セネガルサッカー 2/2 選手名鑑

【セネガルサッカー 2/2  選手名鑑】

《セネガルサッカーのレジェンド》

ジュール・ボカンデ Jules Bocandé

1958年11月25日、セネガル南部の都市、ジゲンショールで生まれる。

身長186cm

ポジション:センターフォワード。

出身地のサッカー・クラブ「カザ・スポールCasa Sports」でデビュー。

他を抜きんでたプレーで、1979年の「セネガル・カップ」決勝で強豪「ASCジャラァフDiaraf」を破り優勝に導く。

翌年1980年の「セネガル・カップ」も決勝に勝ち進み、名門「ASCジャンヌ・ダルク」との試合が2回行われた。その第2戦目で、相手が失敗したペナルティ・キックが審判により取り消されたことから、この判定に怒ったボカンデが審判を足払いしたため、永久追放処分となった。しかしながら、1982年のW杯スペイン大会予選ラウンドを通過するためには、ボカンデの出場が必要となり、処分は1年に減免された。

そんな状況にいたボカンデを、ベルギー人の友人がベルギーに行くことを勧める。

ベルギーのクラブでプレーした後、フランスに渡り、パリ・サンジェルマンやメスFCなどで活躍した。

1986年のアフリカ・ネーションズ・カップの予選では、ジンバブエとの試合で3ゴールを決め、セネガルの18年ぶりの出場に貢献した。1990年に準決勝に進み、1992年には準決勝に進んだ。

その後、古巣のベルギーのクラブ、アロストAlostに移籍し、1993年に引退を発表した。

引退後は、セネガル代表チームの監督となり、1994年のアフリカ・ネーションズ・カップでベスト8に導いた。

ブリュノ・メツが代表チームの監督となると、ボカンデは彼のチームディレクターを務めた。

その後、脳血管の障害を発症し、数ヶ月間半身不随となった。

2012年、友人やメスFCの会長に手術を要請したが、手術中に亡くなった。

ボカンデ(左)とメツ

アマラ・トラオレ Amara Traoré

1965年9月25日、サン=ルイに生まれる。

身長:186cm

ポジション:FW

1998にフランスに渡り、SCバスティアに加入。初年度にクラブでトップとなる12ゴールを挙げる。

1990にル・マンFCに移籍。

1992FCグーニョンに移籍し、1994-5シーズンのはリーグ2で23ゴールを挙げ、クラブ初のリーグ1昇格に貢献した。

1996、FCメスに移籍。その後、LBシャトールーやUAEのアル・ワフダを経て、

1999に再び、FCグーニョンに戻る。

2003年現役引退を発表。

代表経歴

20代の頃からセネガル代表に召集されており、初出場となった2002年の日韓ワールドカップには36歳の最高齢の代表としてプレーした。

ベテランストライカーは、その技術よりもむしろ統率力によってメツ監督に選ばれた。

2005年~2006、セネガル代表監督、アブドゥライ・サールの助監督を務める。

2007、クラブ、サン=ルイ・リンゲ―ルの監督になると、セネガル・カップに優勝。

2009、セネガル代表監督、アブドゥライ・サールの助監督を務めるが、トラオレの契約の昇給に関するトラブルが発生し、アフリカ・ネーションズ・カップ2012に向けた代表チームの準備が行き詰まった。

トラオレの昇給の要求は、スポーツ省(MoS)によって拒否され、その決定はその後、セネガル・サッカー連盟(FSF)によって異議が唱えられた。これにより、チームの編成が遅れ、2つの強化試合がFSFとMoSの争いのためにキャンセルされた。FSFとMoSの関係が一時的に崩壊したが、最終的に合意が成立し、トラオレはチームを本大会出場に導いた。

しかし、セネガルはグループBで3連敗と完敗し、その結果、トラオレはFSF実行委員会によって解雇された。

トラオレが、不法な解雇と未払いの給与を求めて訴訟を起こすと、2012年4月、裁判所はFSFに対し、トラオレに約750万円を支払うよう命じ、これが支払われなかった場合、裁判所はFSFの銀行口座を凍結するよう命じた。その後、両者は和解したが、2012年2月7日、解任される。

