サディオ・マネ Sadio MANE

1992年4月10日、セネガル南部のセディウ州に位置する小さな農村バンバリBambali村に生まれた。バンバリ村は、人口約2000人の村で外国人が立ち入ることができない、
熱心なイスラム教徒の両親に育てられた。
今でも毎日5回のお祈りを欠かさないうえ、ゴールの後のお祈りも忘れていない。
身長174cm
ポジション:FW
名前の「サディオ」は、セネガルでは「サジョ」と発音されることが多い。
最も技術的に優れた選手と見なされ、アフリカ年間最優秀選手賞(バロン・ドール)を2019年と2022年に2度受賞。
時速34.84kmのトップスピードを誇る、地球上で最も早いFWの一人で、大一番の重要な局面で爆発的なスピードを見せる。
創造性にあふれ、鋭くエネルギッシュなアプローチで相手ディフェンスに切り込んでゆく。
ポジショニングに長け、背中をゴールに向けようが、または深い位置でボールを受けようが、弾道の低いシュートでネット隅を狙う。
生家の前には大きな原っぱがあり、マネはそこで2歳からボールを追いかけていたという。
当時から、運動能力やテクニックは抜きん出ていて「ボールの魔術師」と呼ばれていた。
正に「サッカーをするために生まれてきたような子供」だったという。
子供の頃は、ロナウジーニョに憧れ、彼の出場する試合は欠かさず見ていた。そのため、あだ名は《ディニョDinho》だった。
イスラム教の導師で厳格だった父親は、マネが7歳の時に亡くなった。父親は生前、息子には学業を優先させ、将来的には農業につくことを望み、サッカーに反対していた。
父親の遺志を継いだ母親と叔父からもサッカーに反対されたが、マネは毎日ひたすらボールを追い続けた。
10歳だった2002年、大きな衝撃を受ける。
セネガル代表が初めてW杯日韓大会に出場し、王者フランスを破り、ベスト8入りを果たした。この大会で鮮烈な活躍をしたFWのディウフに憧れた。
世界の大舞台で躍動したセネガル代表の活躍を目の当たりにして、少年の心に希望が芽生え、自分もサッカー選手として生きていきたいと強く思い始めた。
そして15歳の時に、家族には内緒で家出をした。早朝、400km以上離れた首都ダカールをめざしてバスに乗り、途中でガンビアの国境を2度通過し、知人の待つ目的地に到着。そこで2週間ほどクラブを探し回ったが、母親と叔父に居場所が知られ、バンバリ村に連れ戻された。
「サッカーを続けさせてくれないなら再び家出をする」と宣言すると、家族も折れた。
2009年、17歳の時、マネは、ンブールMbourで行われていたナベタンNavétane(夏のバカンス時期だけ開催される、町や村のアマチュア・サッカークラブのトーナメント)に出場した。そのプレーを見たアカデミー・ジェネレーション・フットの関係者が、本部に報告すると、マネはトライアルを行うことになった。
マネが《父》と慕う、アカデミーのマディ・トゥレ会長は当時をこう振り返る:
「当時のサジョは、スパイクすら持っていなかった。『穴だらけのスニーカーでプレーできるの?』」と聞くと、『これしかないから。でも問題ないよ』と目は輝きを失わなかった。ツルツルの靴底でも、低い重心と鋭い加速で抜きまくった。数分の間に、数回のゴールを決めた。やせっぽちでとても小さな子供だったけど、初めて見た時から偉大になると確信した。天才でエレガントな怪物だった。他の子供とは目が違った。自分の能力や望みをきちんと理解し、夢を成就させると胸に誓っていた。」
トライアルに立ち会ったスカウトのアブドゥ・ジャータAbdou Diattaは、マネのプレーを見て言った:
