《ダカール・バマコ鉄道の旅日記》
10月18日
朝、起きて空を見たら、どんよりと曇っていた。
これから始まる長い旅の「お出迎え」がこの曇り空かと思うと、ちょっと心配になってきた。
ミネラル・ウォ―ター1本、⦅Vache qui rit⦆のチーズ1箱、バナナ3本、日本のうちわ、トイレット・ペ―パー1巻、日本から持って来た⦅パインあめ⦆1袋、カメラ、メモ帳、コダックフィルム3本をリュックに詰めていざ出発!
ダカール駅に早く着いたので、駅の周辺にある市場に行った。
ここでは、マリの特産物が多く販売されていて、特にシア・バターが安い値段で売られている。(投稿記事『カリテ(シアバターノキ)』参照)
この市場は、新高速鉄道(TER)の建設に伴い、現在は無くなっている。
朝9時に駅の切符売り場に並ぶ。しかし駅員さんが来たのは9時10分。
急に暑くなり始め、汗が顔にダラダラと流れ始める。
僕の前に数人の人が待っていたが、切符売り場の担当者がその人たちを飛び越して僕を呼んだ。
「そこのトゥバ―ブ(外人)!駅長の許可を得てください。駅長の許可が下りたら、切符を売ります」
「切符を買うのに駅長さんの許可がいるのですか?」僕は驚いて聞いた。
「駅長の許可がなければ切符は売りません」担当者がきっぱりと言った。
ここで突っ張ってもしかたがないと思い、僕は素直に駅長室に向った。
途中、ダカール・バマコ鉄道の主要な駅の発着予定時刻表が壁に掲示されていたので、それをメモした。
駅長室に行くと、駅長さんは他の人に対応していて、忙しそうだった。
やっと話ができて、バマコまでの切符を買いたい旨を述べると、「窓口に電話をするから、すぐに窓口にゆくように」と言われた。たった、これだけ?
駅長室を出ようとしたら、出口で、二人の男が大声で口論をし道を塞いでいた。すると、どこかのおばさんがやって来て、「あんたたち邪魔よ!」と一喝すると、二人は急に黙って道を開けてくれた。さすが、ママ・アフリカ!
切符売り場に戻ると、駅員さんは僕を見るや否や、またまた他の人たちをさしおいて、切符をすぐに売ってくれた。
ダカール・バマコの寝台車片道切符は、16.320FCFA(約3.260円)だった。駅員さんの親切には感謝・感激。
寝台車というちょっとリッチなクラスの切符を買ったのには訳がある。
筆者としては、2等車の切符を買って、セネガル庶民と共に旅をし、その雰囲気を一緒に味わいたいと思っていた。しかし、列車内で外人客が窃盗被害に遭うことがあると聞き、事件が起きた場合、いろいろな人に迷惑をかけることを危惧し、敢えてそのリスクは冒さないことにに決めた。2等席の切符の購入は諦め、より安全が確保されている寝台車に乗ることにした。
チケットを手にして、すぐにホームに向った。
太陽が急に射し込み、曇った空が青空に変わった。
旅の良い兆しなのか、ワクワクしてきた。
ホームで列車の写真を撮っていると、後ろから変な男がついて来るような気がした。振り向いて牽制すると、男はさっと顔をそむけてどこかに行ってしまった。
駅や鉄道は、国によっては軍事施設と見なされることがあるため、写真撮影は慎重になる必要がある。
車輛の写真を撮影する前に、念のため駅長さんに写真撮影をしても良いか、尋ねに行くと、「写真は良いが、ビデオ撮影はだめだ」と警告された。
機関車の写真を撮る。
機関車は、1979年よりカナダ政府から12両以上、無償供与されていて、「カナダの貴婦人」というニックネームがついている。
平均スピードは、時速65km。
かつては食堂車があったようだが、今回の車両にはなかった。
ダカール駅Dakar :9時59分発 (予定時刻10時) ⇒ 以下 ( ) 内は予定時刻
ほぼ時間通りに出発。
寝台車輛は、前から3両目。僕の席はE-4。
コンパートメントは、4つの寝台から成っていた。
ダカール出発時は、僕のコンパートメントには誰もいなかった。ちょっと寂しい感じ。
荷物を置いて、1等車と2等車の写真を撮りに行く。
1等車の座席の写真を撮っていると、男性が話しかけてきた。
「あなたは中国人ですか?」
「いいえ、日本人です」
「バマコまで行くのですか?」
「はい、そうです」
「ダカールから日本まで飛行機で何時間ぐらいかかりますか?」
「ダカールからパリまで5時間。パリから東京まで12時間。合計17時間。空港での待ち時間やトランジットの待ち時間も合わせれば、全部で25時間くらいかかります」
「ひぇー!日本はそんなに遠いのですか…」
次に筆者が質問してみた。
「ダカールからバマコまで列車でどのくらいかかりますか?」
「早ければ1日半くらい。大体31時間。最悪の場合は3日かかります」
「ひぇー!」
「Bon Voyage!(良い旅を)」
「A vous pareillement (あなたも)」
男性は鉄道会社SNCFに勤務していて、息子と娘と一緒に実家のカフリンKaffrineに行くらしい。
子供たちに、日本から持って来た⦅パインアメ⦆を数個あげると、恥ずかしそうに受け取った。
男性によると、ダカール・バマコ鉄道の客車はマリの鉄道会社の所有であるが、ダカールから国境近くのキディラ駅までは、セネガルの鉄道会社所有の機関車が使用されるとのこと。因みに、機関車はカナダから寄贈されたものだという。
列車がゆっくり動き始めるとホームにいる見送りの人たちが手を振っていた。列車の中の人もそれに応えて手を振る。どこも変わらない別れの風景。
列車は民家の近くを走りぬけてゆく。
窓からサラヌ・トゥバブが見えた。
車の中から見慣れている風景も、列車の車窓という額縁を通して見るとまた違った風景に見えてくるのは、とても不思議。
アン駅Hann :10時10分着
コンパートメントの中に、大きな蚊がいた。マラリア蚊だろう蚊(か)?
