セネガルの現代美術 4/5

ンダリ・ロー  Ndary LO

1961年チワワンTivaouaneに生まれる。

シェイク・アンタ・ジョップ大学文学部英文科で学ぶ。

国立美術学校(Ecole Nationale des Beaux-Arts)卒業。

1999年、大統領賞美術部門受賞。

2002年の「ダカール現代アフリカ美術ビエンナーレ」でグランプリ受賞。

2008年の「ダカール現代アフリカ美術ビエンナーレ」でグランプリ受賞。

1984年、大学入学資格試験バカロレアに合格し、ダカール大学文学部英文科で学んだ。卒業後の1988年、ダカールの美術学校に入学し、コミュニケーション科を選択。卒業後、広告会社で契約社員として働き、ユッスン・ンドールのプロモーションビデオ《勇者Gorgui》や《自由の鐘Chimes of Freedom》で仮面・衣装・凧などの制作に参加した。(注:このプロモーションビデオはYoutubeで観ることができる)

その後、広告会社を辞め、ダカール郊外のリュフィスク市で閉鎖していた靴製造会社BATAの工場の一画にアトリエを構え、4~5年間、制作活動を行った。当時を振り返って、彼は言う:

ロー:「そこで私は、芸術の現実や、創作者としての孤独や不安に強くなることを学びました。当初、私は絵画をやりたかったのですが、キャンバスを買うお金がなかったので、廃棄物や廃材を利用することを思いつきました。アトリエにあった石油ランプを見ているうちに、それが人間に見え、インスピレーションの源になりました。私の最初の個展では、250個の使い古された石油ランプに手と足を付け加えて人間の体にし、それらを1つの棚に展示することによりセネガル人のいろいろな日常生活を表現しました。この石油ランプの作品はメディでも取り上げられました。廃棄物は使用されていればいるほど、その命を表現することが可能です」

当時、リュフィスクでは荷馬車が多く走っていた。彼は舗道に落ちている何百という馬の蹄鉄を集め、命を吹き込み、有名な《歩く人》を制作した。

彼が好む材料は鉄である。作品のいたるところで使用されている。馬の蹄鉄は彼の人生において特別な位置を占めている。子供の頃、馬車を引く馬を観察し、馬の蹄鉄を集めた。

リュフィスクでは、馬の蹄鉄を使うことは、「馬の虐待に反対する意思表示」でもあった。

ロー:「馬は本来、砂の上や田園の中を走らなければならないのですが、馬を奴隷化するために人間は鉄を作ったのです」

地方都市チワワンにいた時は、鍛冶屋でふいごを吹いていた。彼は今でも職人たちを尊敬している。溶接工や鍛冶工や指物師の下で、彼は様々な技術を学び、それを活かして作品を豊かにした。

1995年、作品《歩く人》でセネガル芸術サロン賞を受賞し、副賞として、ゲーテ・インスティテュートから3ヶ月のドイツ滞在を贈られた。

ロー:「それは私の最初の外国旅行でした。西欧人の生活様式に感動し、地下鉄や街の中の人々の動きやリズムに驚きました。このスピードが西欧を発達させたのだと思いました」

ドイツから帰って、彼はすべてのセネガル国民が仕事に励むことを望み、より良い未来に向かって《歩く人》のシリーズの作品を製作し始めた。

ロー:「私は『働こう、常に働こう』」というスローガンをかかげました。《歩く人》の彫刻を制作することにより、アフリカの人々が前進し、動き出すことを願ったのです」

《歩く人》のシリーズは、絶えず進化し、アーティストとしての人生に区切りをつけるまで、熟考と創造性を深めていった。

腕は後ろに投げ出され、手は過去に向けて裏返されている。肩、頭、胸は未来を求めて前に突き出ている。

不確実な未来に向かう痩せた男は、人間の苦悩を感じさせる。

「この男にとって希望は、道を歩き続け、祈ることだ」とババカールは言う。

《歩く人》は「祈り」のシリーズの作品でもある。

作品は正面でも、横向きでも、後ろからでも鑑賞ができる。

この《歩く人》は《歩くアート》と呼ばれている。

『歩く人』

1997年、マダガスカルで行われたフランス語圏競技大会で、鉄の溶接作業が不可能になったため、木製の彫刻を制作することを決断した。その体内に他のアーティストたちが使用したビンの王冠を埋め込んだ。この時、彼はすべての環境とすべての廃材に対応できる自分自身の才能を発見した。こうして彼の「適応性・順応性」が彼の哲学と合致し、《ダプタイズム》という言葉が生まれた。

