セネガルの現代美術 1/5

アフリカの原始美術(仮面や彫刻)が、ピカソ、マチス、デュフィ、モディリアーニ、ジャコメッティなどに深い影響を与え、キュビスムの原動力となったことはよく知られています。

フランスの作家、アンドレ・マルローも、その著『空想の美術館』で、アフリカ美術とキュビスムを結びつけ、「ピカソは、黒人美術が意味を持っていることに気付いた最初の画家である」と述べています。

このように西洋のアーティストたちに大きな影響を与えたというアフリカの仮面や彫刻が、セネガルにもあるのか文献を探してみました。しかし、不思議なことに、セネガル独自の仮面や彫刻は全く見つけられませんでした。

「何故、セネガルではセネガル独自の仮面や彫刻が存在しないのか?」

いろいろな文献に当たっているうちに、ダカールの街の古本屋で見つけた、ケベック美術館発行の「セネガル現代美術展」のカタログに、次のような記述がありました:

『セネガルの独立以前に原始美術が不在であった理由は、かつてのイスラム化の中で、コーランの教義に基づき偶像が厳しく禁止されたこと、また、フランスの植民地政策において、ヨーロッパの個人コレクターや美術館の収蔵品を充実させるため、アニミストや祖先が保有していた仮面・彫刻を強制的に接収したことによる』(筆者訳)

セネガルの彫刻家ムスタファ・ディメも、インタビューの中ででこう指摘しています:

「セネガルに存在していたすべての偶像は、9世紀にイスラムによって一掃されました。すべてが取り壊されたのです。セネガルには、この時代を想起させるものは何もありませんが、隣国のマリやギニアには残っています。セネガルは地理的に条件が良くなかったため、すぐにイスラムに征服されてしまったのです。サハラ砂漠を超えて最初に現れる国がセネガルだったからです。宗教と植民地支配が、セネガルの文化の起源を破壊してしまいました。セネガルの民族の伝統文化が存続することは受け入れられなかったのです」(筆者訳)

一方、違う視点で書かれた文献もありました。

ダカール大学ブラック・アフリカ基礎研究所助教授のアブドゥ・シィラ氏は、『セネガルの現代造形美術』で次のように述べています:

「西洋の知識人たちは、セネガルの人々は絵や彫刻を造らなかったと言い切ってしまい、カザマンス地方や東セネガルなどのものや、ジョラ族、バイヌンク族、マンカーン族、マンジャック族、コナージ族など、あまり、または、まったくイスラム化されていない少数民族や周辺民族のもの以外には、古いオブジェがあったことや、絶えざる彫刻の伝統があったことには触れなかったのである …..
セネガルの人々は、かつては造形的伝統を非常によく知っていたし、実際に仮面や彫刻を造ってもきたが、その後、トゥクロール族、ウォロフ族、ソニンケ族などの諸部族では、イスラム教とキリスト教による禁止とエスノサイド(文化破壊)のために消失し、一方、ジョラ族、セレール族、マンカン族、マンジャック族、バサリ族などの部族では、今も営まれている古代の儀式のお陰で生き残っている」

この説明によると、ジョラ族などの少数民族の仮面や彫刻が存在しているようですので、アフリカの美術書をいろいろと調べてみましたが、やはり見つけることはできませんでした。

次に、アフリカの仮面や彫刻を売っているアンティークの店を回ってみました。しかし、コートジボワールやマリなどの周辺国のものしかなく、セネガルのものは皆無でした。

アンティークの店

セネガル南部のカザマンス地方で見た、男子割礼の儀式の際に現れるマンダング族のカンクランは、人間の形を偽装した霊です。顔は樹皮の中に埋没し仮面らしきものはありません。

カンクラン

バサリ地方のブディック族の儀式にも立ち会いましたが、村人の男達の仮面は、仮面というよりも《顔を覆う布》という感じでした。

バサリ族の儀式の仮面
バサリ族の儀式の被り物
ブディック族の儀式

ダカール美術博物館に行ってみると、セネガルの仮面が3点展示されていました。

1つ目は、ジョラ族の《エジュンバEjumba》です。これは、若者のイニシエーションの儀式の際、ダンサーがかぶる仮面のようですが、むしろ顔・体・手足全体を覆う衣装のようです。

