ジブリル・ンジャイ Djibril N’DIAYE
1945年ダカールに生まれる。
セネガル芸術学校Ecole des Arts du Sénégal彫刻科卒業。
彫刻家として活動する傍ら、美術学校の造形美術部長を務めた。
マリのアーティストと銅の打ち出し技術を研究する。
彼はダカール市内の芸術村に住んでいた。筆者が到着するや否やアトリエの前の庭に建てられた彼の⦅墓⦆に案内してくれた。「えっ!?」と筆者が驚いていると、彼はにやにやしながら言った:
「墓はもう作りました。後は天国に行くだけです」
彼は一見真面目そうな紳士に見えたが、とてもひょうきんな人だった。
筆者:あなたの作品のテーマは何ですか?
ンジャイ:《少年時代の生活を語る》ことです。自分自身の人生、青春を作品を通して語りかけ、自分自身の環境の中の「美」を追及します。
子供の頃、修理作業に興味を持っていました。タイヤのチューブや鍋の修理を見るのが好きでした。タイヤのチューブは修理が終わると、女性たちがすぐに井戸の水くみ用に使っていました。父が時々塀の修理作業を行っていましたが、私は喜々として手伝っていました。パイプや鍋の金属片などを用いて修理を行ったのを覚えています。
また、ティジャニーヤ教団の創始者のマリック・シは、牛乳を発酵させた酸乳が好きでした。彼は遊牧民プル族の出身で、酸乳が少年時代の思い出だと言っています。私は彼の思い出を作品にしました。
筆者:作品の『TAPPAT Ⅱ』は、材質が木なのか皮なのか分からない不思議な作品です。
ンジャイ:私は、一見相容れないような材料を用いて作品を作っています。《彫刻絵画》という現在の潮流に乗り、糸、ひも、木、腰布などの素材を、縛りつけ、貼り付け、調和または対決させながら同じ作品の中で同居させています。「Tappat」とはウォロフ語で「塀・囲い」という意味です。
『TAPAT Ⅱ』は大統領芸術賞を受賞。
筆者:影響を受けたアーティストはいますか?
ンジャイ:私は具象画から始めましたので、印象派の絵が好きでした。その後、ミケランジェロやロダンの彫刻を見て感動し、彫刻を始めるようになりました。現在は、レユニオン諸島のジャック・ベンティJacque Bentiという彫刻家が好きです。
2017年71歳で逝去した。
ママドゥ・ワドゥ Mamadou WADE
1944年メへMekhéに生まれる。
1959年~1963年:マリ芸術会館Maison des Arts du Maliで学び、その後、パパ・イブラ・タルがセネガル芸術学校Ecole des Arts du Sénégalに新設した「黒人造形美術研究科」に進む。
モドゥ・ニャンと同期生。
1964年、美術学校の《黒人造形研究科》内に、タピストリーの実験的アトリエが開かれた。ママドゥ・ワドゥMamadou Wadeなど4人の生徒が、フランスのゴブラン・タペストリー工場に派遣され、2年間タペストリーの技術研修を受けた。
帰国後、チェスの国立タピスリー工房Manufacture Nationale de Tapisserieで手織りの技術を教育する一方、タペストリーの下絵を描いた。
その後、モスクワやブリュッセルの美術学校に留学し、帰国後は、文化省や国立ギャラリーで勤務する傍ら、画家として活動。
筆者:あなたの作品のテーマは何ですか?
ママドゥ:「私には決まったテーマはありません。テーマを決めるとそれに束縛されてしまうので、インスピレーションで描いてゆきます。描いている自分の心の状況に合わせて描きます。
筆者:作品を制作するにあたりポリシーなどがあれば教えてください?
ママドゥ:「私は最初は具象画を勉強しました。具象画のテクニックを学んだ後は、作品の中で自分のオリジナリティや個性や創造性を出すようにしています。自由に描きたい。自由に描いていると想像していなかったものが溢れて来るのです。昔、自分には1つの傾向に偏ることがあり、それが周期的に変わりました。作品は常に進化していますが、昔の作品を見ると、懐かしく、新鮮な感じがします。
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