「彼のボールのタッチを見て、本当に良いプレーヤーだと思った。アカデミーのコーチのジュール・ブシェJules Boucherに『すぐに彼を採ろう』と言った」
トライアルは一発合格だった。
(『ワールドカップ・ロシア2018 nikkansports.com』)
同年、マネはバンバリ村からダカールに移り住み、アカデミー・ジェネレーション・フットに入学した。
毎日、寮の誰よりも早く起床し、全体練習の前に自主トレーニングをしていた。自身に栄養が足りていなかったことも自覚しており、適切な食事を心がけ、よく眠り、体が大きくなり始めてからは、強くしなやかな筋肉を獲得するため、ジムで負荷をかけていった。
敬虔なイスラム教徒であるマネは、心に唯一の夢である《世界的なサッカー選手になる》ことを掲げ、そこに向って邁進していった。(『Sadio Mané』Number March 2021)
同アカデミーでコーチを務めていたオリビエ・ペランによると、「自陣のボックスで敵からボールを奪い、そのまま相手ボックスにまでドリブルし、ゴールを決めていた」という。
マネはこのアカデミーに19歳まで在学し、ストリートサッカーで培った本能的な攻撃力がアカデミーで洗練された。マネ自身も「ここで戦術やスタイルを学べた」と言っている。
スカウトのアブドゥ・ジャータはこう評価する:
「狭い路上のサッカーでは計算も戦術もないが、我々が最先端の理論を彼に注入した。彼の才能は磨かれた。メンタルは他の誰よりも強く、より高いレベルを目指していた。そのために何をしたいかも分かっていた。それが他の選手と違うところだった。彼には自己犠牲の精神があり、瞬時の決断力があり、果敢に切り込んでゆく思い切りの良さがある。それこそが彼が成功した要因だ」
また、コーチのジュール・ブシェもマネの才能に絶賛する:
「彼はスピードが速い。相手をするりと交わす能力がある。相手より速く自分の動きを連動させるが、ゴールの前では冷静である。タイミングよく攻撃の選択をする。これらは、他の選手にはない才能だ。彼は常により高いところをめざしていた。」
そして、アカデミーのマディ・トゥレ会長は告白する:
「実は、私はマネに自分自身の姿を見ていたのです。私も父を早くに亡くしました。私もサッカーのプロ選手になることを夢見ていましたが、夢は叶いませんでした。マネのプレーを見た時、彼が成功するために彼を助け、彼のためにあらゆることを行おう、と決心したのです」
アカデミー・ジェネレーション・フットは、フランス1部メスと提携しているため、その支援で学費も寮費も無料。成績の上位3人前後が毎年、メスに入団する。その1人がマネだった。
彼のドリブルは、突出した身体能力、圧倒的なスピード、繊細なテクニックで、相手を一瞬にして置き去りにする。また、スピード勝負一辺倒ではなく、緩急をつけた独特のリズムで中に切り込んでゆく才能もある。
攻撃面における能力に加え、守備面においても高い位置から積極的に相手にプレスをかけ、ボール奪取を試み、押し込まれている時には自陣深くまで戻って守備に尽力する献身性を備えている。
身長175cmと決して大柄ではないが、驚異的な身体能力でヘディングによる得点も多い。
2011年、19歳でフランスのFCメスでプロデビュー。
2012年、オーストリアのレッドブル・ザルツブルクに400万ユーロ(約5億6000万円)で移籍。
2014年9月1日、イングランドのサウサンプトンFCへ4年契約で移籍。移籍金額は、クラブ史上最高額(当時)となる1500万ユーロ(約21億円)。
2015年5月6日に行われたアストン・ヴィラFC戦で、前半13分から16分の間で3点を決め、2分56秒でハットトリックを達成。プレミアリーグ最速ハットトリック記録を更新した。