床は剥げてネトネトしている。ゴキブリの死骸が2つあった。
アン駅近くに、動物園がある。
ここの動物たちは、日本の動物園の動物のようにおとなしくはなく、野生の本能が残っているせいか、見学者に飛びついてきたり、唸ったりして威嚇してくる。とても怖い動物たちだった。
列車は住宅街の中を通り抜けてゆく。
線路沿いの民家は、道路側に対しては、塀をつくり家の中が見えないようにしているが、線路側に対しては、何も設置していないので、家の中が丸見え。
チヤロイ駅Thiaroy :10時25分着
物売りがたくさんいてそのエネルギーに圧倒された。
駅が市場に隣接しているのだろうか?それとも駅自体が市場なのだろうか?
駅を出ると、列車はスピードを上げて走り始めた。
突然、ダルカッセDarkaseの森が目の前に現れた。
ダルカッセは、和名をカシューナッツノキと言い、ビールなどのおつまみとなるカシューナッツが採れる。
英語のカシュ―Cashewは、ポルトガル語の「カジュ―Caju」に由来している。これは原産地であるブラジルのツーピーTupi族が「アカジュAcaju」と呼んでいた名前を、ポルトガル人が語頭の「A」を落として「カジュ―Caju」と呼び、それをイギリス人が訛って発音をして「カシュ―Cashew」となったといわれている。
カシューナッツは、16世紀にブラジルを探検したポルトガル人によって発見され、その後、ポルトガル人航海士達によってアフリカの熱帯海岸地域に伝わった。カトリーヌ・ド・メジチ付き司祭だったアンドレ・テヴェAndré THEVETが1558年、アフリカで最初にカシューナッツについて記述した。セネガルでは、シヌSineやサルームSaloumの沿岸地域の砂地に半自生するようになった。やがてインドに渡り、インドは今では、世界一のカシューナッツ生産国になっている。日本で販売されているカシューナッツのほとんどがインド産である。ただ、熱帯アフリカ産の殻つきのカシューナッツの多くが、インドに運ばれて加工され、世界に輸出されているところを見ると、日本で食べているカシューナッツがアフリカ産であることも考えられる。
【カシューナッツの作り方】
セネガルでは、カシューナッツを高温に熱した砂で炒るが、果皮に含まれている有毒成分(カルドール)が熱せられると、危険な毒性の蒸気を発生し眼や顔の皮膚を傷めるので、風通しのよい場所で作業を行う。取り出した仁(カシューナッツ)も、生ではひどく口中を痛めるので、必ず火を通す必要がある。
赤色または黄色のピーマン形の部分は、果実ではなく花托で、カシュ―・アップルと呼ばれている。甘酸っぱく、ジューシーでおいしい。
うす緑色の殻におおわれた勾玉形の部分が本当の果実で、その中に入っている白い種子(仁)がカシューナッツ。
セネガルの民間治療師(Guérisseur)は、新鮮なカシューアップルに針を突き通して圧搾して液体を採取し、それを煮立てて蒸発させ、シロップを作る。このシロップは、万能薬を調合する秘薬として使用されている。
カシューナッツは搾るとミルクが取れて、そこからチーズやバターを作ることができるので、牛乳アレルギーの人や、ビーガンの人にお勧めの代替乳製品の食材でもある。
また、殻に含まれる天然の植物油(カシューナッツ殻液)を牛の飼料に混ぜるとゲップ(メタンガス)が減るという研究報告もある。
カシュ―アップルは、ジュースにして飲んだり、土に埋めて肥料に使うこともできる。
列車の窓から砂ぼこりが入り込んで来て、目が痛くなった。
涙がぽろぽろ出てくる。
そう言えば、チヤロイでは今も語りつがれる悲劇があった…
1944年12月1日、チャロイのフランス軍のキャンプで、戦地から帰還して来た「セネガル狙撃兵」が暴動をおこした。
彼らは、第二次世界大戦が終わり、故郷に戻るはずだったが、兵としての身分が解除されず、一時的にこのキャンプに収容されていた。キャンプでは、給料が遅配となり、フランス人兵士から横暴な態度や劣悪な待遇を受けた。フランスのために命をかけて戦ったにもかかわらず、称えられるどころか、冷たい仕打ちを受けたセネガル兵たちは不満を募らせていった。
1280人のセネガル兵たちが起こした暴動は激しいもので、フランス人士官を人質にとったが、フランス側の攻撃によって、鎮圧された。セネガル狙撃兵35人が殺され、100人以上の負傷者がでた。34人のセネガル兵が暴動扇動の容疑で逮捕され、懲役1~10年の有罪判決を受けた。
祖国フランスのために命をかけて戦ったセネガル狙撃兵たちは、戦争が終わったとたんに、無用者扱いされ、故郷への帰還も許されなかった。
セネガルの映画監督、センベーヌ・ウスマンはこの暴動事件を描いた『チャロイ・キャンプCamp de Thiaroye』という映画を制作した。
セネガルのシンガー、イスマエル・ローがハーモニカ吹きの狙撃兵として出演している。
哀愁に満ちたハーモニカの音色が全編に流れ、虐殺の悲劇をさらに物悲しくしている。
リュフィスク駅Rufisque:10時40分着
リュフィスク駅を出たあと、車輛が異常に飛び跳ねた。線路が凸凹になっているのだろうか?
