ガラス絵作家 第1世代
1890年生まれのバラ・ンジャイBallaN’Diayeはダカール郊外のリュフィスク市に住み、大工をしながら、1914年~1940年まで、趣味で絵を描いていた。
20世紀初頭に画家として活動していたオマール・ムセ・ゲイOmar Moussé Gueyeは、バラ・ンジャイにガラス絵の技術を教えた。
二人が描いたガラス絵のモチーフは、主に『カーバ神殿Kaaba(サウジアラビアのメッカにある神殿)』や『アルボラクAl Boraq(マホメットを乗せるために天使ガブリエルが送った馬)』だった。
二人はまた、花や動物のモチーフに人物写真をはめ込んで装飾し、自分たちで作った木製の額縁を付けた。
バラ・ンジャイの弟子の、ンジャイ・ローN’Diaye Loは、1932年からガラス絵を描き始めた。彼は、客から注文を受けてから、イスラム導師やその家族を描いたカラーリトグラフ、絵葉書、肖像画などをガラス絵にした。20年の間に100人ほどの弟子やガラス絵愛好家を育てた。見習いの期間は1~2年続いたが、その期間、ンジャイ・ローは必要な画材を提供し、弟子を家に泊めた。その代わりに弟子は、作ったガラス絵の5枚中3枚分の売り上げを彼に支払った。
この《小さな会社》は繁盛し、成功した弟子の幾人かは独立して、チエス市やカオラック市を活動の拠点にした。
ンジャイ・ローは弟子たちに「田舎を回り、ガラス絵に描かれているエピソードを説明して施しを受けるよう」勧めていた。
現在のガラス絵のほとんどは、ンジャイ・ローたちが描いた宗教・伝統画を基にしている。
ンジャイ・ローの意志を受け継いだモドゥ・ファルModou Fallは、1960年からダカールのブレーズ・ジャンヌ大通りに移り住み、私的に保管していたンジャイ・ローの下絵(例えば、『ノアの箱舟』や『アブラハムの犠牲』など)を主にガラス絵にしていた。また、作品の販売は、ガラス絵を制作するアトリエと同じ場所にした。アトリエは中庭の奥にあり、訪問者はそこで展示されている作品を見ることができ、同時に、ガラス絵の制作過程を間近に見ることができた。

モドゥ・ファル作
ガラス絵作家 第2世代
最も有名で想像力に富む現代の天才ガラス絵作家は、ゴラ・ンベングGora M’Bengue (1931~1988)である。1931年、チャジャイで生まれた。両親は農民で、その後、ダカール郊外のゲジャウェイに家族全員で移り住んだ。

(「Peinture sous verre 」より転載)
ゴラ・ンベングと親交があった国立民族学博物館の三島禎子准教授によると、「彼は、セネガルのガラス絵作者の草分け的存在であり、おおくの後継者をうみ出した大家である。平面的で原色をつかった絵は彼の作風の特徴であると同時に、セネガルのガラス絵の原型にもなった。彼が好んで描いた女性や家族、聖人の人物像などは、ガラス絵の代表的なテーマになった。それはセネガルに生きる人びとが描く自画像としてのセネガルでもある」
ゴラ・ンベングは、作品を小売人に預ける時と、画材を調達する以外は街に出ることはなかった。ダカール市内のバイ・ライBay Lay地区の静かなアトリエで、情熱的に創作に取り組み、訪問者が来ると彼の作品が並ぶアトリエ・ギャラリーを案内したという。

