ンドンゴ・ロー

《エピソード》

ンドンゴ・ローは文字が書けなかったので、作詞した歌詞を書き留めることも、作った曲を採譜することもできなかった。スタジオでマイクを使って歌い、録音して作詞をし、バンド仲間にギターやキーボードで音を出してもらって作曲をした。また、親友のニャンベの話しによると、ンドンゴ・ローは、初めて曲を仲間に披露する時には、すべての詩と曲がすでに彼の頭の中に出来上がっていて、2回、3回と歌っても歌詞と旋律が変わることが無かったという。

また、元マネージャーのDjily Niangは次のように証言している。

「ンドンゴ・ローは、アルバムをつくるのが早かった。最初のアルバム『NDOORTEL』は1日でつくった。彼がアルバムをつくる間、私は何も心配することはなかった。というのも、アルバムが完成する時は、いつも内容の良いものが出来ていたからだ。

忘れられない思い出がある。ある大きなセネガル相撲の試合が行われた時、ンドンゴ・ローが歌を歌って試合を盛り上げるというイベントがあった。その公演を10日後にひかえ、彼は突然病気に倒れ入院をした。ベッドの中から彼は私に契約書にサインをするよう強く求めた。『あなたが病気だから契約はできない』と私が答えると、『それはだめだ。契約書にサインをしてお金を持って来てくれ。僕は必ず歌う。10日後に羊祭りがあるので、僕は親戚の人達に羊を配らなければならないのだ』 と訴えた。ベッドの中では声はか細く、動くのも精いっぱいだった彼は、ひとたびステージに上がると、奇跡的な歌声で観客を魅了した。

ンドンゴ・ローは、貧しい人達を心から支えていた。そして収入の少ない若いシンガー達を将来助けてやりたいというのが彼の夢だった…」

《最後のコンサート》

ンドンゴ・ローはヘビ―スモーカーだった。2004年、医者から「肺がん」と診断され、「歌とダンスは止めるように」と宣告されていた。ある日、親友のンジャンベと友達2人と共に、Diamnadioに住む有名な祈祷師を訪れた。祈祷師はンドンゴ・ロー達に銃を撃つよう指示をする。祈祷師によると、「ピストルを撃ってその銃声が聞こえない人には不幸が訪れる」と予言した。

ンドンゴ・ロー達は直ちに田舎に行きピストルを撃つが、ンドンゴ・ローは引き金をひいても弾が出なかった。他の友達は、すべての弾を打ち銃声を聞いた。ンドンゴ・ローは不吉な兆しを感じ、何もしゃべらなかったという。

その後、ガンビアでコンサートがあった時、コンサート開演前に、マラブー(イスラム教の導師)に会いに行った。この導師は、ンドンゴ・ローを丹念に見た後、関係者だけを呼んで、「あの人は近いうちにお亡くなりになります」と告げた。

ンドンゴ・ローはコンサート中、「すごく疲れた」と弱音を吐いたが、どうにかコンサートをやり遂げ、セネガルに戻り、両親がいるToubaに行った。しかし、体調不良で突然倒れ、ダカールのクリニック・カザウスに緊急搬送され手術を受けた。その後、治療のためHôpital Principalに移送されたが、医者から「歌とダンス」を厳重に禁止された。しかし、手術の2ヶ月後、ンドンゴ・ローはコンサートを再開し歌い始める。1月初旬の金曜日、いつものようにYengouleenでコンサートを開いた。コンサートは午前2時頃から始まったが、3時頃、休憩を取りに楽屋に戻って来たンドンゴ・ローは「疲れた」と言って、突然泣き出した。ンジャンベはマネージャーと相談をし、コンサートを中止しようと提言した。すると、ンドンゴ・ローが「この前、手術をしてブランクがあった時、僕が麻薬や酒におぼれているという噂がたった。今、ここでコンサートを止めたらその噂を肯定することになってしまう」と言って渾身の力をふりしぼってコンサートをやり遂げた。ンドンゴ・ローにとって、また、ファンにとっても、これが最後のコンサートとなった。

次の日の土曜日、サン・ルイの街で親戚の息子の命名式に呼ばれていたンドンゴ・ローは奥さんのAdjiと一緒に行く予定だったが、体調が良くないので、代わりにンジャンベに行ってもらった。土曜日の夜、ンジャンベがンドンゴ・ローに電話をし、体調が良ければサン・ルイに来ないかと誘ったところ、知人に車を運転させサン・ルイに午前3時にやって来た。翌日曜日、ンドンゴ・ローは命名式に出席し、ンジャンベとAdjiと一緒にサン・ルイの街を散歩した。その夜はHotel Coumba Bangに宿泊したが、ンジャンベによるとこの日のサン・ルイの一日がンドンゴ・ローにとって最高に幸せな日だったらしい。月曜日、ンドンゴ・ローはンジャンベにAdjiをダカールに連れて帰ってもらうよう頼み、自分はガンビアの国境近くのKalan に行った。ここにはELTONのガソリンスタンド経営者である姉の夫の社宅があり、ここでしばらくゆっくりと休養をすることにしていた。火曜日にンジャンベに電話をし、着替えの服を持って来るよう依頼をする (次回1月末に予定されていたタバスキのコンサートが大変気になっていたらしい)。木曜日頃から状態が悪くなり、金曜日にダカールに戻って来る。土曜日にCastol地区のクリニックCroix Bleuに行き診察してもらい家に帰る。翌日曜日、朝7時頃、様態が急変し重体になる。直ちに救急車でクリニックカザウスに運ばれるが、2005年1月16日16時、静かに息を引き取った。享年30歳。