エジュンバ
(『Musée de Dakar』より転載)

2つ目は、同じくジョラ族の《サマイSamaï》です。この仮面は、厳密には隣国ギニア・ビサウのビジョゴ族の仮面の形を借りたもので、セネガル独自の仮面ではないようです。

サマイ
(『Musée de Dakar』より転載)

3つ目もジョラ族の《クンポKumpo》ですが、これを身に付けて夜通し踊り、呪術師を追い払うようです。これもむしろ仮面というより、衣装に近いと思います。

クンポ

こうしてみると、セネガルの仮面・彫刻文化は、ウォロフ族のいるセネガル中部地方やソニンケ族のいる北部では、宗教と政治に完全に潰され、跡形もなく姿を消してしまっているようです。かろうじてセネガルの南部の地方だけで、細々と受け継がれているようですが、全体的には、かつて栄えていた仮面・彫刻文化は大きく衰退してしまっていることは事実です。

(因みに、マリのドゴン族は、かつてはマリ西部の平地に住んでいましたが、セネガルと同様イスラム勢力が強大で、その侵略から逃れるため、マリ中央部のバンディアガラ山地に移り住みました。そして伝統の儀式を受け継ぎながら、仮面や彫刻を守り続け現在に至っています)

こうしてみると、セネガルの美術は1000年以上に亘り、廃れていた思われます。

しかし、セネガルの独立後、サンゴール大統領は「ネグリチュード運動」(黒人性運動)の一環として、新生独立国としての威信を賭けた「世界黒人芸術祭」を開催し、《セネガルの美術》を《セネガルの現代美術》として生き返らせたのです。

【セネガルの現代美術  1/5】

セネガルの初代大統領で、詩人であり、アカデミー・フランセーズ会員でもあった、レオポール・セダール・サンゴールは、セネガル美術の1000年以上の「空白」を嘆いていたかもしれない。

そのため、独立国家になることを契機に、セネガル独自の新しい美術を創造し、発展させることを強く望んだ。

レオポール・セダール・サンゴール(Wikipediaより転載)

サンゴールは、まず、パリ留学中に知り合ったエメ・セゼール提唱の「ネグリチュード運動」をセネガルで展開する。

(注:「ネグリチュード」は、「エメ・セゼール」の造語で「ネーグルNègre(黒人)+イチュードitude (性質・状態)」=「黒人性」と直訳される)

セゼールによると、「ネグリチュードとは、黒人であるということの単純な認識であり、また、この事実や、黒人としての私たちの運命や、私たちの歴史や、私たちの文化を受け入れること」であるという。(筆者訳)

但し、セゼールは、「『ネグリチュード』という言葉が、1930年代と1940年代の歴史的文脈において使われていない場合、『分断の概念』になる危険性がある」と指摘している。(筆者訳)

また、サンゴールによると、「ネグリチュードとは、黒人の生活、制度、芸術作品で表現されているように、黒人世界の文化価値の全体である。それが現実であり、現実との結びつきである」と述べている。(筆者訳)

(う~ん、ちょっと難しい。)

《第1回世界黒人芸術祭への道》

パリにある雑誌社《プレザンス・アフリケーヌ》のセネガル人ディレクター、アリウーヌ・ジョップAlioune Diopは、1956年、ローマで「黒人作家会議」を主催し、その中で、「世界黒人芸術祭」の開催を提案した。

1960年、セネガルが独立し、サンゴールが初代大統領に任命されると、ジョップは、芸術祭をセネガルで開催することを提案した。

サンゴールは、その提案を受諾し、まず才能ある画家を養成することから始めた。そして、以下のような時系列を経て、「第1回世界黒人芸術祭」を成功させ、アートによるネグリチュード運動を完結させた:

フランスの植民地時代の1948年、「ダカール芸術学校Conservatoire de Dakar」が創設された。この学校から、舞台俳優のダニエル・ソラノ(ダカールのソラノ劇場は彼の名前が由来となっている)と映画俳優のドゥタ・セックが卒業している。

