エル=ハジ・ディウフ El Hadji Ousseynou DIOUF

1981年1月15日ダカールに生まれる。
父はギニア人、母はセネガル人。
身長180cm
名前の「エル=ハジ」は、セネガルでは「エラジ」と発音されることが多い。
イスラム教ムーリド教団のイスラム教徒。
フランスのランスRCに在籍していた時、ゴールを決める度に、ユニフォームを脱ぎ、教団の創始者、シェイク・アマドゥ・バンバの肖像画がプリントされているTシャツを観客に向って見せていた。(この行為はその後禁止された)
また、良い結果が出るよう、試合前にマラブー(呪術師)にまじないをしてもらったり、まじないの品物を準備したりしていた。
(注:セネガルのスポーツ界では、セネガル相撲の力士たちのように、マラブーの呪術に頼る傾向がある。1986年のアフリカ・ネーションズ・カップの際は、セネガルのサッカー連盟(FSF)がマラブーにおまじないを依頼したところ、マラブーは、セネガル代表のユニフォームのカラーを、白色・黄色・赤色から白色(ホームカラー)と緑色(アウェイカラー)に変えるよう提言した。FSFがその通りにしたところ、ジンバブエの試合で、ジュール・ボカンデがハットトリックをして、3対0で大勝した。この時からセネガル代表のユニフォームのカラーは、白色と緑色になったという伝説がある。
また、つい最近では、セネガルのスーパースター、サディオ・マネが、2022年のW杯カタール大会にケガのため出場が危ぶまれた際、《魔女医師団》が治療のために派遣されたいう)
トゥーバに本部を置くムーリド教団に、ディウフは2億FCFA(約4000万円)を寄付したと言われている。
子供の頃、コーラン学校に通っていて、現在もコーランを読んでいるが、イスラム教では飲酒が禁止されているにも拘らず、お酒を飲むのが好きらしい。
ニックネームは《アササンAssasin(殺人犯)》。ゴール前でも決して冷静さを失わないことからつけられた。ボルトン時代には、《デュウフィDioufy》と呼ばれ、セネガルの代表チームの仲間からは、《ウーズWeuz》と呼ばれていた。(ディウフの2番目の名前ウセイヌOusseynouからきている) また、日頃の言動から、Bad Boy(悪童)ともよく言われていた。
父親は有名なセネガル代表のサッカー選手だったが、ディウフが生まれた時、ディウフの出生を認めず、家を出て行ってしまう。少年時代は、父親がいない淋しさと父親への憧れが人一倍強かった。いつか父親と会うことを長い間夢見ていた。
1999年、18歳の時、初めて父親と出会った。当時すでに、フランスのレンヌFCで活躍していたディウフは、セネガル代表になることを断っていた。誰も彼を説得することができなったので、父親自らが彼を説得しに来た。父親は彼と出会うと泣き崩れ、ディウフに許しを乞うた。ディウフは父親に、「あなたは僕に何も悪いことはしていません」と答えたという。
セネガル躍進の原動力となったエース・ストライカー
ポストプレーや高い身体能力から決定機を逃さない嗅覚も兼ね備えている。
ずば抜けた突破力を持ち、チャンスを演出するが、好不調の波も激しかった。
ペレも彼の才能を認めていた。
瞬間のスピード力を生かしたドリブル突破、ボールキープに秀でたアタッカー。
シュートの正確性に欠ける。独りよがりのプレーが目立ち、周囲を活かすことを知らないとの悪評もつきまとっていた。それがチームワークを売り物とするセネガル代表の躍進と歩調を合わせ、ディウフも急成長を遂げた。(『Numbet World Cup 5』より)
2001年:アフリカ年間最優秀選手賞授賞(アフリカ・バロン・ドール)。セネガル人としては初めての快挙だった。
2002年:アフリカ年間最優秀選手賞授賞(アフリカ・バロン・ドール)。
2002年の日韓ワールドカップでは、ゴールは無かったが、彼の《突破力》が評価され、ベスト10に選ばれた。