彼によると、「このコンセプトは、経済的および政治的見地からも、自分自身の方法で適応しなければならない多くのアフリカの国々の状況に当てはまる」

《ダプタイズム》は、彼の造語で、彼の人生の哲学と芸術的な行動を示している。日常の経験を芸術的な創造に適応させ、創造の基本動作を引き出すために、どんな環境にも適応する才能である。彼は自分自身を《ダプタイズムDaptaïsme》の信奉者と言っていた。

(訳注:「ダプタイズム」は、フランス語の『アダプテAdapter適応させる・適合させる』」に由来し、「適応主義」「順応主義」という意味)

また、《ダプタイストDaptaïst》とは、自分がいるその時の環境の要求に応じて作品を適応させるアーティストのこと。

ダカール郊外のンバオに家を購入した際、周りに多くの建物が建設されていることに彼は気が付いた。工事現場に膨大な量の鉄筋が置かれ、鉄くずがあちこちに転がっていた。それを見て、彼の《ダプタイズム》魂が目覚め、細長い人物像が生まれた。

『歩く人』

彼はどんなところでも廃材を回収し、作品に適応させる。贅沢品には関心がない。彼にとって町のゴミは最良の素材なのである。

1999年、《国への祈りNiaanal Rewmi》という作品で大統領賞美術部門を受賞した。この作品は、11人の人物うち9人がセネガルを代表するバオバブの形に配置されている。残り2人の人物は白い服を着てバオバブの横でひざまずき、「貧困」と「不正」と「争い」を終わらせるため両手を天にさしのべ祈っている。

受賞の言葉

「この作品は、同時に、数年前に亡くなった宗教指導者スリンニュ・アブドゥル・アジズ・シィへの哀悼の意を込めています」

「アーティストは、人々が困難な時期に介入する夢想家であり、道を照らすランタンである」

彼はこれまでに1994年と1996年の2度、大統領賞美術部門にノミネートされたが、受賞はしなかった。

1999年に作成した「エコグラフィ」は、妊婦を表現した彫刻のシリーズである。ある日、友人の一人が妊娠中の妻のエコグラフィを彼に見せると、彼は生命の力に感嘆し、排卵・受精・卵着床・臍の緒・心拍・脳の発達・胎児など誕生の神秘について考えた。それは彼にインスピレーションを与え、胎児の形をしたたくさんの人形の頭を妊婦の腹の中に詰め込んだ作品を作った。

『エコグラフィ』

2000年、パリのパレ・ロワイヤルで《彫刻の100年回顧展》が開催され、彼の作品も展示された。

ロー:「私の作品が、彫刻の巨匠のロダンやジャコメッティの作品と共に展示されているのを見て、とても感激し、誇りに思いました」

西欧の美術評論家は、彼を《アフリカのジャコメッティ》と呼んでいるが、彼自身は、ジャコメッティの《クローン》と評されることを嫌った。

ロー:「私のスタイルはジャコメッティのそれとは違っています。たとえ彼が、私のように《歩く人》のシリーズの彫刻を作ったとしても、同じものではありません。確かに、彼の作品は、ほっそりとしていますが、私の作品は、サヘル地方(砂漠と沿海地の中間地帯)の人の体型とぴったり合っています」

その他、ジャコメッティの作品と違う点は、

ロー:「ジャコメッティのブロンズの作品は、墓の彼方から現れたように、身動きが取れず、苦悩して土台に立っている遺物であるが、私の作品の人物は、土台がなく、より可動性があり、両手を離す事によって動きが出ている」

2002年、作品《変化の長い道のりLa Longue Marche du Changement》がダカール・ビエンナーレのグランプリを受賞。

2005年、カナリー諸島のテネリフェ島でグループ展を行った際、開催日の前日に町のゴミ捨て場に行き、1台のおんぼろ自転車を見つけてきた。そのおんぼろ自転車に、針金で作った10数人の小さな人物をくくり付けて展示を行った。

これこそが、彼が主張する《ダプタイズムDaptaïsme》の行動である。

ロー:「外国の展示会に参加する時、私は手ぶらで現地に到着し、その土地で見つけた廃材を利用してその場で作品を制作していました。自分が置かれた環境を反映し、その環境に溶け込みたいと思うのです」

2006年のビエンナーレの際、アフリカ系アメリカ人の女性公民権運動活動家に哀悼の意を示す《ローザ・パークスの拒否》という作品を出品し、人々の絶賛を浴びた。ローザ・パークスは、1960年代のアメリカの人種差別が最悪の時期に、バスの中で白人に席を譲らなかったことで時のヒロインとなった。彼女の拒否はその後、ボイコット運動を引き起こし、アメリカの黒人公民権の導火線となった。

ロー:「2005年12月、私はラジオで彼女が無くなったことを知りました。私はアトリエで作業をしていましたが、とてもショックで作業を止めたほどです。そして、その時、彼女への追悼の作品を制作しようと決めたのです」