2013年3月、ギニアのASカルム・スターの監督に就任するが、程なくして退任する。

アンリ・カマラ Henri Camara

1977年5月10日、ダカールに生まれる。父はギニア人。

身長173cm。

ポジション:FW エースストライカー。

身体能力の高いアフリカ人の中でも1, 2を争うスピードが魅力で、ロングパスにも簡単に追いつくことができる。サイドアタッカーとしても機能する。

子供の頃は、マンチェスター・ユナイテッドの試合をテレビでよく観ていたという。

警察学校のサッカークラブ、ASポリスに加入。

その後、ASCジャラフに加入し、ユースフェスティバルで活躍する。

1998年、フランスに渡り、RCストラスブールでプレー。

翌年、スイスのヌーシャテル・ザマックスでプロデビュー。

2001年、フランスに戻り、CSスダンでプレー。

2004年、スコットランドのセルティック・グラスゴーFCに移籍。

2005年、イングランドのサウサンプトンFCでプレー後、ウィガン・アスレティック・クラブに移籍。

2017年、ギリシャのアトロミトスFCと契約。

2018年8月12日引退。

代表経歴

2002年の日韓ワールドカップの予選では、エースのディフとコンビを組んで、本大会出場に貢献した

本大会の決勝トーナメント第1試合のスウェーデン戦で2得点をあげている。

この2得点について、カマラは後日、次のように語っている:

「スウェーデン戦の前は、僕は全くゴールを挙げていなかった。しかし、2得点を決めたことで、自身を取り戻したんだ。本当に、僕の選手人生の転換点だった。試合がある前日には、スウェーデン戦のビデオを観て、自分自身に自信をつけるんだ」

アンリ・カマラの下記の雑誌インタビューを読むと、典型的なセネガルのプロサッカー選手の人生を垣間見ることができる(『Thiof』2007年7月号(筆者訳):

チョフ:あなたはどんな子供でしたか?

カマラ:サッカーボールにただ夢中で、サッカーをしない日は耐えられませんでした。父親は学校の先生で、いつも「サッカーよりも勉強をするよう」に言われていました。他の兄弟たちは成績がよかったのですが、僕は劣等生で、父親とはいつも対立していました。僕がプロのサッカー選手になると決めた時、家族全員が応援してくれました。父は最初、何も言わず黙っていましたが、僕が活躍し始めると、僕の選択をリスペクトしてくれるようになりました。父とは最後まで一緒に住んでいましたが、生きているうちに僕の活躍を見せることができて幸せだと思っています。

チョフ:お母さんをとても大事にしているそうですね?

カマラ:母のことは子供の時から大好きでした。子供の頃、母が旅行に行くと、僕は病気になっていました。僕はダカールに戻るたびに、すぐに母に会いに行きます。

チョフ:現在に至るまでのサッカーの経歴を教えてください。

カマラ:子供の頃は友達と一緒に路上でサッカーをしていました。青年になると、時々、近くの警察学校のグランドでサッカーをやっていました。ある日、警察学校のサッカークラブ、ASポリスに欠員ができたので、僕が代わりに出るよう言われました。すると、僕のプレーが認められて、ASポリスに正式に加入することになりました。その後、ASポリスを離れ、サッカークラブ、ASCジャラフDiarafに加入し、ユースフェスティバルで活躍すると、1995年頃に、僕のプレーが評判になってきました。そして、1999年、スイスのヌシャテルでプロデビューしました。その後、フランスのCSスダンに移籍し、次にイングランドのウルヴァー・ハンプトンに移籍し、そして、スコットランドのセルティック・グラスゴーFCに移籍し、サウサンプトンFCでプレー後、現在のウィガン・アスレティック・クラブに在籍しています。

チョフ:今までの試合の中で、どの試合があなたをスターにしたと思いますか?

カマラ:初めて代表選手として出場した、2000年のアフリカ・ネーションズ・カップ、ナイジェリア大会だと思います。この試合の後、私が行くところは、人だかりとなり、人々は歓声をあげ、次から次へとサインを求められました。自宅の前では多くのファンが僕を待ち構えていて、僕の体を触ったり、泣いたりしていました。

チョフ:エル=ハジ・ディウフの代表チームへの参加はどう思いますか?

カマラ:彼がチームに来てくれれば、必ず何かをしてくれるといつも思っていました。彼の攻撃スタイルは好きです。才能がある選手だと思っています。

チョフ:パパ・ブバ・ディオップについてどう思いますか?