一瞬、「脱線」という2文字が頭の隅をよぎった。
列車が突然停まった。
窓の外を見ると、数人のスタッフが線路に下りて、レールをのぞき込みながら何か話し合っていた。脱線の危険性があるのだろうか?
スタッフたちは真剣な顔で話しあっていた。
これからは、何が起こるか分からない。この路線は何でも「有り」だ。一喜一憂しないで鷹揚に構えているしかない。
不安と期待の旅の始まり。
しばらくして、スタッフたちが結論を出し、列車に乗り込んだ。
そして列車が動き始めた。
外の景色は、民家が少なくなり、空間が多くなってきたような気がする。
遠くにタマリンドの林が見えてきた。
セネガルの首都ダカールの名前は、この木のウォロフ名「ダカールDaqaar」に由来するという説もある。
タマリンドは、インドからアラブ人の手を経て、「インドのナツメヤシ」として欧州で売られていた。名前は、アラブ語の「タマ―ルTamar(ナツメヤシ)」と「ヒンドHindi(インド)」から来たもので、さやの中に入っているナツメヤシのような果肉に因んでいる。(インドでは、釈尊がこの木の下で布教したとされ、「バンバラスの聖樹」呼ばれている)
ジンDjin(精霊)が宿る聖なる木とされているため、伝統医療の秘薬として用いられる。
多岐にわたる症状に効果があり、治療に優れた薬草のひとつとされている。
樹木から酸性の蒸気を発散するため、木の下には他の植物がほとんど育たない。
葉は開閉運動をし、曇りから雨になると閉じるので、しばしば降雨を予想する。
果実は、豆果で甘酸っぱく、セネガルの国民食、チェブ・ジュンに添えて出される。
インドおよび中近東の料理に香辛料として用いられる。
カレー、レンズ豆の煮込み、甘いチャツネChutneyの中に入れたり、ごはんに香りづけさせたりする。Worcestershireソースの重要な原料になっている。
果肉は甘酸っぱく、清涼飲料水、キャンデーやゼリーの菓子、シャーベット、ジャム、酒、酢の原料として使用されている。また、食品に添加する増粘剤としても評価が高く、スナック菓子(かっぱえびせんマヨネーズ味)、ソース(ウスターソース、イカリとんかつソース、オタフク焼きそばソース)、岩のりの佃煮、瓶詰めに使用されている。
日陰をつくる街路樹として役立っている。
木材は大変堅く、家具、農具、車輪などに加工される。
チェス駅Thies:11時35分着/11時50分発 (11時30分/11時40分)
列車が到着すると物売りが一斉に集まってきた。
パン売り、サンドイッチ売り、ビサップ売り、首飾り売りなど。タリベも来てお金をねだる。
チェスには、セレール族の一族のノンヌ族がいる。ノーン語を話す。
『セネガル素描』を著したボアラ神父よると、ノンヌ族は、「大変美しい黒人で、男たちは背が高く、美しい躯体をしている。いつもおしゃれな服を着て、性格はやさしいが、自立心が強く、毅然としている」という。
1966年に設立された国立のタペストリー工房、《セネガル装飾美術工房 Manufactures Sénégalaises des Arts Décoratifs 》がチェスにある。セネガルの著名なアーティストたちが下絵をタペストリー工房に提供している。
この工房の敷地内には展示場があり、現在までに作られたタペストリーのうち、20枚ほどを見学することができる。(展示されているタペストリーは毎年入れ替えが行われている)
チェスは鉄道公社の中心であると同時に、労働運動の指導の中心でもあった。
住民はすべて、例外なしに、鉄道、つまりクリコロ=ダカール間の鉄道輸送で生活をしていた。修理工場と保線区もこのチェスにあった。
チェスは、常に、殉教者たちの墓場だった。
1962年5月12日、チェスは、ピネ=ラプラードPinet-Lapradeの軍隊により焼き払われ、1938年と1947年には大規模な鉄道ストライキが行われた。
1938年のストライキは、賃金の値上げと労働条件の改善を要求した、セネガルの労働者の最初の闘いだったが、軍隊により制圧され、7人が死亡し、152人が負傷した。
1947年の鉄道ストライキは、10月11日~1948年3月19日までの約5ヶ月間続いた。
セネガル人鉄道員は、フランス人と同等の権利を要求し、賃金の見直しを迫るストライキを行った。このストライキは、根本的な人間の平等を要求する植民地支配との闘いでもあり、白人支配の時代の終焉を告げるストライキでもあった。
セネガルの独立運動の先駆者は鉄道員だったと言える。
ストライキの間、フランス当局は、商店に物流の停止を通告し、日常必需品、米、きび、トウモロコシなどの供給を押さえ、チェスの人々を兵糧攻めにした。
人々の家では、水道が止められ、食物が底をつき、貯金が食いつぶされ、もう一文も残らなくなっていた。それでも住民たちは飢えと闘いながらストライキを続けた。
そのような状況の中で、鉄道員の妻やチェスの女性たちも敢然と立ち上がった。
作家で映画監督のセンベーヌ・ウスマンは、当時のストライキの状況を、映画のシーンのように、長編小説『神の森の木々』(藤井一行訳)で克明に描いている。
緊迫した当時のストライキの状況を伝えるために、センベーヌ・ウスマンの臨場感あふれる描写を(長くなるが)そのまま引用する:
『「わしらはちゃんとした腕をもっている。しかし、それに見合うだけのものはもらっていない。くすねとられているのだ。わしらは、けだものとちっとも変わらない。それほどわしらの賃金は低い。何年か前のことだったが、チェスの連中がストライキをやった。そのために、死人が、わしらの側から死人が出た。いままた、それが始まろうとしている。いまというこの瞬間に、これと同じような集会がクリコロからダカールにかけて幾つも開かれている。わしのまえに幾人かの者がこの演壇に登った。わしのあとからもつづいてしゃべる者がいるだろう。おまえさんたちはストライキをやるつもりかね?どうなんだ?だが、そのまえに、よくよく考えてみなければなるまい」
会場にいるティエモコがじいさんの話に水をさした。