ローザ・パークスの作品の後、人権のために闘った黒人の英雄たち(サンカラ、マンデラ、ビコ、モハメッド・アリ、サンゴールなど)も作品にした。

2008年、作品《緑の万里の長城La Grande Muraille Verte》で2度目のダカール・ビエンナーレ・グランプリを受賞。ビエンナーレで2度グランプリを取るのは稀である。

セネガルの彫刻界の巨匠、ウスマン・ソウOusmane Sowは、彼にとって手本であり、尊敬できる存在だった。彼が彫刻界でデビューした時、ウスマン・ソウは彼を成功に導いた立役者だった。

ロー:「彼はまさに巨人です。私は背も低く、貧弱な体型ですので、遠くに行くために彼の肩を借りたのです(笑)。彼から学んだことは、作品に十分に時間をかけ、忍耐強く作業をすることです」

ウスマン・ソウの作品の人物は非常に大きく屈強であるが、彼の人物はやせ細っている。

ロー:「私は最初、人物の大きさは20cmから始めましたが、今は3m10cmぐらいになっています。私がデビューした当時は、ウスマン・ソウが私にアドバイスをしてくれ、彫刻の国際舞台に道いてくれたのです。石油ランプを使った私の作品は、彫刻の指導者であるウスマン・ソウに捧げた作品です」

彼によると、セネガル人アーティストたちは、皆で集まり、お互いに助け合って困難を切り抜けているが、造形作家は、ミュージシャンのように重視されていないし、存在感がない、という。

ロー:「私たちは個々にどうにかやっています。ビジュアルなアートは、大衆により受け入れられますが、単なるエリートの仕事であってはいけないと思います。」

彼は大統領や文化大臣に対し、現代美術博物館プロジェクトを早期に実施するよう呼びかけている。

ロー:「この博物館に何を展示するかも協議しておかなければなりません。国は展示する作品を今すぐにでも獲得する責任があります。でなければ、セネガル人アーティストの作品はすべてパリや、ロンドンやニューヨークの美術館の所蔵品になってしまうでしょう」

ダカール現代アフリカ美術ビエンナーレ(Dak’Art)は、セネガルやアフリカの国々やディアスポラのアーティストたちにとっては、世界から注目される絶好の機会である。

事実、ンダリ・ローの作品は、ダカールのビエンナーレのお陰で外国でより知られるようになった。フランスのサンテティエンヌでは、女性をテーマにした彼の巨大な彫刻がレオポール・セダール・サンゴール広場を飾ることになった。また、カナダのモンクトンの広場にも高さ15mの《儀式》というタイトルの作品が今も展示されている。現在、奴隷をテーマにした展示会のプロジェクトの準備がマルティニックで進められている。

因みに彼の作品は次のように作られている:

1.まず、彫刻のバランスを取る鉄骨を形作る。

2.鉄材の上に海水をかける、または数日間、露に濡れさせ、くすんで、震えた色の錆にする。

3.鉄材に負荷をかける試験を行う。

4.馬の蹄鉄や鉄筋その他の鉄材を熱し、ねじ曲げ、溶接をし、ハンマーでたたき、それを骨組みにつぎつぎと積み上げ、固定をする。

5.材料の持つ密度、硬さ、反発力などの特性を活かし、作品にインパクトを与える。

現在は、金属の他にゴム、プラスティック、網、彩色布、古い骨等も使用されているが、廃材は使用されていればいるほど、その命を表現することできる、と彼は力説する。

ある日、ローは交通事故にあい、自動車を修理に出した。その修理に立ち会った際、車体の塗装を行う前に塗り込んだマスティック接着剤を、自分の作品に使用することを思いつき、幾つかの鉄製の彫刻にこの接着剤を使用した。その後の彫刻は黒く、すべすべしたマスティック接着剤で覆われることになった。

彼にとって作品は自分の子供のようなもので、「作品を売るということは心が震えてしまう。作品はいつまでも自分のところに置いておきたいと思う」と述べている。

『歩く人 1 』(『Ndary Lô』より転載)

セネガルの文化省文化遺産局に、セネガルのアーティストの推薦を依頼したところ、ンダリ・ローがリストの中に入っていなかった。そのため、筆者は彼に会う機会を永遠に逃してしまった。

2017年6月8日、フランスのリヨンで亡くなった。

日刊紙《ル・マタンLe Matin》のインタビュー

ル・マタン : あなたは1999年に大統領賞美術部門でグランプリを受賞し、2000年のダカール・ビエンナーレの出品が決まりました。あなたにとってビエンナーレはどのような意味を持ちますか?