カマラ:彼とは1996年にディアラフでプレーしていた時からの親友です。いつも彼から決定的なパスを受けて、ゴールを決めていました。彼は友達というより兄弟です。

(注:パパ・ブバ・ディオップは、2002年の日韓ワールドカップのフランス戦で唯一ゴールを決めた国民的ヒーロー。難病の筋委縮性側索硬化症(ALS)を患い、長い闘病生活の末、2020年11月29日、42歳でこの世を去った)

チョフ:バカンス中はどのように過ごしていますか?

カマラ:午前中は友達と浜辺で過ごし、午後はトレーニングを行っています。夜はナイトクラブで騒いでいます。このような息抜きは僕には必要なのです。ただ、ナイトクラブにはシーズンが始まったら行きません。

チョフ:あなたの欠点はなんですか?

カマラ:とても神経質なことです。あとで後悔していますが…

チョフ:好きな料理は何ですか。

カマラ:スープ・カンジャです。

チョフ:最後に一言どうぞ。

カマラ:僕たちは、今日褒められたかと思うと、明日はコテンパにけなされます。人生には浮き沈みがあり、いつも頂点にいることはできません。真のプロサッカー選手は常に最高のパフォーマンスを出すことに苦闘しています。

ハリル・ファディガ  Khalilou  Fadiga

1974年12月30日、ダカールのコロバンColobane地区で生まれる。

名前のハリルKhalilouは、アラブで「神様の親友」という意味。

身長183cm

ポジション:FW

豊富な想像力と左足の高速度クロス。

柔らかなボールタッチから中央へ切り込み、チャンスメークの役割をこなし、技術、戦術眼の高さで司令塔として左サイドに君臨。

ニックネームは《魔法の左足》

数多くのセネガル代表メンバーと同じく、《セネフSénef》と呼ばれるセネガル生まれのフランス育ちである。

貧しい家庭に生まれ、7歳の時、家族と共にパリの下町バルベス地区グットゥ・ドールGouttes d’or通りに移り住む。(注:この通りはアフリカ系の娼婦がいることで有名だった)

父親は道路掃除人、母親は家政婦として働く

11歳の時、グットゥ・ドール少年サッカークラブに加入。

12歳で、パリ・サンジェルマンの練習生として1年間在籍する。

パリ地域で最強チームのレッド・スター・ジュニアでプレーをするが、プロ契約をオファーされることはなかった。しかし、RFCリエージュのエリック・ジュレに才能を見出され、ベルギーに来るよう勧められる。

大学入学資格(バカロレア)取得後、両親の許可を得て18歳でベルギーのRFCリエージュと契約を結ぶ。

ベルギーで5年間活躍し、フランスに渡り、ASオセ―ルに移籍。

2003から1年間、インテル・ミラノでプレー。しかし、心臓に不整脈が見つかり、「戦力外」と宣告される。

その後、イングランドのボルトンなどで活躍し、最後はベルギーに戻りプレーをする。

代表経歴

セネガル代表としてデビューする前、ファディガは危うく代表入りの権利を失うところだった。ベルギー人の女性と結婚したファディガは、ベルギーに帰化して、2000年の欧州選手権UEFAにベルギー代表として出場したいと計画していた。しかし、セネガルから代表入りの依頼が突如舞い込み、1999年12月22日、アフリカ・ネーションズ・カップ予選のモロッコ戦でセネガル代表デビューを果たした。

セネガル代表としてプレーすると決断したファディガは、「僕は正真正銘のセネガル人だ。国際舞台でこの国の代表としてプレーできることを誇りに思っている」と力強く語った。

セネガル育ちでないものの、ピッチ中に的確なパスを出すファディガは間もなく国民に愛される背番号10になった。

2002年の日韓ワールドカップでは、グループリーグのウルグアイ戦でペナルティキックで1点を決めた。

セネガル代表チームが低迷していた2008年頃、レオポール・セダール・サンゴール競技場にいた熱狂的なサポーターたちが一斉に、「ファディガを欲しい!ファディガを欲しい!」と熱いコールを合唱したという。アンリ・カマラやトニー・シルバやエル=ハジ・ディウフもファディガにラブ・コールを送った。

これに対しファディガは以下のように回答した:

