子供たちがボールを蹴りながら、走って来る車の間をすり抜けてゆく。
路上にゴミ箱のゴールを並べ、ボロ布を丸めたボールを相手と必死に競い合う。
これは、セネガルのいたるところで見られる風景です。
2002年の日韓ワールドカップでは、初出場のセネガル代表(世界ランキング44位)
が、開幕戦の初戦で、当時世界ランキング1位のフランス代表と戦いました。
フランス代表は、世界的スーパースター、ジダン、セリエAの得点王トレゼゲ、プレミアシップ得点王アンリ、フランスリーグ得点王シセ、ビルトルド、ビエラなど、ヨーロッパのリーグの得点王3人を擁する、そうそうたるメンバーでした。《堅実な守備》と、《組織プレーと個人プレーのバランスの取れた攻撃》が身上で、前回のW杯フランス大会で初優勝し、2000年の欧州選手権に勝ち、2001年のコンフェデレーションズカップも制していました。
その勢いに乗って、フランスは2002年の日韓ワールドカップを制する最有力候補に挙げられていました。
一方のセネガルは、《出ると負け》的な弱小チームで、過去のW杯予選の成績も惨めなものでした:
1930年:アフリカ地区予選敗退
1934年:アフリカ地区予選敗退
1938年:不参加
1950年:アフリカ地区予選敗退
1954年:アフリカ地区予選敗退
1958年:アフリカ地区予選敗退
1962年:アフリカ地区予選敗退
1966年:辞退
1970年:アフリカ地区予選敗退
1974年:アフリカ地区予選敗退
1978年:アフリカ地区予選敗退
1982年:アフリカ地区予選敗退
1986年:アフリカ地区予選敗退
1990年:アフリカ地区予選敗退
1994年:アフリカ地区予選敗退
1998年:アフリカ地区予選敗退
そして、2002年、セネガルは日韓ワールドカップで初めて本大会に出場することができました。
その第1戦がフランスVSセネガル。正に《巨人と子供の戦い》と人々は予想していました。
しかし、いざふたを開けてみると、セネガルはフランス代表チームに1対0で勝ち、セネガル国民を歓喜させました。この驚きの大金星は、セネガルサッカーを一躍有名にさせ、サッカーの歴史に燦然と名を残しました。この《世紀の番狂わせ》は、今でも語り草になっています。
セネガル代表の活躍はそれだけでは終わりませんでした。
フランスを破った後、さらに快進撃を続け、ワールドカップ初出場で決勝トーナメントに進み、何とベスト8にもなりました!
セネガルの人々には、《テランガTeranga》という精神があり、セネガル代表の愛称も《テランガのライオン》です。「テランガ」とは、日本流に言えば、「おもてなし」という意味です。相手をやさしく受け入れるその国民性が影響しているかどうかは分かりませんが、かつては、セネガルチームは、おとなしい、温和なイメージのプレーで、アフリカ・ネーションズ・カップで優勝争いなどできるチームではありませんでした。
そんな弱小チーム、セネガルが、なぜフランスに勝つことができたのでしょうか?
セネガル代表の道のりを辿ってみたいと思います。
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Le présent texte ” Football sénégalais est dédié au défunt Monsieur Papa Bouba DIOP qui nous a laissé un merveilleux souvenir du Football sénégalais.