「おれたちは働いているんだ。それも白人と同じ仕事をしている。それなのに、なんでやつらはおれたちよりもよけいにもらう権利があるんだ?白人だからか?病気になると、なぜやつらだけ治療をうけるんだ、そして、おれたちや家族には、なぜくたばる権利しかないんだ?おれたちが黒人だからか?白人の子はどこが黒人の子よりすぐれているんだ?白人の労働者はどこが黒人の労働者より優秀なんだ?われわれの権利は平等だなんてぬかすが、そいつはうそっぱちだ、まったくのうそっぱちだ!ほんとうのことを言うのは、おれたちが動かす機関車、あの機関車だけだ。機関車は人間の白黒を区別しやしない。給料票を見つめて、おれたちの給料は足りなすぎるなんて言ったってはじまらない。まともな生活をしようと思うなら、たたかわなきゃだめだ」
「あの連中は退職金ももらわずに死んでいった。もうじきわしらの番だ。どこにわしらの貯金がある?ところが、トゥバブ(ヨーロッパ人)の年寄りの方はどうだ、わしらに仕事を教えてくれたアンリだのドラコリーヌだのエドゥアールだのといった連中はどうしている?あの連中は退職金をもらって本国で暮らしているんだ。わしらだけがどうしてこの退職金がもらえんのだ?若い連中が言っているのはそれなんだよ」
通りから歌声が聞こえてきた。
ディエナバとペンダを先頭にして女たちが、夫にささげるためにつくった歌を歌いながら、やって来た。
夜が明け、歴史に残る1日がくる。
地平線から光がさしてくる。
ダカールからクリコロまで、
“サバンナの煙“ は絶えた。
運命の日、10月10日、
わたしたちは、”グイユ・ヤラム“ (広場)で誓いをたてた。
わたしたち妻は、最後まであなたたちを支援する。
たたかいの苦しさにうちかつために、
ブーブーと宝石を売りはらおう。
あなたたちは希望のたいまつに火をともした、
勝利の日は遠くない。
夜が明け、歴史に残る1日がくる、
地平線から光がさしてくる。
「そうだ、ストライキだ、ストライキだ!」会場の労働者たちはこぶしをつきあげて、叫んだ。
「ストライキばんざい!」かれは相棒の背中にとまってそう叫ぶと、バンバラ語で群衆に演説を始めた。
そのとたん、兵隊が襲いかかってきた。
たちまち、乱闘がはじまった―銃尾でなぐりつける、銃剣の先で突く、短靴ですねを蹴とばす、催涙弾を投げる、憤怒と怒りと苦痛の叫喚が、ただ一つの喧騒と化して、朝の空にたちのぼっていった。群衆は後退し、恐れをなしてばらばらに散らばってはまた集まり、動揺し、ためらい、そしてまた後退した。女商人のディエナバは市場の女たちを呼び集めた。伝説の勇婦のように、彼女たちはつえや鉄の棒やびんを武器にして、応援に駆けつけた。マガットと見習い工たちは踏み切りのところからまさに小石の弾幕射撃を開始した。手当たりしだいに拾い上げたものが空を飛んでいった。分遣隊を指揮していた士官の兵隊が一団の労働者たちに捕らえられて悲鳴をあげた。乱闘はいたるところでいっせいに起こっていた。市場には、ちゃんと立っている小屋が一つもなくなった。
1938年のストライキでも、チェスの広場には死体が横たわり、風で血だまりが干あがり、トルコ・スリッパ、サンダル、テニス靴、白やカーキ色の帽子、トルコ帽、軍帽などが散乱していた。今また、あのときの連中のせがれたちがストライキをやっている。痛みつけられ、なぐられ、飢えさせられながらも、がんばっている。なにかもなんとふしぎなことだろう、まったくふしぎなことだ!
そのときバシルが民警に追われて逃げてきた。バシルは身軽に自転車をとびこえたが、兵隊の重い軍靴がフレームと後輪を踏みつけ、子供の頭が車輪の下敷きになった。傷ついた子供のかぼそいうめき声を聞いて、人々は悲鳴をあげた。マイム―ナはそのうめき声を聞くと二人めの赤ん坊を片手にしっかりかかえ、べつの手を前にさしだしたが、その瞬間、だれかがが走って来て彼女を突きとばした。彼女は子どもをしっかりとお腹に抱きしめながら前に倒れ、赤ん坊を下にしてひざと手をついた。彼女は、背中を弓なりにして、子どもをかばった。
マガットと見習い工たちは、道床の上から規則正しく小石の一斉射撃をつづけていた。乱闘はいまやチェス中にひろがっていた。市場からは他の男たちが鉄道の労働者の応援にはせ参じた。しかし、航空隊や地区警備隊の営舎からも、武装した連中がやって来た。午前もなかばを過ぎたころ、たたかいはやっとやんだ。しかし、興奮はさめなかった。労働者たちは市場、踏み切り、駅前広場、それに機関庫周辺に陣どっていたが、当の機関庫と駅は銃をかまえた歩兵隊に守られていた。
騒ぎがおさまると、めくらのマイム―ナは手探りでわが子を捜して歩いた。死傷者が収容されたとき、小さな遺体もいっしょに運び去られたことを、彼女は知らなかった。マイム―ナはなぐられたり、突き倒されたり、踏みつけられたりのめにあって、からだが自由にならなかった。着物はずたずたになり、肌着は真っ二つに裂けて、かろうじて首にひっかかっていた。あらわな胸から腰巻の結び目にかけて、赤いしずくがしたたり落ちていた。その腰巻も腿のつけ根のところまで前がはだけていた。頭巾を失くしたので、短い髪が暴風のあとのフォニオ(きびの一種)畑のように乱れていた。彼女は残った子どもをしっかりだきしめ、ときどき顔を近づけて不規則な息づかいに聴きいっていた』
ホンボル駅Khombole :12時20分着
1908年4月3日、メルロー・ポンティ総督によりホンボル駅の落成式が行われた。
ホンボル駅を出ると列車がまた、激しくバウンドし始めた。
多分、線路が縦に波のようにうねっていて、水平に設置されていないのかもしれない。
バウンドがおさまり、砂の多いサバンナの風景に変わった。
いつのまにか列車はバオバブの林の中に入っていた。
バオバブは「精霊」が宿る「聖なる木」。
昔、セネガルの電気公社SENELECが高圧線を設置しようとしたところ、延長上にバオバブがあることが判明したため、わざわざバオバブを避けて高圧線を設置したという。
この地方では、歴史の語り部であり、歌い手であるグリオが、かつてバオバブのほらに埋葬された。近くにあるバンジャ自然動物保護区Réserve de Bandia内に、埋葬されたグリオの骸骨を見ることができる。(注:セネガルでは、グリオはカースト制度の低い地位に位置づけられている)
軽く体操をしようと思い、通路に出ると、子供がおまるにおしっこをしていた。用をたした後の《残留物》はどうするのだろうか?
