【伝統楽器】
言い伝えによると、セネガルに最初に太鼓が現れたのは、セレール族の女性たちが、日用品を打楽器のように叩いたことが始まりだと言われている。
例えば、近親者の死亡を知らせるために、村の女性たちが半割りのひょうたんを膝の上にのせて、それを木の棒で叩いていた。
太鼓は7世紀~8世紀に、シヌ地方で生まれ、重要な行事に関する情報を村人に伝えたり、警告したりする役目があった。
戦争が行われていた時代には、太鼓は兵士の出発や帰還を知らせるために演奏された。
戦いが終わると、兵士たちの帰還を知らせるために太鼓が叩かれた。太鼓のメロディーは戦況に応じて異なった。戦いに勝利した時は、陽気なリズムが演奏され、戦いに敗れた時には、悲しいリズムが演奏された。
今日では、太鼓は、魂の感動を表現するために演奏されている。そのため、結婚式、割礼の儀式、葬式などで太鼓の演奏は不可欠である。

(Wikipediaより転載)
シン王国の最初の国王となった、マイサ・ワリ・ジョンMaissa Waly Dion(1350~1420)は、隣国のガブー王国から一族郎党を率いて、セレール族の村にやって来たが、その際、「ソルバSorouba」の打楽器奏者たちも一緒に連れて来た。
「ソルバ」とは、
・《クトゥルビアKoutouriba》
・《クトゥルンデイングKoutourounding》
・《サバロSabaro》
という3つの太鼓のユニットで、3人で演奏する。
これらの太鼓は、その後、名前が変わり、《バルBal》《ツングニTounguni》《サバールSabar》と呼ばれた。
この《サバール》のリズムが、隣国のサルーム王国に広がり、そこからウォロフ族の移民によってウォロフ王国に伝わった。

(‘’Coin d’histoire / Mansa Waly Mané’’より転載)
シン王国では、「ランブLàmb」という太鼓が作られ、その後、「ジュンジュンJunjun」と呼ばれるようになった。

当初、ジュンジュンはシン王国の王様(Bour Sine)のためだけに打ち鳴らされていた。
毎週金曜日の早朝、王宮の中庭では、ジュンジュンの太鼓の音が鳴り響いたが、それは、王室会議の開催を知らせるためだった。
侵略者に対し戦争を開始する際も、ジュンジュンが打ち鳴らされた。
シンの国王は、他の王国を攻撃するために国境を越えることは一度もなく、隣接する王国と良好な関係を築くことに努力していた。
侵略者との戦争が長引きそうな場合は、シン国の王様は王室の太鼓を打ち鳴らさせた。太鼓を打ち鳴らすと、すべての勇壮な男達がすぐに集結し、敵を敗北させた。
セレール族に、「ヒーヌXiin」という太鼓があるが、この太鼓は、サルーム王国のンべガンヌ・ンドゥールMbégane Ndour国王(1493-1513)の時代に作られた。作ったのは、パルー・ンバジュ・ンジャParou MBadje Ndiayeで、ユネスコの「無形文化財」に登録されたサバールの名手、ドゥドゥ・ンジャイ・クンバ・ローズDoudou N’Diaye Coumba Roseの先祖である。
「ヒーヌ」は主に国王を称賛するために演奏されたが、結婚式、葬式、収穫祭、相撲の試合など、すべての儀式で演奏された。
(因みに、ヒーヌとはセレール語で「騒々しい音」と言う意味)
セネガルでは、セレール人が初めてヒーヌを使い始め、その後、ウォロフ族が受け継いだ。

(Wikipediaより転載)
太鼓について次のような言い伝えがある:
シン地方に、スンカル・マンデという男がいた。ある日、猟師で祈祷師のルール・ジョムと一緒に森に行き、木の幹と動物の皮を持って帰った。
村に着くと、スンカル・マンデは村人を集め、人々の前で太鼓を作り、「ンドゥルプNdouloup」と名付けた。太鼓の長さは3~4mで、音が最大限聞こえるようにするためには、足場を組んでそこに吊るす必要があった。
太鼓が村人の前に設置されたその日、スンカル・マンデがいなくなった。村人は彼を呼び出すために、「スンカル・マンデ、あなたを待っています」というリズムを、ンドゥルプで叩いた。このリズムがンドゥルプの最初の音となった。
しかしながら、このンドゥルプは、横長で重かったので人々に普及しなかった。
ゴロング・セーヌは、一般の人にも手に入るようにンドゥルプのサイズを小さくした太鼓を作り、太鼓に《ゴロング》という自分の名前をつけた。
王様が初めて「ゴロングGorong」の音を耳にした時、それが新しい太鼓だと知った。そこで王様は、「毎朝この太鼓の音で起こして欲しい、夜は寝床に着く時に、太鼓を鳴らして欲しい」と頼んだ。
王様が亡くなると、長男のニョコール・セーヌNiokhor Sèneがやって来て、「太鼓Tam-Tamを引き取ります」と宣言した。それ以来、シン王国では、ゴロングを「ラムLam」と呼ぶようになった。セレール族が多いこの地方では、《バルBal》《ツングニTougouni》《フールHour》という太鼓があるが、《Hour》はジョラ族の《ボンボロンBonbolong》に似ている。
セネガルのリズムは、シヌ地方のリズムに由来している。最初のリズムはシヌ地方で演奏され、最初のグリオが現れたのもシヌ地方である。
「ツングニ」や「サバール」も典型的なセレールの言葉である。
その後、「サバール」が出現した。サバールは、
「ランブまたはチョ―ル」
「ゴロング・タル・ンバットゥ」
「ンブンブン」
「ンデール」
「ゴロング・ンババス」
の太鼓で編成・構成されている。これらの太鼓は、状況に応じて名前が変わった。
アフリカの社会では、楽器は古来より重要な役割を果たしてきた。「楽器は、精霊によって人間にもたらされたものである」という神話がある。従って、楽器に触れることができるのは、限られた一部の人間だけだった。それが、「グリオGriot」「ゲウェルGéwél」「ジャリDjeli」などとよばれる、世襲制の伝統音楽家である。
文字のないアフリカ文化においては、グリオの役割は重要だった。歴史を歌という形で伝え、儀式を司り、音楽で病気を治したり、時には呪いをかけたりすることもできる彼らは、尊敬され、また恐れられていた。そして偉大な王は、楽器の力、精霊の力を借りることによっていくさに勝ったり、民を統治することができた。王様は王子が生まれると。必ず1人の優秀なグリオを彼につけた。グリオは彼に付き添い、終生彼を助けることになった。
(『African Music 』Sabar Paradiseより引用)
グリオの家庭では、子供の頃から、異なったリズムとその意味を習っている。そのリズムに対する愛が彼らの血の中に宿っている。
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