隣国のマリと《マリ連邦》が結成されるのを機に、1958年に「マリ芸術会館Maison des Arts du Mali」と名称が変更された。

サンゴールはまず、イバ・ンジャイIba N’Diayeをダカールに招聘する。

イバ・ンジャイは、パリの美術学校を卒業し、パリで画家として活動していた。1959年にサンゴールに招聘されてダカールに戻ると、マリ芸術会館に「造形美術科Section Arts plastiques」を新設し、美術教師として自ら造形美術を教えた。

次にサンゴールは、パパ・イブラ・タルを芸術会館に招聘する。

パパ・イブラ・タルPapa Ibra Tallは、パリの建築学校を卒業後、芸術教育の学校で勉強を続け、1959年に教師の資格を取得した。サンゴールの招聘を受け、1960年にダカールに戻った。同年、《マリ連邦》が解体されると、「マリ芸術会館」は、「セネガル芸術学校Ecole des Arts du Sénégal」と名称が変更され、パパ・イブラ・タルは、「黒人造形美術研究科Section de Recherches plastiques nègres」を新設し、生徒の指導に当たった。

(「セネガル芸術学校」は、1961年に「ダカール美術学校Ecole des Beaux -Arts」と改名。1972年に「国立芸術学院Institut National des Arts」と名称を変更し、1979年に「国立美術学校Ecole Nationale des Beaux -Arts」と改名し、現在に至っている)

次にサンゴールはピエール・ロッドPierre Lodsに白羽の矢を立てる(良い意味で)

ピエール・ロッドは、1951年、コンゴ共和国のブラザヴィルで絵画教室を開いていた。彼の教育方針は、《黒人は生まれながらにして創造的である》というもので、生徒には、何の制約も設けず、芸術的な規則も課さず、技術も強制せず、彼らが思うままに自由に絵を描かせた。生徒たちの絵は海外で評価され、《エコール・ド・ポトポト》の名前で有名になった。

ピエール・ロッドの評判を聞いたサンゴールは、持論である《アフリカ黒人の情動性、感性、直観》の見解が、ロッドの教育方針《黒人の自発的創造性の尊重》と一致していることを認識し、ネグリチュードの精神を美術の分野で証明できると確信した。

1961年、ロッドはサンゴールに招聘され、パパ・イブラ・タルの補佐役として生徒の指導に当たった。
(ロッドは、自分の指導方法を《無秩序》と非難するパパ・イブラ・タルとしばしば対立し、サンゴールも仲裁に入ったことがある。ロッドはメディナ地区にあった自分の家をアトリエに改造し、そこで授業をおこなったという)

最後に、サンゴールは、1963年にダカール美術学校に「彫刻科」を新設し、ベルギーの美術学校で近代彫刻を学んでいた、アンドレ・セックAndré Seckをダカールに呼び、彫刻の指導に当たらせた

1966年3月31日、芸術祭の会場となる、ダイナミック美術館がスンベジュムにオープンした。ぎりぎりではあったがこれで準備万端ととのった。(サンゴール自慢のこの美術館は、1990年、アブドゥ・デュフ大統領の政権下で突然、最高裁判所の建物となった)

ディナミック美術館

そして、1966年4月1日、《黒人の尊厳の回復》をスローガンに、第1回世界黒人芸術祭が開始された。

芸術祭オープンの日

作家で、当時フランスの文化大臣だった、アンドレ・マルローやネグリチュードの提唱者、エメ・セゼールも招待された。芸術祭を最初に提案したアリウ―ヌ・ジョップは芸術監督を務めた。

資料を見るマルローとサンゴール

アンドレ・マルローは、芸樹祭の開会式で、サンゴールと対話式の歴史的スピーチを行い、次のように述べた:

「我々は今歴史の中にいる。国家元首が初めて大陸の運命を手中に収めている。ヨーロッパでも、アジアでも、アメリカでも、国家元首が、《精神の未来》について言及したことは今まで一度もなかった。我々は共にそれを定着させよう。
アフリカの芸術的な遺産は、ギリシャ・ローマの美の規範を破壊し、より古い太古の時代を現代に取り戻すうえで、大きな貢献を果たした」(筆者訳)

芸術祭では、ダカールの美術学校の生徒たちの作品も多く展示された。また、ぎりぎり間に合った新築のディナミック美術館では、アフリカ各地やヨーロッパ、アメリカの博物館や収集家から集められた、アフリカの伝統美術・工芸品の逸品約500点が展示された。