バンベイ駅Bambey:12時45分着
コンパートメントでは人々が食事を始めた。
通路でガスボンベに火をつけてお湯をわかしている女性がいた。火事にならないのだろうか?その横で、イスラム教徒の女性が礼拝をしていた。
僕もお腹が空いてきて、チェスで買ったサンドイッチと持ってきたバナナ1本を食べ、ミネラルウォーターを飲む。
隣のコンパートメントから、アクラとファタイアが回ってきた。2~3個もらって隣のコンパートメントにまわした。
アクラは、ニエべ(インゲン)をつぶして揚げたもので、トマトソースや辛子をつけて食べる。
ニエべの香りがしてとてもおいしい。
ファタイアは、魚のすり身や牛肉のひき肉を小麦粉で作った生地に包み、揚げたもの。
庶民的な食べ物。
あっ、カジャンタベだ!
アサガオのような花のつぼみがいっぱい咲いているのが窓から見えた。
村を訪問すると、村はずれに必ずと言って良いほど咲いている花だ。
カジャンタベはウォロフ語の名前。カティジャンタとも呼ばれる。
和名は「チョウセンアサガオ」。
夜花が咲き、さわやかな香りを漂わせる。
花はラッパ状で、英語名は《エンジェルズ・トランペット》。
葉の汁が目に入ると瞳孔が開き、食べると意識が混濁し、幻覚や錯乱状態をもたらす。狂乱状態のあと、昏睡など強く症状が出ると死にいたる。
古代インドでは、暗殺者が前もって食べ、暗殺をしたと言われている。
日本最初の麻酔手術には、当時《マンダラゲ》と言われていたチョウセンアサガオが使われた。華岡青洲は、自分の母と妻で麻酔の実験を行い、結果を確認した後、1804年、乳がんの手術で麻酔薬として用いた。
(有吉佐和子の『華岡青洲の妻』には、『青洲が行った乳がんの手術は、近世外科界で実に世界最初の全身麻酔による手術であった』と書かれている)
セネガルでは、葉を水を保存するカナリ(壺)に入れてエキスをとり、その煎じ茶を少年たちが割礼の前に飲んでいた。兵士たちも戦闘前にその煎じ茶を飲んでいたと言われている。
中世ヨーロッパでは、この植物は魔女が扱うものとされた。いわゆる《魔女の大鍋》で、グツグツと煮つめて作られる《魔女の軟膏》の材料に必ず加えられた。魔女はこの軟膏を全身やほうきに塗ったり飲用して、空を飛んだり、動物に変身したりする。
ジュルベル駅Diourbel :13時5分着/13時25分発 (13時11分着/13時21分発)
駅の周りはサバンナの風景で、砂地の土地に灌木が生えている。
ジュルベルは落花生の産地で、落花生油を製造しているSONACOSの工場が見える。
駅に着くと、ベーチョ売りのおばさんたちが我先にと集まって来た。1枚1.000FCFA(約200円)で売られている。
ベーチョとは、女性がつける穴のあいた腰巻のこと。シースルー状態で、体が透けて見えるためかなりエロチック。夜、これを付けてウィンクしながら夫を誘うらしい。
おばさんたちの勢いに負けて、僕もピンク色の「セクシーな」ミニ・ベーチョを1枚買ってしまった。😭
ジュルベル駅は、ダカール・バマコ路線の駅であると同時に、1931年に完成したジュルベル・トゥバ路線の駅でもある。ムーリド教団の総本山トゥバに近い。
列車はトゥバの巡礼《マガル》の時だけ運行されている。
雨季の時期に、村と村の間を移動する際、雨で道が泥沼となっていて四駆の車がスタックしたことが何度かあった。その時は、近くにあるラットRatの枝を切って、タイヤの下に敷き、エンジンをいっぱいにふかして抜け出したものだった。
列車はそのラットの前を通り過ぎている。ラットに日頃の感謝の意を込めて敬礼!