「国民の声には、僕はこう答える:『もし人々が僕を必要とするなら、僕はリュックサックとシューズを持って自転車に乗り、セネガルまでペダルをこいでゆくよ』」

有名なエピソードがある:

2002年の日韓ワールドカップ大会前の5月26日午後、ファディガは韓国の大邱市中区の宝石店に同僚と一緒に入り、店主が目を離したすきに30万ウォン(約3万円)相当の18金ネックレスを盗んだ。この場面が監視用のビデオに映っていたため、警察に摘発された。大邱地検刑事部はハリル・ファディガに対し、起訴猶予処分を下した。検察関係者によると、「被害の程度は軽く、被害者が処罰を願っていないうえ、本人も反省しているため、相次ぐ試合を控えて心理的負担を減らそうと起訴猶予にした」という。(2002年6月4日付『中央日報』)

これには後日談がある。被害者の宝石店主が、ファディガに豚の形をした金のペンダントをプレゼントした。これは、韓国では幸運を招くとされる御守りで、セネガルが決勝トーナメントに進んだのはそのお陰である、とSNS上で噂になった。(注:イスラム教では、豚が地面を鼻で掘り返すことから、土葬されている遺体の「魂を食べる不浄な動物」として忌み嫌われている。ファディガが敬虔なイスラム教徒ゆえに、この金の豚のペンダントを大切にしていたかどうかは疑問である)

2011年に引退を発表。

現在、テレビのスポーツ番組の解説やアフリカ・サッカー連盟の技術・推進委員会のメンバーを務める傍ら、ダカールで孤児院を経営している。

欧州クラブで活躍しているノア・ファディガは、彼の息子。

トニー・マリオ・シルバ  Tony Mario Sylva

1975年5月17日、ダカールの下町ゲジャワイに生まれる。

身長183cm。

ポジション:ゴールキーパー。

2002年のアフリカ・ネーションズ・カップ・マリ大会では、ベスト・ゴールキーパーに選ばれた。

ダカールのアカデミー、アルド・ジェンティ―ナ・センターで育成を受けた後、

1995にASモナコに加入。その後、フランスのガゼレク・アジャクシオなどで活躍後、2010にトルコのトラブゾンスポルに移籍。その後引退する。

代表経歴

2002年の日韓ワールドカップで劇的なベスト8進出に大きく貢献した。

サリフ・ジャオ  Salif Diao

(Wikipediaより転載)