子供時代をサン・ルイで過ごし、一時期、路上で物乞いをする《タリベTalibé》をやっていた。

(『Thiof』より転載)
地区で行われていたサッカーに参加し、ゴールキーパーをしていたが、すぐに才能が認められFWに転向する。
1994年、13歳の時、セネガルで4年ごとに行われているユース・フェスティバルで最優秀選手に選ばれ、17歳以下代表チームに召集される。
1997年、フランスのクラブ・ランスの育成組織から誘われ、フランスに向かう。
RCランスに加入するが、言いたいことを躊躇せずに口にするディウフは、しばしば周囲と軋轢を起こしてきた。ランスの公式戦デビュー後、監督と対立してクラブを去った。
1998年、FCソショーに移籍。ここで自分の実力を存分に示す。
1999年、レンヌFCに移籍。
2000年3月、無免許運転で事故を起こして3人にケガを負わせる。(Bad boy《悪童》のイメージはこの時に定着した)
この事件でディウフは起訴され、ブルターニュの裁判所で裁判を受けることになるが、セネガル・サッカー連盟(FSF)は担当者をフランスに派遣し、この事件が解決するまで裁判所に出頭して、彼を支援した。
当初、セネガル代表としてプレーすることに乗り気でなかったディウフは、この事件におけるFSFの支援に感謝し、セネガル代表を受け入れた。
2000年、ランスRCにレンタル移籍。レベルの高い戦術家、ドリブラー、ストライカー、パス出しとして才能を発揮する。古巣のランスに戻って10得点をマークし、ランスのフランスリーグ2位に貢献した。
同年、アフリカ・ネーションズ・カップの代表選手に選出され、ベナンと戦う。
また、日韓ワールドカップ予選10試合では、一人で8得点を叩き出し、セネガルをワールドカップ初出場に導いた。彼なくして予選は突破できなかった。
2001年度に、セネガル人初となるアフリカ年間最優秀選手に選出された。
2002年、アフリカ・ネーションズ・カップの決勝でカメルーンと戦い、PK戦で敗北。ディウフは最優秀選手に選ばれる。
2002年のW杯日韓大会では、前半30分、左サイドで詰め寄ってきたフランスのルブフを、あっという間に置き去りにし、少しも迷いを感じさせないディウフの縦への突破が日韓大会初のゴールを演出した。
一時期、確執も噂されたセネガル代表監督のメツのことは、「彼は父親のような存在だ。コーチとしては非常に優秀で、人間的にも素晴らしい」と信頼を寄せた。メツ監督も、「ピッチ外で彼がどう振る舞おうと私は周知しない。ピッチの中でちゃんと仕事をしてくれればそれでいい」と、ディウフに理解を示していた。
日韓大会が始まって、約19億円の移籍金でリバプールFCと5年契約を結ぶ。
2003年-2004年のシーズンに、ジェラール・ウリエ監督と確執が生じ、関係が悪化した。また、観客に向って唾を吐いた事件を起こして退団。
2004年、アフリカ・ネーションズ・カップでディウフは負傷し、セネガル代表は準々決勝でチュニジアに敗退。
同年、ボルトン・ワンダラーズFCに移籍。
2006年、アフリカ・ネーションズ・カップでベスト4に進出。しかし、ディウフはゴールを決めることは無かった。
同年、ドイツでヘルニアの手術をし、3ヶ月間、クラブの試合出場を欠場する。
2007年2月7日、ダカールで予定されていたアンゴラとの試合は、大統領選挙運動中の治安を確保する警備員が足りないという内務省からの通知を受け、スポーツ省はアンゴラとの試合をキャンセルし、ベナンとの親善試合に変更した。(格下のベナンとの試合に抗議して、ディウフ始め6人の代表選手が出場を拒否した) この変更は、もともと、スポーツ省とセネガルサッカー協(’FSF)との長きに亘る確執に起因するもので、このような状況に不信感を持ったディウフは、10月初旬、「FSFとスポーツ省のいさかいが続く限り、僕はセネガル代表となることはないだろう」と代表引退をほのめかすメッセージを送った。しかし、多くの再考嘆願があったことで、10月下旬には代表に戻ることを決意した。