ラットは、一見、何にも役立たない灌木のように見えるが、葉の煎じ茶は、風邪や咳の治療に使われ、庶民の薬草として役立っている。かつて、煎じ茶で割礼の後の傷を拭いていた。
木は硬く、建材、薪、炭などに用いられる。
ギンギネオ駅Guinguineo:14時18分着/14時45分発 (14時16分/14時21分)
この駅は、ダカール・バマコ路線の駅であると同時に、1912年に完成したカオラック・ギンギネオ路線の駅でもあった。
当時、セネガルには合計5つの路線があったが、カオラック・ギンギネオ路線は、その中でも全長22kmと最も短い路線だった。
ギンギネオ駅は、カオラックから輸送されてきた落花生を、ダカール・バマコ路線の鉄道に乗せ換えて、ダカール港まで運ぶための重要な駅だった。
この土地の主要な農産物は、トウジンビエ、落花生、ソルガム(モロコシ)、トウモロコシ、スイカなど。
筆者はタンバクンダ方面に出張に行った際、経由地のカオラックでよくスイカを買っていた。
スイカは、安くて甘くてとてもおいしかった。
途中、道端に車を停めてスイカを食べていたら、地面に捨てたスイカの種を拾いに来た人がいた。きっと、その種を蒔いてスイカをつくるのだろう、と思った。
駅のホームでは、羊の腎臓の串焼き(1本100FCFA=約20円)、スイカの切り売り(50FCFA=約10円)、ニワトリの丸焼き半羽(1.200FCFA=約240円)、水コップ1杯10FCFA(約2円)が売られていた。
窓の外でポツリ、ポツリと雨が降り始めた。が、すぐに止んでしまった。
暑さは感じない。秋の爽やかさがある。ダカールの方が蒸し暑いと思った。
以前、マリゴ(乾季は涸れているが、雨期になると雨水で川になる)の上に架かっていた線路が破損していたが、そこには、ラテライトの土とバラストが敷かれていて、きれいに修復されていた。
列車がこの上を通った時は、スピードを落としてゆっくり走ったが、通り過ぎたら、一気にスピードを上げた。
カフリン駅Kaffrine:15時33分着/15時42分発 (15時14分/15時15分)
1911年11月1日開業。
セネガル国有鉄道SNCSで働いている親子が、この駅で降りたのが見えた。
女性と男の子がコンパートメントに入って来た。清涼飲料水を1ケースを持ち運んで来た。
女性は、アジ・ジャーヌと言い、息子は2歳。
彼女のお父さんは、セネガル国有鉄道SNCSのインスペクター(監査官)と言う。
息子と一緒にタンバクンダまで行くらしい。どういう訳か僕に電話番号をくれた。
彼女が自分の境遇について話しを始めた:
「自分の夫は軍人で、愛人ができた。夫から、『その女性を第2夫人として結婚する』と言われた。
私はイスラム教徒だが、一夫多妻制度に反対で、離婚したいと思っているが、夫が同意をしてくれない。
私の場合、親が決めた結婚で、好きだった男性をあきらめなければならなかった。
私は家出同然で逃げて来て、今、結婚前に好きだった彼に会いにゆくところ」だと言う。
息子用にプラスティック製のおまるを持って来ている。男の子は、通路でそのおまるにまたがっておしっこをしていた。Www
木全体が夕陽を浴びているような木が見えた。
スールールSururだ。樹皮がもともと赤色をしている不思議な木で、10月から5月にかけてミモザのような黄色い花を咲かせる。
かつては、女性の唇に刺青をする際に、スールールの木のとげを用いていた。
アカシアの一種。
マレ―ヌ・ホダール駅Malène-Hodar :16時08分着/16時08分発
1912年3月8日、マレム・ホダール駅が開業。
ビサップジュースを売りに来たので、1つ買う。
通路では、人々が礼拝をおこなっていた。
アジの息子に名前を聞くと、「マリック」という名前だった。
名前を「真理久」と漢字に書いて見せたら、目を丸くしていた。
「日本には、あなたの名前と同じ『アジ』という魚がいる」と言ったら、驚いて、「アジは高いの?」と聞いてきた。
「安い庶民の魚です」と答えたら、笑っていた。
窓の外を見ると、ビサップの赤い花が見えた。形は違うが、日本の彼岸花のように秋の気配を感じさせる花だ。
ビサップは、日本では「ローゼル」と呼ばれ、ハイビスカスの一種の草花である。
咢(がく)を煮詰めてジュースにしたり、トウジンビエのクスクスに入れたりする。
ビサップ・ジュースは甘酸っぱくて、朝食時に飲むと目が覚める。
クンゲル駅Koungheul :16時55分着/17時02分(16時40分/ 16時41分)
1912年12月、クンゲル駅が開業。
クンゲルは古くからある町で、11世紀にマリ王国からやって来たマリンケ族のカマラ一族が、ニアニ王国の首都として建設した。
2010年にセネガルのスーパースター、ユッスン・ドゥールが名誉市民となった。
砂地の風景に代わって、枯草が広がる風景が目の前に現れてきた。
その中で、カッドKaddの木の若葉が見えた。
この木はあまのじゃくで、雨季に葉が散り、乾季に葉が茂る。
10月頃、周りの木々が落葉し枯れてしまうと、カッドのうす緑色の若葉が出始める。逆に、夏になるとカッドの葉は落ちて枯れてしまい、周りの木々の緑の中でさびしい姿となる。何故、雨季に葉が散るのかは未だに解明されていない。
乾季に家畜の重要なエサとなることから、《サヘルのミラクル・ツリー》と呼ばれている。
セネガルの気候は、12月頃になると若干寒くなるが、ヨーロッパや日本とは違って、0℃以下になったり、雪が降るということはない。実質的には、長い秋の後、冬を飛び越して、春が来て夏になる。
列車の中の気温が急に下がって来たような感じ。
以前、ここで列車が脱線事故を起こしたことがあるが、脱線に修復工事の痕が生々しく残っていた。脱線しやすい箇所を過ぎたら、ホッと安心した。
クンぺントゥム駅Koumpentum :17時30分着/17時30分発
羊の腎臓の串焼き、スイカの切り売り、ニワトリの丸焼き半羽が隣のコンパートメントから回ってきたのでおいしく食べた。
日本の援助で建設された高架水槽の前を列車は通り過ぎてゆく。
「高架水槽をじっくり見てください」と、言わんばかりに列車はゆっくりと走った。
この高架水槽から水が重力で村の共同水栓まで送られる。女性達はそこで水を汲み、頭にのせて家まで持ち運ぶ。以前は、遠い村外れの共同井戸まで水汲みに行っていたが、共同水栓ができたおかげで、女性たちの苦役ははるかに軽減された。
村人たちには、「太陽が真上にある時は、水汲みに行ってはいけない」「赤ちゃんができる年頃の女性は水汲みに行ってはいけない」という言い伝えがある。
植生が徐々に変わってきた。今までサバンナだった風景が、線路の両側にたくさん木が生えている風景に変わってきた。
列車がちょうどガラブ・ラウベGarabu Lawbéの木の前で止まった。
この木は、タンバクンダに行った時いつも気になっていて、いつか写真を撮りたいと思っていたので、ちょうど良いシャッター・チャンスだった。
ラウベ族の人たちは、木工の材料にこの木を用いる。
クサナール駅Koussanar:18時18分着/18時18分発
1914年4月11日、クサナール駅開業。
さっき食べた羊の肉を包んでいた紙や、食べ残したニワトリの骨などを窓から当然のように投げ捨てたのには驚いた。
コンパートメントに突然、「エイズ撲滅キャンペーン」チームが入って来て、アンケート調査が始まった。
質問は以下のようなものだった:
・エイズという病気を知っていますか?