1977年2月10日、セネガルの東部の都市ケドゥグウに生まれる。

身長184cm。

MFセンターハーフ。

《セネガルのヴィエラ》と言われた。

高い身体能力を持ち、攻守にわたり活躍。

長い足で相手からボールを奪い、その瞬間に攻撃モードに切り替わりシュートを行う。

パス能力も高く、アシストも期待できる。

ASモナコが資金援助した、ダカールのサッカーアカデミー、アルド・ジェンティナ・アカデミーを経て、17歳の時、フランスに移住。

1997、ASモナコデビュー。

2000にCSスダン・アルデンヌへ移籍。

2002のアフリカ・ネーションズ・カップと日韓ワールド・カップでの活躍により、イングランドの複数のクラブから関心がよせられ、2002年にリバプールFCに移籍。

2012年、現役引退。

ムハマドゥ・ジャウ  Mouhamadou Diaw

1981年2月2日、ダカールのヨフに生まれる。

身長165cm

ポジション:攻撃的MF

足が速く、ボールの引き出し、パス能力が高い。試合の流れの読みに優れている。

ダカールのアカデミー、アルド・ジェンティナ・センターで教育を受ける。

その後、夏のバカンス中に開催される、アマチュア・サッカークラブの対抗戦(ナベタンヌ)で、準決勝の試合を観たASCジャンヌダルクの会長の目に留まる。

2000年、ダカールの名門ASCジャンヌ・ダルクと契約を結ぶ。

2003年、SCドラギニアンと契約し、フランスでデビュー。

2016年、AJオセールとの契約終了を機に引退。

ママドゥ・ニャン Mamadou Niang

1979年10月13日、セネガルの北部の町マタムに生まれる。

身長178cm

ポジション:FW 左利きストライカー。

エル=ハジ・ディウフのように、⦅Bad Boy⦆のイメージが強い。

1歳の時、家族がフランスのル・アーブルに移り住む。

1998、ル・アーブルのユースASPTTに在籍。

1999、トロワACに移籍。その後、RCストラスブールなどを経て、2005、オリンピック・マルセイユに移籍し、リーグ優勝に大きく貢献した。

2011、カタールのアル・サッドに移籍。2014年にフランスに戻り、アルル=アヴィニョンで1年間活躍し、引退する。

代表経歴

セネガルの代表チームの選抜の際は、2002年3にメツ監督に呼ばれ、ボリビア戦に出場。しかし、同年開催の日韓ワールドカップに招集されなかった。

2004のアフリカ・ネーションズ・カップの予選の試合では、合計2ゴールを決める。

2006のアフリカ・ネーションズ・カップの本大会に出場し、合計3ゴールを決める。

2008のアフリカ・ネーションズ・カップの予選では、タンザニアとの試合でハットトリックを達成。しかし、本大会ではゴールを決められず、あえなくグループリーグで敗退した。

2010のアフリカ・ネーションズ・カップ予選とワールドカップ予選のどちらにもニャンは呼ばれなかった。セネガルはアフリカ・ネーションズ・カップの本大会にもワールドカップの本大会にも出場できなかった。

引退後、ユーロスポールが中継した2021-2022のフランスカップ決勝の試合の解説を行った。

デンバ・バ Demba  Ba

1985年5月25日、7人兄弟の6番目として、フランスのオー=ド=セーヌ県セーブルに生まれる。

身長190cm

タンバクンダ州クサナール村Koussanar出身の両親とは、プラー語で話している。

1992、モン・ガイヤ―ルのユースクラブに入団。

2001にモンルージュFC92に登録し、2004年まで在籍。この頃に、プロサッカー選手になることを決意する。

オリンピック・リヨネやAJオセールのトライアルを受けるが、どちらとも不合格となる。

フランスを離れ、イングランドのワトフォードFCと契約をする。

その後、フランスやベルギーのクラブでプレーし、2015に中国サッカースーパーリーグの上海申花へ移籍。移籍金は、900万ポンドと言われている。

2016年7月17に相手選手と接触した際、左足首を骨折し退団。

その後、スペインやトルコでプレーした後、上海申花へ復帰したが、最終的に2021年9月13日自身のSNSで引退を発表。

代表経歴

セネガルの両親のもとでフランスに生まれ、フランスで育ったので、2重国籍を持っている。

22歳の時、当時セネガル代表チームの監督だったヘンリク・カスペルチャクに呼ばれ、2008のアフリカ・ネーションズ・カップ予選に出場し、1ゴールを決める。しかし、本選には招集されなかった。

2012のアフリカ・ネーションズ・カップの本選に出場を果たすが、チームはグループリーグで敗退した。

2013-2014シーズンから、ニューキャッスルが消費者金融会社のWongoとスポンサー契約したことから、パピス・シセと共にユニフォームの着用を拒否した。彼は敬虔なイスラム教徒で、イスラム法の「シャリア」では、《信用貸しの行為》は禁止されているからである。のちに、着用することで同意した。

2015、パリの『シャルリー・エブド』がイスラム教徒によって襲撃された時、彼はすぐに声明を出した:

「私はイスラム教徒ですが、フランスで起きたことはイスラム教ではありません。亡くなった犠牲者とその家族に哀悼の意を表し、私は黒いユニフォームを着ます。しかし《私はシャルリー》という言葉をユニフォームに表記しません」

パピス・シセ  Papiss Cissé

1985年6月3日、ダカールに生まれる。

身長181cm

ポジション:フォワード

バカンスの期間に開催されるアマチュアクラブのサッカーの対抗試合、「ナベタンヌNavétane」でデビュー。最初、グラン・ヨフのクラブ、ダルーDarouでプレーし、次にリュフィスクのマンコManko、そしてASドゥアンヌDouaneでプレーし、セネガル・カップに優勝する。

2005、フランスのFCメスに入団。その後、ASシェルブールにレンタル移籍し、26試合に出場し、11ゴールを記録した。その後、ドイツなどでプレーし、2012年にイングランドのニューキャッスル・ユナイテッドFCに移籍。

2013-2014シーズンから、ニューキャッスルが消費者金融会社のWongoとスポンサー契約したことから、敬虔なイスラム教徒のシセは、デンバ・バと共にユニフォームの着用を拒否した。イスラム法の「シャリア」では、《信用貸しの行為》は禁止されているという理由からであるが、のちに着用することで同意した。