吉田麻也とはサウサンプトン時代のチームメイトで、とても仲が良いことで知られている。マネは、「ぼくたちはいつも一緒だった。ジムでのトレーニングなどでも一緒だったし、毎日話していたんだ。彼とは素晴らしい関係だよ」と話している。

吉田麻也と次のようなエピソードもある:
1対1で迎えた後半31分、DFヤン・バレリーがピッチに倒れ込み、試合が中断。吉田がしゃがみ込んで状態を確認していたところ、マネも様子を見ようと吉田の上から覆いかぶさった。その際、吉田は相手選手に押し退けられたと勘違いし、ものすごい剣幕でそれを振り払い、詰め寄ろうとした。しかし、相手がマネだと気づいた瞬間、「何だおまえか」と言わんばかりに笑顔でハグし、戯れるように後ろからマネを抱え込んでいた。(Football Zone 2019.04.08)
2016年6月、アフリカ人で史上最高額となる3400万ポンド(約46億300万円)でプレミアリーグのリバプールFCへ移籍。
2017年、アフリカ・ネーションズ・カップで、グループBを首位で通過したセネガル代表と、グループAを2位で通過したカメルーンとの準々決勝は、延長戦でも決着がつかず、PK戦となった。このPK戦では、互いに4人目まで成功し、決着は5人目のマネに委ねられた。しかし、マネのシュートは、相手のGKにセーブされ、カメルーンはゴール左にきっちり決めた。この結果、セネガルは敗退し、カメルーンがベスト4進出を果たした。
この時のPKの失敗がマネにとって長い間、トラウマとなっていた。
2019-20年シーズンのイングランドのリーグ戦では18ゴールを決めるなど、30年ぶりのリーグ優勝に貢献し、ガーディアン誌が行ったリバプールFC内における優勝への貢献度の採点で、満点となる10を記録した。また、ファン選出の年間最優秀選手賞の投票では41%の票を獲得し、受賞した。
2021年のアフリカ・ネーションズ・カップ決勝では、古豪エジプトと戦った。マネは、試合中に得たPKを失敗したが、延長戦の後のPK戦でキックを成功させ、セネガルが大会初優勝を果たした。これにより、マネは2017年のアフリカ・ネーションズ・カップ準々決勝のPK戦の失敗のリベンジを果たしたことになる。マネは大会MVPを授賞した。
優勝の言葉:僕が勝ったのではなく、人々が勝ち取ったのだ。
2022年6月22日、ドイツ・ブンデスリーのFCバイエルン・ミュンヘンへ完全移籍。契約期間は3年。
同年11月8日、第14節のブレーメン戦の21分に右足の腓骨を激しく損傷。腱と腓骨をつなぎ合わせる手術を受け、長期離脱を余儀なくされる。11月20日~12月18日の期間に開催されたW杯カタール大会も欠場した。
(巷では、魔女医師団がマネのケガを治すという《奇跡》が噂になり、多くのセネガル国民が期待していた。)
2023年4月、チームメイトのルロワ・ザネとの口論の末に、ザネの顔を殴り唇に切り傷を負わせ、出場停止処分と罰金50万ユーロ(約7400万円)の支払いを命じられた。
2023年8月1日、サウジアラビアのアル・ナスルFCに移籍した。

『Daily Mail』のインタビューで、マネはエル=ハジ・ディウフについて次のように語っている:
マネ:エル=ハジ・ディウフは、僕が好きになった最初のセネガル人の選手なんだ。日韓ワールドカップのフランス戦での勝利をよく覚えている。学校を抜け出して、友達の家でテレビを観ていたよ。エル=ハジは故郷のヒーローだ。彼が帰国すれば、それがよく分かる。しかし、ここリバプールではどうだ?おそらく全然そんなことはないよ!」
Daily Mail:ディウフは2回アフリカ年間最優秀選手賞(バロン・ドール)に輝きました。あなたもそうなりたいですか?