・エイズは普段の生活では感染しないことを知っていますか?
・エイズは治療すれば治ることを知っていますか?
・エイズは避妊具をつければ防ぐことができることを知っていますか?
かつて、ザイール(現コンゴ民主共和国)で給水案件の調査をしていた時、親しくなった水道公社の担当者が、エイズで突然亡くなったのを知らされたことがあった。とてもショックだったことを思い出した。
列車がスピードを落とし、ゆっくり走り始めた。
この辺は、草が乾燥している乾季に「草原火災Feux de brousse」が頻発するので慎重に走っているのである。
「草原火災」とは、焼き畑農業でもなく、日本の野焼きでもない。
河川・森林監督局によると、「草原火災」の原因は不明なものが多いが、自然発火による火災ではなく、人為的な原因で起きた火災が多いと言う。
河川・森林監督局は人為的な原因を次のように説明している:
1.村人が畑の開墾およびトウジンビエの収穫の際に草原に火をつける。この作業は先祖代々から受け継がれているので、村人たちの考えかたを変えるのは難しい。
2.牛飼いや羊飼いが、タバコの吸い殻を火を消さずに草むらに捨てる。
3.家畜の移動の際に、暖を取るためにたき火をして、残り火を消さずに移動してしまう。
4.係争の復讐のため相手の土地に火をつける。
5.公共のプロジェクトに反対している住民が不満を表明するために火をつける。
6.羊飼いや牛飼いを自分の土地から追い出すために村人が草原に火をつける。
2023年に起こった草原火災は、12歳の少年が両親の留守にお茶を準備していて火災になったことが判明している。
河川・森林監督局の統計によると、年平均40軒ほどの草原火災があり、延べ50.000ha(東京ドーム約10.000個分)の面積が焼かれている。多い年は、250.000ha(東京ドーム約53.000個分)の面積が焼かれていると言う。
セネガルでは、この「草原火災」は、《生態系の破壊》、《環境および森林遺産の破壊》、《樹木の破壊》、《自然の再生を妨げる》、《動物の自然の家を破壊する》、《牛が食べる草を破壊する》など、ネガティフな現象として捉えられている。
対策として、防火帯をつくって火が広がらないようにし、防火林としてカシューナッツを植えることを奨励している。
阿蘇の草原は、「日本書紀」にも記述されていて、1000年の歴史がある「野焼き」が行われている。日本では野焼きは次のように肯定的に捉えられている。
・家畜に害を及ぼすダニの駆除に効果的で、草原を維持するために欠かせない。
・牛馬のえさとなる牧草を育てる。
・草原の美しさは、野焼きによって保たれている。
・野焼きをしないと、かえって草原が荒れる。草原が荒れ、ヤブになると生態系が崩れて野生の動植物だけでなく、阿蘇の生物と伏流水にも影響が出る。
どちらの論拠が正しいかは分からないが、セネガルの草原は、たとえ秋に焼かれても、翌年の春には緑のじゅうたんとなって甦っていることは確かである。
タンバクンダ駅Tambacounda :19時05分着/19時29分発 (19時05分/19時37分)
1915年2月17日、タンバクンダ駅開業。
外はすでに暗くなっていた。駅には照明が点き、都会の感じがした。
タンバクンダの名前の由来には次のような伝説がある:
18世紀、マンディング族のジャータ一族はファレメ川流域の居留民であったが、ブンドゥ王国の拡大に伴い追い出された。たどり着いた土地に、タンバという奴隷が住む粗末な小屋が一軒たっていた。ジャータ一族は歓待されたので、タンバに敬意を表し、その土地に《タンバの家》を意味する《タンバクンダ》という名前をつけた。
アジはここで降りたが、降りる前に、「夜は寝ない方が良い。列車の中は泥棒が多いから気をつけて」と言われた。息子のマリックに、⦅パインアメ⦆の残りを袋ごとあげたら、とても喜んでいた。
アジと息子は降りて行った。これからの彼女の人生を思い、僕は心の中で「幸せになって」とつぶやいた。
列車から降りて、「タンバクンダTambacounda」の駅名の看板の写真を撮っていると、駅長らしき男に呼び止められて、「誰が写真撮影を許可した?」と怒鳴られた。
「ダカールの駅長が、『ビデオはだめだが、写真撮影は良い』、と言っていた」と答えると、
駅長は「フィルムを没収する」と脅かしてきた。
僕が「どうぞ」言ってカメラを差し出すと、駅長は何も言わずに、事務所の方に行ってしまった。
お金目当てだったのだろうか?意外にあっけなく終わったので拍子抜けしたが、とりあえずホッとした。恐いのは向こうのペースでスパイにでっちあげられてしまうことだった。
寝台車に戻ったら、見知らぬ男の人がすでに寝台で寝ていた。
僕も寝台に横になって、煌々と明るい窓の外のホームを見ていた。
そのうちに列車はゆっくりと動きだし、外の景色は真っ黒な闇に変わった。
スピードが上がるにつれ、ガタン・ゴトンという車輪の音だけが大きく響き始めた。
男の人の足が、鼻がひん曲がるほどに臭かった。
蚊も活動を始めたらしく、羽音がかすかに聞こえてくる。
男の人はいびきをかき始め、気持ちよさそうに眠っていた。
アジが「泥棒がいるから夜は寝ない方が良い」と言っていたが、このような状況では、寝ようにも寝られない、と思った。
バラ駅Bala :21時30分着/ 21時32分
1921年10月1日、バラ駅開業。
車内の状況は全く変わらない。
車輪の音。足の匂い。蚊の羽音。そして、いびき…. 助けて!