代表経歴

2009にセネガル代表に呼ばれ、親善試合のコンゴ戦で2ゴールを決めた。

2010109、アフリカ・ネーションズ・カップ2012予選のモーリシャス戦でハットトリックを記録した。

2015年に34に行われたマンチェスター・ユナイテッドFC戦で、相手のジョニー・エヴァンズに対して唾を吐き返したとして、7試合の出場停止処分を受けた。エヴァンスも6試合の出場停止処分を受けた。

201679、中国スーパーリーグ山東魯能へ移籍。

2023年に引退。

ムサ・ソウ  Moussa Sow

1986年1月19日、セネガル人の両親のもと、フランスのイヴリーヌ県マントゥ=ラ=ジョリーに生まれる。

身長180cm

ポジション:FW

ゴールへの強い意思があり、どこからでも積極的にシュートを放っていく。

10歳の時、ユースクラブのFCマントワ78に入団。2002年にアミアンSCに移籍。

2004にスタドゥ・レネと契約を結び、プロデビューを果たす。

2010628、リール完全移籍。同年11月のSMモンペリエ戦で、前半だけでハットトリックを達成した。さらに、12月のFCロリアン戦でシーズン2度目のハットトリックを達成した。

2012年にトルコのフェネルバフチェへ1000万ユーロ(約15億円)の4年半契約で移籍。

代表経歴

フル代表では、両親の出身国であるセネガル代表を選択。2009年8月12日の親善試合のコンゴ共和国戦でセネガル代表デビューを果たした。2010年10月9日、アフリカ・ネーションズ・カップの予選のモーリシャス戦で代表初得点を挙げた。

2017のインタビューで、ソウは、「私の目的はフランスのチームでプレーをすることではなかった。私の頭の中には、セネガルしかなかった」と語っている。

2014年、フランスの《反イスラム主義に立ち向かう》集団に融資をおこなうため、デンバ・バと共に、ユニフォームをオークションにかけた。

2017、ソウは次のように宣言した:

「イスラム教は私の人生において重要な位置を占めています。神が私たちをイスラム教徒にしてくれたことを幸せに思っています。それ故に私たちは行動を慎み深くできるのです」

2017年、両親の故郷の村に井戸を掘って、飲料水を村中の人々供給した。

カリドゥ・クリバリ  Kalidou Koulibaly

1991年6月20日、フランスのサン=ディエ=デ=ヴォージュに生まれる。

身長187cm

ポジション:DF

頑強でパワフル。

センターバックとしての能力が高く、絶妙なカバーリングで相手のパスをカットしていく一方、大柄な体格でバネのあるジャンプで空中戦は負け知らず。自陣に分厚いブロックを築き、容易に失点は許さない。

1999、ユースチームSRDサン=ディエでデビュー。

2004にユースチームメスに移籍。

2010、トップチームFCメスへ昇格し、リーグ・ドゥでプロデビューを果たす。

2012、ベルギーのKRCヘンクに移籍。

2014.イタリアのセリエAのSSCナポリへ移籍。

2022、イングランドのチェルシーに移籍。

2023、サウジアラビアのアル・ヒラルと3年間の契約を結ぶ。

代表経歴

2011年のFIFA U-20ワールドカップやトゥーロン国際大会そして2012年のオリンピックにフランス代表として出場していたが、2015年8月、シセ監督からの呼びかけに応じ、セネガル代表としてプレーすることを決める。この時クリバリは、「セネガル代表を選択したのは、第2の選択肢ではなく、私のハートで選んだ」と語った。

201595のナミビア戦でセネガル代表デビュー。

2022年のW杯カタール大会では、シセ監督からセネガル代表に選ばれた。本選のグループリーグのエクアドル戦で、後半70分、右サイドのFKからゴール前で相手がクリアし損ねたボールを右足のボレーで合わせ代表初ゴールを決めた。このゴールが決勝点となり、セネガルは最終節でエクアドルとの順位を入れ替えてグループステージを2位で通過。エースのサディオ・マネがケガの影響で不在の中、セネガルは2002年のFIFAワールドカップ以来20年ぶりのグループステージ突破を果たした。

