ねる度に、強い精神力を持つようになりました。かつてのように《おとなしい》選手ではく、強いメンタルを持った攻撃的な選手です。彼らは、11人の選手というよりも、11人の《人間》に成長していました。」

「フランス戦が始まる直前、私たちチーム全員は、競技場のトレーニング・ルームでウォーミングアップをしていました。選手たちは、『引き分けではなく、絶対フランスに勝ちたい。フランスを倒したい』と熱く語っていました。」

「日韓ワールドカップのグループ・リーグの対戦相手を決めるくじ引きが終わった後、ホテルに帰るため、私たち監督やマスコミは同じマイクロバスに乗り込みました。そこで、フランス人記者が、フランスのルメール代表監督に『Aグループは、デンマークやウルグアイは確かに恐い相手ですが、セネガルは問題ないですね。セネガルにはユッスン・ドゥールしかいなし、サッカーなんてないですからね』と言っていたのを聞いた。

フランスに勝利した後の記者会見で、この記者が私に『ブリュノ、セネガル代表は素晴らしかった』と言うので、私は彼に『セネガルにはユッスン・ドゥールしかいないし、サッカーなんてないから』と皮肉を言ってやりました」

「誰もセネガルが勝つとは思わなかったと思います。私たちは勝つために入念に準備をしました。試合前に、私は選手たちと話し合い、戦術やテクニックや精神面について確認し合いました。彼らの頭の中は『勝つこと!勝つこと!勝つこと!』だけだったと感じました。私は彼らに言いました。『今晩、ソウルに大地震が起こるぞ』と」

「『相手のFWの攻撃を弱体化するのではなく、MFからFWにボールがスムーズにパスされないように妨害することだ』と私は選手たちに強調しました。選手たちはこれを良く理解していました。あのフランスとの試合の前半で、DFオマール・ダフが、MFのジョルカエフからボールを奪い、ディウフへパスしてそれが得点につながったのは、私の戦術が成功した例です」

「決勝トーナメントでは、トルコに負けてしまいました。正直な話し、選手たちは疲労がたまっていたと思います。セネガル代表チームは、財政が豊かな国の代表チームと違って、試合後に、選手の体をケアするトレーナーや機器や医療品がありませんでした。自分の体の疲労は自分で回復させるしかなかったのです。経済的に裕福な国は代表チームにお金をかけることができます。代表チームを進化させるためには、投資が必要なのです。良い例では、韓国や日本やオーストラリアです。日本とワールドカップ前にフランスで親善試合を行いましたが、日本はセネガルチームの航空運賃、ホテル代、諸手当すべてを支払ってくれました」

「私は、選手たちを、選手としてではなく《人間》としてつきあっていました。人の心や精神を重要視し、信頼していました。私のことを『選手のお友達』と皮肉を込めて言う人がいましたが、それは、フィールドの外だけの話しで、ひとたびピッチに立ったら、今まで準備してきた戦術や、一緒にやってきたトレーニングを厳しく実行させました。ある日、私の指示を守らなかったDFのラミンヌ・ジャータが試合から戻って来た時、私は激怒し、彼のユニフォームを引き裂いたことがあります。私はピッチでは放任主義ではないのです」

2013年10月15日肺・肝臓・結腸の3ヶ所の癌のため59歳で逝去。

闘病中、「私は現在、人生という試合を戦っている。今、ハーフタイムだが延長戦になる前に、勝利したい」と話していた。

メツの意思により、ダカール市内ヨフ地区のイスラム教墓地に埋葬された。

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