ンドンゴ・ローが埋葬されているToubaの墓

《証言》

今でも根強い人気があるンドンゴ・ローはどのような人だったのか。親友のンジャンベと奥さんのアジに筆者がインタビューを申し込んだところ、快く受け入れてくれ、貴重な話しをしてくれた。

ンジャンべの話

「ンドンゴ・ローは僕より1つ年下だったけど、彼は会う人にはいつも『僕の双子です』と紹介していました。彼とは一身同体で、コンサートにも、スタジオでもいつも一緒でした。マネージャー以上に一緒に入る時間が長かったんだ。同じ通りに生まれ、子供時代いつも一緒に遊んでいました。音楽の世界で活動していることを父親からいつも非難されたので、ンドンゴ・ローは僕の家に居候していたんだ」

「彼はお母さん思いで、初めて稼いだコンサート料で、母親に寝室用のベッドやタンスや大鏡を買っていました」

「彼は常日頃、『人生において大切なことは、自分のために、そして、他人のために良い事を行うことだ。』と言っていました」

「奥さんのアジのことを歌った『Jakarlo』のエピソードをお話しします。

ダカール大学近くのライブハウスAlizéで夜の演奏を終え、僕が運転する車で家に帰る途中、雨が降り出した。すごい集中豪雨で道路はみるみるうちに冠水し、車が深い水たまりの中でエンストを起こしてしまったのです。車の中には、知り合いの女の子が二人乗っていたが僕はパンツ一枚になり、女の子二人を車から降ろし、激しく雨が降る中、車を押させた。ンドンゴ・ローは車の中にいて外に出て手伝おうともしなかったんだ。奮闘の末、やっとエンジンがかかり車が動き始めると、彼は「曲ができたよ」と言って出来たばかりの「Jakarlo」を歌い始めたんだ」

「後日、ンドンゴ・ローが僕に『あの夜、大雨の中で、突然、空から、歌詞と曲が僕のところに舞い降りてきたんだ』と打ち明けてくれたのです」

アジの話

「すぐかっとなり怒りやすい人でした。でも後までひくことはありませんでした。やさしい人でした。コンサートで得たお金は、バンド仲間に配ってしまい、自分の取り分が無いこともありました」

「毎年、ラマダンの月になると砂糖を大量に買い込み、車に乗って、ダカール中のモスクを回り砂糖を配っていました」

「彼の好きな食べ物はマフェ、夢は大金持ちになること(暗い表情だった奥さんの顔に、この時初めて笑みがこぼれました)」

「彼はいつも何か歌を歌っていました。Youssou N’Dourが好きで、何度か彼のアルバムに参加しています」

「彼の最後の言葉は今でも思いだします。
『Adji, 僕のところにおいで。僕は死ぬんだ。ゆるしてくれ』と言って泣きました。そして『Lahilaha ila La Allahou Akbar (アラーフのほかに神はなし。アラーフは偉大なり)』と呟き、息を引き取りました」

Ndongo Lôの遺体はToubaに運ばれた。当日、20万人の人々が沿道を埋め、彼の死を悼んで泣き悲しんだ。その中には、セネガルの3大シンガーの一人、イスマエル・ローや当時の国務大臣、内務大臣、国会議長そして当時の大統領の奥さんのViviane WADEも参列していた。

「人生では、始めは何も得られなくても、最後には必ず何かを成し遂げることができる」という夢を現実にしたンドンゴ・ロー。セネガルの若者達のシンボルだった。

彼が生まれたPikineの町の人々は、ンドンゴ・ローを誇りに思い、その若すぎる死を今でも悼んでいる。

「ンドンゴ・ロー、あなたは地上における任務を記録的な速さで遂行しました。神の御加護の地Toubaで心安らかにお眠りください。Pikineの子、ンドンゴ・ローは、偉大でした。人々から愛され、すべての人を受け入れ、あなたが所有していた物と知を、望む人に分け与えました。あなたの素晴らしい仕事の成果は、私達の記億にずっと刻まれます。あなたは、永遠に私達の心に中に生きています。Bougnouko Faté di Nianal (彼のために祈ることを忘れないで)」

(アルバム『WEET』の献辞より)

筆者はセネガル滞在中、ほとんどのシンガーのコンサートに足を運びましたが、ンドンゴ・ローのコンサートにだけは行く機会に恵まれませんでした。彼の歌声を直接聴いてみたかった。それができなかったことが心残りです。

在りし日のンドンゴ・ローとAdji

次のページでンドンゴ・ローの歌詞の和訳を掲載します。

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