2023929、シセ監督は2023年のアフリカ・ネーションズ・カップを戦うため、クリバリをセネガル代表に選んだ。

2016年2月3日のセリエA第23節SSラツィオ戦で、ラツィオサポーターから人種差別の野次を受けた。これにより主審が試合を4分間中断させ、サポーターに野次を止めるよう呼びかけた。試合後、クリバリがスタンドの子供にユニフォームをプレゼントするなど、人種差別を受けながらもファンサービスを怠らなかった姿勢が称賛された。

イスマイラ・サール  Ismaïla Sarr

1998年2月25日、セネガル北部の都市サン=ルイに生まれる。

身長175cm

ポジション:FW

所属:オリンピック・マルセイユ

アフリカ屈指のサイドアタッカー。クラブOBの長友佑都も「驚いた」と語る爆発的な加速力を持ち、一瞬で相手DFを置き去りにするドリブルは驚異的である。突破後のプレー精度も高く、けがも少ないため、安定して得点とアシストを量産する。

2009年、ダカール郊外にあるアカデミー・ジェネラション・フットAcadémie Génération Footに入学。

このアカデミーはフランスのFCメスと提携していて、卒業生にはパピス・シセやサジョ・マネがいる。

2016、フランスに渡り、FCメスと5年間のプロ契約を結ぶ。

20177、スタッド・レンヌへ完全移籍。レンヌ史上2番目の高額移籍だった。

201988、イングランドのワトフォードは、クラブ史上最高額の移籍金(約54億円)でサールを獲得し、5年契約を結んだ。

2023年7月24、オリンピック・マルセイユへ5年契約で移籍。

代表経歴

2015年、17歳でアフリカU23ネーションズ・カップに出場。

2016年9月にダカールで開催されたアフリカ・ネーションズ・カップ2017予選のナミビア戦でA代表として召集される。この試合で、アカデミーおよびFCメスの先輩、サディオ・マネの交代として出場。

2018年、シセ監督は、W杯ロシア大会に臨むセネガル代表にサールを選出する。サールはグループリーグの3戦すべてに出場するが、決勝トーナメント進出は出来なかった。日本戦にも出場し、対峙した長友佑都から「スピードはトップクラスですし、これからビッグクラブに行くような選手だな、というのは感じていますね。本当に素晴らしい選手です」と評された。

2022年のW杯カタール大会2022では、アリウ・シセから再び代表に選出され、グループ・リーグ最終戦のエクアドル戦で、ワールド・カップで初めてのゴールを決めた。

ラミヌ・ジャータ  Lamine Diatta

1975年7月2日、ダカールに生まれる。

身長177cm

ポジション:DF

典型的なストッパータイプ。

空中戦に強さを発揮し、ハードタックルで敵のアタックを食い止める。

1歳の時、家族はフランスのボルドー郊外、ジロンドに移り住む。

ユース・チームのUSロルモン入団。

その後、アルカションFCに入団し、1998年にトゥールーズFCとプロ契約を結ぶ。

1999、オリンピック・マルセイユに移籍するが、2週間後にスタッド・レンヌに移籍。

2002、アフリカ・ネーションズ・カップと日韓ワールド・カップにセネガル代表として出場。

2009320、スコットランドのハミルトン・アカデミカルに移籍するが、1ヶ月後の4月23日、カタールのアル・アフリSCでプレーをする。

2011、チュニジアのクラブと契約。

同年12、イングランドのドンカスター・ロヴァ―に移籍。

同年、引退を決意する。

パプ・サール Pape SARR  El Hadji Papa Brahim Sarr

1977年12月7日ダカールに生まれる。

身長180cm

ポジション:MF

所属:トッテナム

ボールの分配を考え、的確なパスを回し、力強いタックルで敵の攻撃を阻止する。

最初、ダカールのユースチーム、ASCイエゴでプレー。

1992、ASサン=テティエンヌで育成を受ける。

1996811、ASサン=テティエンヌでプロデビュー。

2001517、RCレンスに移籍。

2004、デポリティヴォ・アラヴェスにレンタル移籍。

2007922、パリFCに移籍。

2009、ASヴァランスに移籍。

2010、オリンピック・ノワシィ=セクに移籍。

2011引退を発表。

代表経歴

2002年の日韓ワールド・カップに出場。ベスト8進出に貢献する。

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