1966年4月3日付のフランスの新聞「ル・モンド」は、芸術祭を「現代美術 ‘’傾向と対決:エコール・ド・ダカールが導いた神々の出会い」という見出しで絶賛し、美術学校の生徒たちの活動を、記事の中で初めて「エコール・ド・ダカール派」と呼んだ。

(訳注:1920年代にパリで活動していた画家たちを「エコール・ド・パリ」と呼んでいたが、それにちなんで付けた名前と思われる)

アンドレ・マルローは、芸術祭の期間中、「セネガルには、世界的規模の才能があるアーティストが10人いる」と述べた。その10人の中に、イブー・デュフやモドゥ・ニャンが含まれていた。

芸術祭の最終日、「アール・ネーグル(黒人芸術)大賞」を受賞したのは、コートジボワールの彫刻家、クリスチャン・ラティエだった。作家賞は、セネガルの歴史家、シェイク・アンタ・ジョッとネルソン・マンデラ。映画部門のグランプリは、センベーヌ・ウスマンの『黒人女性(La Noire de…)』だった。

芸術祭は、同年4月24日に幕を閉じた。37ヶ国100人以上のアーティストが参加し、入場者は約2万人だった。

ダカールはサンゴールが長い間夢みていた、《アフリカのギリシャ》となった。

アフリカの伝統的な仮面や彫刻の力に頼ることなく、セネガル独立後に育った芸術家たちの新しい美術作品が、全世界の人々に示された。

約1000年間の「セネガル美術の空白」は、時空を超えて、彼らの作品で埋められることになったと言える。

芸術祭が成功裡に終わると、イバ・ンジャイは、「ダカールでは、私は単なる公務員だった。私は公務員を辞め、完全な画家になり、自由になることを選ぶ」と言ってフランスに戻って行った。

パパ・イブラ・タルは、ダカールの北部の地方都市チェスに設立された《国立タピスリー工房Manufacture Nationale de Tapisserie 》の所長となった。

ピエール・ロッドは美術学校に残り、引き続き画家の育成にあたった。

国立タピスリー工房は、もともと、《エコール・ド・ダカールの芸術復興運動の一環として》、フランスの特別援助を受け、1964年、美術学校の《黒人造形研究科》内に、タピストリーの実験的アトリエが開かれたのが始まりである。そして、ママドゥ・ワドゥMamadou Wadeなど4人の生徒が、フランスのゴブラン・タペストリー工場に派遣され、タペストリーの技術を習得した。

その後、アトリエは1965年にチェスに移転し、翌年の1966年12月4日、《国立タピスリー工房》として公式にオープンした。サンゴールは開館式で、次のような有名なスピーチを残している:

「この工房のタペストリーは、新しい国家のための新しい芸術である」

パパ・イブラ・タルは美術学校を辞め、工房の初代所長に就任した。

1973年、工房は「セネガル装飾美術工房 Manufactures Sénégalaises des Arts Décoratifs (MSAD) 」と改名し、現在に至っている。

タペストリーは高級品で、1平方メートル百万FCFA(約20万円)と言われている。

ピカソのタペストリー『ゲルニカ』がある国連本部には、セネガルが寄贈した、パパ・イブラ・タルの作品『トゥバの巡礼祭Le Grand Magal de Touba』が飾られている。(24色のコトン・ウールの手織りで、製作に33ヶ月かかった) また、アトランタ空港のホールには、ジャコブ・ヤクバ製作の『太陽で待ち合わせle Rendez-vous au Soleil』を見ることができる。

その他、ユネスコ、世界銀行、国際通貨基金、BCEAO本部などの国際機関や、大統領府、大使館、などにもタペストリーが寄贈された。

国連本部にあるタペストリー『トゥバの巡礼祭』

チェスの工房の敷地内には展示場があり、現在までに作られたタペストリーのうち20枚ほどを見学することが出来る。展示されているタペストリーは毎年入れ替えが行われている。