マネ:それが最優先の野望ではないよ。最も重要なのはこのチームで多くのトロフィーを取ることさ。もしいつの日かそれを達成できれば、もちろん素晴らしいことだけどね。僕は今季の戦いだけに奮い立っている。我々はもっと強くなれると思うよ。そしてもっと良くなれると分かっている。
自分にももっと多くの才能が眠っている。25歳ですべて分かったとは言えないからね。まだまだ学ぶことがある。
これからどう歩んでいきたいか、それは自分で分かっている。我々が何を達成できるか。まあ、見ていてください。(サッカーニュース Qoly 2017年1月2日)
マネは、いつも謙虚で、気さくで、誰よりも優しい人間性。
自分の行いを決して周囲にひけらかさない、慢心とは無縁のスーパースターであることを知らしめるエピソードがある:
「モスクでお祈りをした後、友人をお茶に誘うと、友人から『申し訳ないけど、この後、トイレそうじをしなければならないんだ』と断られたから、『じゃあ、一緒にやろう』とトイレそうじに行きました。通りがかった人が僕らに気づいて、ビデオを撮っていたから、僕が『ネットにはあげないでね』とお願いすると、彼は『大丈夫』と言ったのに、次の日には、ネット中に広がっていたんだ。トイレそうじくらい僕にとって当たり前のことなのにね」とマネは照れくさそうに言った。
また、スタジアムに到着した際、スタッフの荷物運びを手伝う姿も目撃されている。
マネは、かつて年棒約62億円(週給1.2億円)を稼いでいたが、質素な生活をしていることで有名で、画面にヒビが入ったスマホと、有線のイヤホンを使用している画像がSNSで出回り話題になった。(このヒビ割れのスマホも、チームメイトからもらったものだった)
海外雑誌のインタビューに、質素な生活を送っていることについてこう答えている:
「フェラーリ10台とか、ダイヤモンド付きの時計20個とか、プライベートジェット機2台など、僕が持っていてもそれが世界の何の役に立つというんだ?もちろん、僕は車は持っているが、1台だけだし、腕時計も1本で十分。子供の頃は貧しくて、いつも空腹で、裸足でサッカーをして育った。僕には学歴も何もなかった。でも、今は幸運にもサッカーで稼いだお金で他の人たちまで助けられるようになった。かつての僕たちの家族のように、困窮した人々に良い服や靴、食料を提供することができるんだ」
マネは、次のような社会的貢献を積極的に行い、恵まれない人達の支援を続けている:
・故郷のバンバリ村に、234.000ユーロ(約2500万円)を寄付して高校を建てた。世界銀行によると人口の約7割が貧困に喘いでいるこの地域には、「まず何よりも教育が必要」と考えたからだ。マネは同時に、300枚のリバプールのユニフォームをプレゼントした。
・少年時代に、父が危篤状態になった時、近くに医療機関がなかったために最悪な結末を見た経験から、バンバリ村に6600万円をかけて病院も建設している。マネは「人々に希望を与えるために病院を建設した」と言っている。
・コロナ禍の際は、医療の発達が遅れているセネガルに対して、いち早く巨額の資金を寄付し、新しい病院の建設や、人口呼吸器や薬品の購入に当てられた。
・その他、モスク、サッカー場、ガソリンスタンドなどの建設にも寄付をおこなった。
・セネガル出身の子だくさんの家庭に家を購入した。
・30人以上の病気の子供の手術費用を代わりに支払った。
・村の各家庭に月々70ユーロ(約8000円)の仕送りをしている。
マネは言う:
「僕の人生に必要なものはもう十分揃っている。僕は車や豪邸リゾート地でのバカンスを人に見せびらかすことに喜びを感じない。人生で自分が得ることのできたものを他の人と分かち合って喜び合う方がずっと嬉しいんだ」
「人の価値は持ち物ではなく、心の温かさ、豊かさ、人とのつながりだと思う」
2022年、マネのこのような慈善活動に対し、《バロン・ドール》を主催するフランスのサッカー専門誌「フランス・フットボール」は彼に『ソクラテス賞』を授与した。
授賞式の時の彼の言葉:
「こうした場で自分のしていることについて話すのはあまり好きでないけど、こういった評価をしていただいたことはとても嬉しく思います。これからも多くの問題に取り組んでいきたいと思います」
「故郷の人々に希望を与えたい」と誇らしげに話すマネを見て、天国にいる父も喜んでいるに違いない。
=追記=
2024年1月7日、マネは13歳年下で、まだ18歳の同郷の女子学生と結婚した。マネが故郷に帰った時、実家を訪ねて来たアイシャという名の女の子に一目ぼれし、友達に「結婚したい女性がいる」と打ち明けた。そして、その友達に、マネの言葉を彼女と彼女の家族に伝えるよう頼んだ。(自分で直接言えないところがマネらしい)
この友達によると、マネは、とても信心深く、信心深い女性を望んでいたという。ナイトクラブに行って、お酒を飲んだりせず、女性を追いかけることもなかったようだ。

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