ロー:ビエンナーレはダカールで行われるので、セネガルのアーティストにとって、大変喜ばしいことです。ビエンナーレは私にとって食事みたいなものです。一日中働いて、おなかが空き、夕方おいしい料理を食べる、そんな喜びと充実感があります。ビエンナーレはぜひとも続けて欲しいと思います。セネガル美術ひいてはアフリカ美術のショーウインドーになっているからです。

ル・マタン : ビエンナーレの目的はあなたたちの芸術的関心事と合致しているのですね?

ロー:そうです。ビエンナーレは、アーティストとしての自分と向き合い、色々な感性を持った他のアーティストと出会い、交流が出来る機会だと思います。そして、このようなイベントがあるからこそ、私たちの作品が展示されるのです。また、私の作品や他のアーティストたちの作品を考える機会でもあります。講演にも参加します。進化を望むアーティストにとっては根源的なイベントです。もし明日、ビエンナーレがなくなったら、私は孤児になってしまうでしょう。私はもっと創作に励みます。次回のビエンナーレで、ビエ・ディバからの挑戦を受けなければならないからです(笑)。彼も、ビエンナーレでグランプリを受賞していますが、セネガル人のアーティストが受賞するのは素晴らしいことだと思います。

ル・マタン : しかし、多くのセネガル人やアーティストたちは、ビエンナーレのエリート主義を嘆いているようです。

ロー:分かって欲しいのは、すべての人がビエンナーレに参加するのはできないということです。選ばれなかったと言って、ビエンナーレをつぶしたいと思ってはいけないと思います。常に選考されないとはかぎりません。「美」と「善」の擁護者であるべきです。選ばれなかった作品は、主催者の明白な意志を示しているわけではありません。うまくゆかないことはすべての場合で起こります。重要なことは、自分の制作方針を柔軟に修正することです。私の場合、過去に何度も落選しましたが、不平は言いませんでした。

ル・マタン : ビエンナーレの開会式の際の大統領のスピーチをどう思いますか?

ロー:私はいつも、「文化は発展への扉」と言っています。大統領がそのことをスピーチで喚起してくれたことを幸せに思いますし歓迎します。芸術、文化およびアフリカ芸術の世界的な成功が大統領の願いであり、それが叶うことを祈っています。

ダカール・ソワールDakar Soirのインタビュー

ダカール・ソワール:あなたは作品の中で何を引き出そうと試みているのですか?

ロー私自身の奥にあるものを引き出したいと思っています。かつて、石油ランプを使って作品を作ったことがあります。なぜならば、私の環境の一部だったからです。私が子供の頃、電気はありませんでした。また、馬の蹄鉄を使って作品を作ったこともあります。それは私が育ったリュフィスクの町の環境を反映しているからです。リュフィスクではたくさんの馬がいました。その後、引っ越しましたが、その引っ越し先に鉄筋を大量に使用する建設現場があり、その影響で鉄筋を作品の中で使うようになりました。1997年、私はマダガスカルで《ダプタイズム》という私の哲学を話しました。この言葉は私の造語で、「異なる環境や異なる材料に適応(アダプテadapter)できる能力のことです

ダカール・ソワール:大統領賞美術部門の受賞はあなたにどのような変化がありましたか?

ロー:この受賞は私を有名にしてくれました。ただそれだけです。しばらくの間、私について話題になりましたが、それももう終わりました。私のような新しい世代のアーティストにとって受賞は重要です。未来は将来性があることを証明しています。また、受賞は、ヨーロッパ人やアメリカ人が長い間関心を持っていた私の作品の質を高めてくれました。

ダカール・ソワール:大統領から助成金を受け取りましたか?

ロー:この賞で得た賞金は、200万FCFA(約40万円)と、わずかな金額です。これはメデアも公表していますし、誰もが知っています。私はこの賞金を受け取ってすぐ母親に渡しました。そしてこの事についてはもう話すことはありません。アーティストはその作品で生きてゆかなければなりませんが、お金だけで生きてゆくこともできないと思います。私は作品を西欧のコレクターに売っています。それだけで十分です。主に廃材を使って作品を制作していますから、助成金はあてにしていません。行き詰まり、選択肢もなくなった若い世代のアーティストには助成金が必要だと思います。材料を買えず、作業するアトリエが無い若いアーティストも多いのです。

ダカール・ソワール:アーティストは社会学者です。あなたにとってこの国の展望はどのようなものですか?

ロー:私の作品はこの国の社会状況を扱っています。《Nianal Rewmi (国への祈り)》というタイトルの作品があります。これは、我が国への祈りと宗教指導者アブドゥル・アジズ・ダバハへの追悼の作品です。彼は、セネガルを襲う災難を予測し、適切な助言を与えました。今、人々は常に不平を言い、憂慮し、いい加減な事をつぶやきます。アーティストとして、私はランタンのようなものです。私が道を照らすのです。辛い出来事が起きた時、神に祈りを捧げます

ンダリ・ローは、2017年6月8日フランスのリヨンで亡くなった。

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