(本稿を、セネガルサッカーの素晴らしい思い出を残してくれた、亡きパパ・ブバ・ディオップに捧げます)
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【セネガルサッカー 1/2】
セネガルにサッカーが伝わったのは、第一世界大戦(1918年)と第二次世界大戦(1939年)の間に、植民地時代のフランス人兵士たちの運動不足の解消とレクレーションの一環として、ダカールとサン・ルイの駐屯地で行われたことに始まる。セネガルの人たちはそれを見て大いに熱狂したという。
フランス軍の駐屯地では、原住民のセネガル人も加わってサッカーが行われたが、人種隔離主義的な風潮が強かった。
1919年、ダカールの商工会議所の会頭、ジャン・ルイ・チュルベJean Louis Turbéが、商社の社員を中心に、「ダカール・ストライカー・スポーツ・クラブ(USTD」を正式に設立した。そのクラブの中には、アフリカ人で最初のサッカー選手になった、アマドゥ・ミックス・ゲイAmadou Mix Guèyeもプレーしていた。
当時、ダカール、リュフィスク、ゴレ島、サン・ルイの4つのコミューヌの住民たちは、フランスの市民権を得ていたが、実際は軽蔑的・差別的扱いを受けていた。
サッカー界では、人種隔離主義は一部解消していたものの、人種差別は依然続いていた。
例えば、フランス人とセネガル人の混合試合では、大部分がフランス人で構成されている軍人チームは、写真が無くても身分を証明する簡単な紙切れを提出するだけでプレーできた。しかしセネガル人選手の場合は、試合前に顔写真付きの身分証明書を本人自身が持参し、顔を見せて提示しなければならなかった。
1921年9月、フランス人のル・コック神父がセネガル人チーム「ジャンヌ・ダルク」を設立。
1929年7月、アマドゥ・ミックス・ゲイの提案により、セネガル人だけの最初のクラブ「セネガル人スポーツクラブ」が設立され、1933年にUSゴレ・クラブが設立された。
1933年、ジャン・ルイ・チュルベにより「スポーツ連盟委員会」が設立。
1936年、この委員会の会合で、アマドゥ・ミックス・ゲイは「セネガル人選手は、西アフリカ総督杯の試合に参加できない」と通告を受けた。
これに強い不満を抱いたゲイは、休憩時間を利用して、会合に出席していた西アフリカ総督に直談判をした。総督はゲイの要求を受け入れ、すべての選手が西アフリカ総督杯の試合に参加できることを約束した。
1950年代、《ナベタンヌNavétane》がスタートする。ナベタンヌは、バカンス時期に、地元の町や村のアマチュア・サッカー・クラブ間で開催される伝統的なサッカー対抗試合で、庶民に人気がある。欧州のクラブで活躍している選手はここでプレーをして、スカウトされたケースが多い。
尚、ナベタンヌという言葉は、バカンス時期がちょうど「雨季」にあたるため、「雨季」を表すウォロフ語の「ナウェトNawete」に由来する。
フランスの植民地から独立した1960年、セネガルサッカー連盟FSFが創設された。
植民地時代にアフリカ人として最初にフランスのサッカー代表に選ばれたラウル・ジャンニュRaoul Diagne を中心に、FSFは第一歩を踏み出した。(注:ラウル・ジャンニュは、アフリカ系として初めてフランスの下院議員となったブレーズ・ジャーニュの息子)
1964年、FSFは国際サッカー連盟(FIFA)並びにアフリカサッカー連盟(CAF)に加盟した。これにより、ワールド・カップやアフリカ・ネーションズ・カップに参加できることになった。しかし、1966年のW杯イングランド大会では、割り当てられた出場枠への不満から、アフリカ諸国がFIFAに抗議をするが却下された。そのため、アフリカサッカー連盟の全15チームが参加を辞退した。
1965年のアフリカ・ネーションズ・カップに初参加しベスト4という好成績を残した。
1970年のW杯メキシコ大会ではアフリカ予選で敗退。
1986年のW杯メキシコ大会のアフリカ予選では、セネガルチームは、ジュール・ボカンデ、ティエルノ・ユム、ブバカル・サールといったスター選手たちを集めたが、予選で敗退し、ワールドカップ本大会には出場できなかった。
それが当時のセネガルサッカーの状況だった。環境は悪く、組織を欠き、リーグのレベルも低く、ヨーロッパ中堅国の2部リーグ程度だった。
セネガルは目だった活躍もなく、アフリカでもサッカー弱小国という位置づけだった。
セネガルサッカーが注目され始めたのは、1990年代以降である。
特に、1990年~2006年の期間に、アフリカ・ネーションズ・カップで4回準々決勝に進出している。
2000年秋、前任者のドイツ人監督ピーター・シュニットガーを引き継ぎ、ブリュノ・メツがセネガル代表監督に就任した。
メツ監督の就任後、2002年の日韓ワールドカップのアフリカ地区予選では、セネガルはまったくのノーマークだったが、モロッコ、エジプト、アルジェリアの強豪揃いの一番の激戦区だった最終予選C組を勝ち抜いてW杯本大会出場を果たした。
W杯出場を決めた後、セネガル代表は、本大会に向けて準備を進めていた日本と親善試合を行い2対0で勝利した。その1ヶ月後に行った韓国との試合にも勝利した。
メツ監督は、「アジア初のW杯で、セネガルが旋風を巻き起こす」と約束し、1998年フランス大会で《レゲエ・ボーイズ》ジャマイカが引き起こした熱狂ぶりを引き合いに出し、自らのチームを《ニュー・ジャマイカ》と呼んだ。
セネガル代表は、洗練された組織プレーと個々の技術の高さがかみ合い始めていた。最終予選の8試合で2失点しか許していない堅い守備も、アフリカ勢の中ではトップクラスだった。セネガル代表は着実に進化していた。
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