グディリ駅Goudiry :23時10分着/23時18分発
1922年10月21日、グディリ駅開業。
突然、激しく雨が降り始め、雷が鳴り出した。
雨が激しく窓ガラスを叩きつけ、稲妻が光り、雷鳴が響きわたる。
隣の部屋から、キャーキャーと叫び声が聞こえてくる。
男の人のいびきも止まる。
通路の窓が開いているので、雨が入り込み、廊下が水浸しになった。
列車の係員が雨水を掃き出していた。
列車はスピードを変えず、速い速度で進んでゆく。
そのうちに車輛が縦にバウンドし始めた。バウンドというよりもむしろジャンプしている感じ。体が宙に跳ね上がり、寝台に叩きつけられる。この繰り返しが続く。
列車は減速するどころか、むしろ加速しているような気がする。
こんなに激しいバウンドでは、ひょっとして脱線するかも?とマジで怖くなってきた。列車の運転手が列車が跳ねるのを楽しんでいるのではないかと思うくらい、列車は乱暴に走った。この路線に脱線が多いというのはこの区間のことではないだろうか?
このままこのスピードで走っていたら、きっと脱線してしまうだろうと思った。
そのうちに列車のバウンドはおさまった。
列車の係員がコンパートメントに入って来て、パスポートを回収した。パスポートをゴミ袋のようなビニール袋に投げ入れていたので、ちょっと不安になった。
次の駅のキディラの国境警察で、パスポートに出国スタンプを押して返却してくれるとのこと。
ぼんやりとした不安を感じながら、車輪の単純な繰り返しの音を聞いているうちに、いつのまにか眠り込んでしまった。
10月19日
キディラ駅Kidira :1時37分着/3時13分発 (23時30分/0時10分)
列車が静かに停まって、僕は目が覚めた。
予定時刻より、1時間40分ほど遅れている。列車のバウンドが影響したのだろうか?
雨は止んでいる。窓の外から風にのってむっと草木の匂いがしてきた。
ここは国境の街だ。
ハッとして僕は飛び起きた。ここで出国スタンプをもらってパスポートを返してもらわなければならなかった。
窓の外を見ると、乗客が線路を歩いている。国境警察に向かっているのだ。
僕はすぐに通路を走り、列車から飛び降りた。
しかし、乗客の姿がもう見えなくなっていた。
まわりは真っ暗で、足元の枕木が歩きにくい。
ちょっと心細くなってきた。
しばらく歩くと、闇の中に小さな裸電球が見えたので、線路から離れてその方向に向かって歩いて行った。
裸電球の下にほの暗い通路があり、その両側にローソクを灯したおばさんたちが焼きトウモロコシを売っていた。ちょっと幻想的な光景だった。こんなに夜遅くまで、おばさんたちは生活のために頑張っているのだな、と思うと胸が熱くなった。
通路の奥には狭い部屋があって、乗客たちがガヤガヤ言いながら順番を待っていた。
国境警察の係官が、ひとりひとり名前を呼ぶが、まず、セネガルやマリなどのアフリカの国の人たちが先に呼ばれた。次にフランスなどのヨーロッパの国の人たちが呼ばれ、最後に日本人の僕が呼ばれた。
窓口にゆくと職業を聞かれた。職業を答えると、パスポートに出国スタンプを押して返してくれた。
ここで降りる乗客がたくさんいたようで、列車に戻る乗客が少なかった。
列車に乗る前に、「Kidira」と書かれた看板の写真を記念に撮った。
ここからセネガルの機関車からマリの機関車に変わった。
寝台車には、あの「足くさ・いびき」の男性が戻ってこなかったので、キディラ駅で降りたと思った。
車掌がやって来て、「次のカイ駅の国境警察で、入国スタンプをもらっておくように」と言われた。
誰もいなくなった寝台車には、車輪の音だけが響いていた。
そしてまた僕は深い眠りに落ちていった。
この灌木の樹液は白乳液で毒性があり、目に入ると失明するらしい。また、葉に向っておしっこをすると、陰部が腫れると言われている。気をつけましょう。
セネガルの村では家の周りの生垣に使用されている。
若木の間は、盆栽風に仕立てられ、西欧では、「BONSAI」として販売されている。