2008年、サンダーランドAFCに移籍。在籍中、ゴールは全く無く、チームのメンバーとの論争も多かった。
同年、アフリカ・ネーションズ・カップのグループリーグ戦で敗退。アンゴラ戦の前日の夜、ディウフはチームの他の2人と外出しバーで飲んでいたことが発覚し問題となった。
2009年1月、ブラックバーンFCに移籍。
同年4月、ディウフは、2009年4月、クラブに専念することを理由に再び代表引退を表明した。しかし、その後、ディウフがその引退表明を撤回しようと、サッカー連盟に対し書簡を送付するが、当時の代表監督、アマラ・トラオレからもはや代表に招集されることはなかった。
2011年1月、グラスゴー・レンジャーFCに移籍。サポーターと関係がうまくゆかず、同年8月にユニフォームを破いてゴミ箱に捨てる。9月に契約を破棄。
2011年7月、フランスのラジオ番組で、「アフリカのサッカーシステムは完全に腐敗している」と発言し、セネガルサッカー協会から事情聴取を要求されたが、無視し、さらに別の番組内で「協会から何らかの処分が下されたら、戦争に突入する」と発言したため、ついに協会から今後5年間、セネガル国内で一切のサッカー活動を禁止された。
2011年10月、ドンカスター・ローバーズFCに移籍したが、チームは降格。
2012年8月、リーズ・ユナイテッドAFCに移籍。2014年退団。
2012年9月、セネガルサッカー協会は、ディウフに課した制裁を解除し、ディウフ自身も代表復帰の意思があることを表明した。
2014年、マレーシア・プレミアリーグのサバFAと1年契約を結んだ。当初はキャプテンに任命されていたが、翌年7月にジョホール・ダルル・タクジムⅡFCのアカデミー設立および同クラブへの無給での加入を示唆したため、その座を剥奪された。これを機に現役を引退する。
Diouf 2
セネガルの産院に未熟児用の保育器を贈ったり、障害者団体に多額の寄付をしたり、多くの慈善活動を行っている。
アメリカ人ラッパー、アコンAkonと共同で《Konfidence》という基金を設立。コートジボワールのサッカー選手ディディエ・ドゥログバの協力を得て、西アフリカの人々の生活条件の改善を目的とする活動を行っている。
「もしサッカー選手になっていなかったら、多分ラップシンガーになっていた」とディウフは言っていた。
リビアのカダフィ大佐とは2、3回会ったことがあり、カダフィ大佐は「ディウフのプレースタイルが好きだ」とよく言っていたという。
2013年から、スイスの時計メーカー《Louis Chevrolet》のアンバサダーを務めている。
大言ばかりがクローズアップされがちなディウフだが、もちろん謙虚さも持ち合わせている。ファンやメディアからの評判は悪くない。試合後は、必ずシャツをスタンドに投げ入れる。
「ファンが僕に何かを期待していることは分かっている。(シャツを投げ入れることは) 大したことじゃないだろうけど、それで誰かが幸せになれるのなら、ね」
「僕の辞書にプレッシャーという言葉はない」ともうそぶく。(Number臨時増刊号4『エル=ハジ・ディウフ』山田貴史)
無免許運転をし、ファンに対し唾を吐き、ボール拾いに差別的な中傷の言葉を浴びせ、夜のバーで喧嘩をし、試合期間中に夜間外出し、突然政治家になると宣言したり、リバプール時代の同僚を中傷したりと、いろいろなトラブルを起こしたBad Boy(悪童)ディウフ。しかし、その存在、そのパワーは、かつてのセネガル代表の《優しい戦い》に、マリーシアMalicia(狡猾さ)というスパイスを付け加え、チームの選手たちの闘争心に火を付け、そして選手たちのマインドを激変させたことに間違いない。当時の監督のブルーノ・メツはそのようなディウフの才能を見抜いていたのだろう。