タペストリー工房内の展示場

因みに、第2回世界黒人芸術祭が1970年に予定されていたが、最終的に1977年にナイジェリアのラゴスで開催された。第1回の芸術祭から、10年の月日が流れていた。第3回世界黒人芸術祭は、それから、32年後の2009年に予定されていたが、最終的に2010年にセネガルのダカールとサン・ルイで開催された。

1980年12月、サンゴールは5期目の任期満了前に、大統領の職を辞した。

サンゴールは、自国の経済政策より、芸術家の養成・文化の発展を優先した。
アーティストたちに大統領官邸の出入りを自由にしたり、巡回展などの移動の際には大統領専用機を使用させるなど、アーティストたちを優遇した。

そのサンゴールの後ろ盾を失った《エコール・ド・ダカール派》のアーティストたちは、主に世界黒人芸術祭に参加した第1世代のアーティストたちで、フランスの建設会社フージュロールFougerolle などの民間企業や、ロータリー・クラブなどの民間団体のメセナが主催する展覧会に出品したり、ダカールのフランス文化センターの展覧会に参加したりして、エネルギッシュに活動している。

かつて、《エコール・ド・ダカール派》の画家の1人だったモドゥ・ニャンModou Niangはこう言っている:

「我々は点火装置であり、新しい炎だった。それが我々の役割だった」

1977年に開催された第2回世界黒人芸術祭から10年後、セネガルの全国造形美術家協会は、サンゴールを受け継いだアブドゥ・デュフAbdou Diouf大統領(当時)に、「アフリカのアーティストが国際的レベルの作品に対等に立ち向かうことができるように、国際的な芸術・文化の催しをダカールで定期的に開催する」ことを提案した。

デュフ大統領はこの提案を受けて、10年後の1989年、「文化がなければ国家はない」と述べ、このプロジェクトを採択し、1990年に第1回ダカール・ビエンナーレ文学部門を開催した。(サンゴールも開会式に招待された)

この芸術祭は、2年毎に文学部門と美術部門を交互に行うことが予定され、1992年の第2回ダカール・ビエンナーレはビジュアルアートに焦点があてられた。1994年の芸術祭は開催されなかったが、1996年の第3回ダカール・ビエンナーレは、「現代アフリカ美術」に焦点があてられ、内外で高く評価された。その結果、この芸術祭の今後の方向性が決まり、「現代アフリカ美術ビエンナーレ」という名称に変更された。

尚、第3回ダカール・ビエンナーレのグランプリはセネガル人彫刻家のムスタファ・ディメだった。

セネガル人アーティストのグランプリ受賞は、下記の通りである:

1996年:ムスタファ・ディメ

1998年:ヴィエ・ディバ

2002年:ンダリ・ロー

2008年:ンダリ・ロー

ダカール・ビエンナーレは、Dak’Artとも呼ばれ、現在も続いている。2022年は新型コロナ禍の影響でキャンセルとなったが、2024年は15回目の開催となる。

かつてはすべての文化イベントは国が組織し運営し、アーティストたちは手を出す余地がなかったが、1970年代から現れた新世代のアーティストたちはイベントの開催に積極的に関わり始めている。

一方、セネガルの美術は、ヨーロッパで不動の地位を確立している。

ビエンナーレのある審査員は次のようにつぶやいた:

「ヨーロッパの審査員たちは、アフリカの現代美術に《アフリカ》があるかどうかを、常に問いかけている。『最近、パリでも、ニューヨークでも、ロンドンでも同じような絵が、見られるようになった』と指摘する。それは、正にグローバリゼーションの結果である。今日では、アーティストたちは、世界でほとんど同じような作品を作っている。西洋の専門家や個人コレクターたちは、現代美術より、アフリカ伝統美術を好む。彼らは、『伝統美術は、よりアフリカ的で、より本物で、よりアフリカ本来のものである』と信じている。ニューヨークでは、アフリカの現代美術品より、アンティークの美術品の方が多く見られる。伝統美術の専門家やコレクターや批評家は多いが、現代美術の専門家やコレクターは少ない。かつてアフリカの伝統美術は歴史から消え去る運命にあった。例えば、セネガルにはアフリカの伝統美術品は何も無く、模造品しかない。現在、伝統美術品はアフリカの少数の民族しか作っていないため、希少価値となっているが、皮肉にもヨーロッパの美術館には大量に保存されている」(筆者訳)

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