2001年10月、セネガルは親善試合で日本を2対0で下した。試合前に、日本代表チームのフィリップ・トルシェ監督は、迷わず敵のラインアップで何が最も危険かを指摘した。
「セネガルのチームに要注意な選手がいる。それは、エル=ハジ・ディウフだろう」


『反逆のサッカー選手エル=ハジ・ディウフ』に書かれているブリュノ・メツの次の『序文』を読むと、メツがディウフの人間性を鋭く分析し、彼に全幅の信頼とリスペクトをしていたことが分かる(筆者訳):
『エル=ハジ・ディウフは、ピッチ上でも、ピッチ外でも型破りの男だ。
私がセネガル代表監督に選ばれて、しばらくしてから、彼と初めて出会ったが、すぐに打ちとけた。当時、彼が所属していたランスRCは、宿敵LOSCリールと接戦を繰り広げていて、ディウフはクラブを離れることができなかった。セネガルサッカー連盟FSFが、クラブを優先するディフフを代表選手としての資格がないと判断し出場を禁止したことから、ディウフは、もはや代表のユニフォームを着たいと思わなくなっていた。私は彼を呼び戻すために動いた。私たちは秘密裡に連絡を取り合ったが、その際、彼が人の話しを聞く力を持っている、心ある人間だということに気が付いた。
それが私たちの冒険の始まりだった。
人は彼を外見からBad Boy(悪童)というイメージを与えようとするが、彼の挑発的な風貌の裏には鋭い感性が隠れている。エル=ハジは、頑固だが素直な男だ。時として場違いな彼の態度は、単純に彼独特の表現方法に因るものである。それを理解することは難しいかもしれないが、それが分かった時、人は彼が魅力的で、愛情のある人間であることに気づく。彼は、セネガルでは、子供や老人などすべての人に身近な存在で、一人一人にやさしく声をかける。要するに、彼は、その行動と存在において真のスターなのである。
ピッチ上では、常にチームを優先し、チームのために全力を尽くし、仲間を活かそうとする。ある親善試合の時、彼が不在だったが、選手にとっては大きな空白だった。ディウフのいる所では、沈黙は王様ではない。
セネガルは、ディウフのようなチャンピオンとめぐり合えて幸運だったと思う。彼は代表としてプレーする準備がいつでも出来ている。
彼は現在、活躍できるクラブが見つかっていないが、強いクラブで活躍できる才能があるから、ディディエ・ドゥログバやサミュエル・エトーを羨ましがらなくてもいい。リーグ・アンで優勝するクラブでプレーする日が必ず来る。
彼には才能があり、メンタルが強く、情熱がある。最後まであきらめず、決して見放さない男だ』
【エル=ハジ・ディウフ語録】
・「俺がサッカー選手として絶頂期にあった時、俺がセネガルを世界的に有名にしたのだ。それは事実だからね」
・「若い世代はわれわれのやったことを気にかけていないかもしれない。けれども、セネガルではエル=ハジ・ディウフを無視してサッカーを語ることはできないんだ」
・「監督は役員の友人がコネで選ばれる。市場でココナツを売っているような男さ。」
・「俺はプレミアリーグで200試合プレーした唯一のセネガル人だ。50年間で最高のセネガル人選手に選出されたけど、50年というのはセネガルが独立してからの年数だよ。つまり、俺は史上最高の選手で、この先50年経ってもそうだろうね」
・『プレッシャーがあるのは良いことさ。プレッシャーがなかったら、俺はサッカーをやめるよ。ふぬけた生き方ななんかしたくないからね』
・『手に持っているこのシャンペンは、俺が働いたお金で買ったものだ。一所懸命働いて得たもので、盗んだものじゃない。それが重要なことさ。』
・『セネガルは俺の国だ。俺の母なる祖国。俺にたくさんの満足と幸せをくれた。セネガル人であることに誇りに思っている』
(『永遠のエル=ハジ・ディウフ』ポール・ギバルシュタインSportsnavi 2011年5月14日)

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