ミッシェル・ルノドーの美術書『セネガルのガラス絵』の中で、ゴラ・ンベングは次のように語っている (筆者訳):
「私が制作しているガラス絵の中の人物は、私の友達です。絵の中のすべての人物が目覚めたら、一体何をしゃべるだろうか?」
「私は一人ではありません。私は私のデッサンとよく喋っています」
ゴラ・ンベングはスケッチノートを持っていなかった。モデルもいなかった。ガラスの上で即興的に作品を作り上げていた。
「私はガラスの上に直接描いてゆく絵描きです。私の絵の一つ一つがかけがえのないものです。絵を描き始めると、これから何が始まるのか全く分かりません。ペンを滑らせていれば、形がやって来ます。線を動かして形を生み出さなければなりません。ただそれだけです」
ゴラ・ンベングは、自分の仕事や技能実習について語るのが好きだった。彼は1954年から絵を描き、テクニックを学んだのはカオラック在住のサリウ・サールSaliou Sarrからだった。
「私は子供の頃、指で紙や壁の上に絵を描いて、絵を描くということを知りました。老人たちのところに行って、セネガルの歴史や過去の話しを聞き、その絵を描きました。私はまた、普通自動車やカーラピッド(乗り合いタクシー)やひょうたんの上に文字を書いたりしました。文字に陰影をつけ、ボール紙や布地やベニヤ板の上にも描きました」
「すべてを説明することはできません。絵描きの仕事も同じです。絵を描く事は夢を見ることです。私は、絵を描くことが好きな絵描きたちと話す事が大好きで、絵を描くことが好きではない人には何も説明することはありません。絵描きはいつも何かを探し求める見習い工で、良い心を持った人たちなのです」
「人が絵を考え出したと言われています。しかし、人生は全く別のものです。人生は常に描かれています。壊れた壁も、溪谷も、大地も、雲も、すべての絵描きはそこに絵を見ることができるのです」
「人が絵を創り出したのではありません。神様が創り出したのです。人生は(神様によって)完全に描かれているのです。人は散歩する時、景色を見ますが、そこに何かを見つけることが必要です。人が見ていることは私には見えません。私が見ている事は、人には見えません。絵は夢みることです」
ゴラ・ンベングは即興的に絵を描く。しかし、彼は毎回、絵の中に想像的な宇宙を再現する。それこそが彼が表現したいことなのだ。
「セネガルの事や、ここの生活の事や、習慣や、服の着方などを描かなければなりません。マリの人はマリの絵を描き、トーゴの国の人はトーゴの絵を描く必要があります。私は国境を突破しようとは思いません。フランスの絵も、ナポレオンも、城も、セネガルのことではないのです」
「絵描きは死ぬことはありません。生きるために、命を守るために、何かをしなければならないのです。芸術家は自分の喜びのために仕事をしています。疲れているなら、そのまま放っておきなさい。問題があっても、頭を悩まさなくても良いのです。大切なことは、心が穏やかであることです」
「私が描きたいもの?それは、飛び立ってゆく鳥の決意です」
1988年、ゴラ・ンベングはこの世を去った。

第2世代の作家にはその他、ロー・バLô Baやモール・ゲイMor Guèyeなどがいる。
ロー・バは雅号で、本名はババカール・ローBabacar Lô。1929年、チワワンの小さな村に生まれる。幼い時コーラン学校でコーランを朗誦し、イスラム教を学んだ。その後、木工職人のラオべたちの下で、人物を彫刻したり、ウチワヤシの繊維で籠を作っていたが、父親は、人物を彫刻するのは、偶像を禁止するイスラムの教えに反するとして、彼がやっていることを好まなかった。
彼は彫刻をあきらめ、自然を題材にした絵を描き始める。15歳の時、ダカールにやって来て、ガラス絵と出会う。当時は、マホメットの戦い、天使、天国や地獄、翼の馬などイスラム教に関するガラス絵が多かった。最初は、それらの絵の複製を描いていたが、次第に、日常生活や女性をモチーフにした絵を描き始めた。
ロー・バは2016年にこの世を去った。

モール・ゲイ

モール・ゲイのアトリエは、ジョルジュ・ポンピドゥ大通りの土産物屋の裏側の中庭にあった。
ル・バオバブ誌のインタビューを引用する:
ル・バオバブ:自己紹介をお願いします。
モール・ゲイ:1926年に生まれ、幼い時にコーラン学校に行きました。地上の人々に降り注ぐ太陽の光を描く絵に魅了されたのを覚えています。絵に対する情熱は私の中に生まれつきありました。
ル・バオバブ:いつ頃から絵を描き始めましたか?どのようにしてガラスを知ったのですか?
モール・ゲイ:私は12歳から絵を描き始めました。最初は木のタブレットや紙の上に描いていました。ゴラ・ンベングと出会い、彼がガラス絵のテクニックを教えてくれたのです。
ル・バオバブ:最初はどのような材料でガラス絵を制作していましたか?
モール・ゲイ:塗装用油性ペンキを使い始めたのはこの頃ですが、昔は、地方植物と熱帯樹木の樹皮を使って独自のペンキを造っていました。例えば、赤色は、《ネンベング》という樹木から、緑色は、《ンゲンジャン》という樹木から、黄色は《ガンジェ》という樹木から造っていました。これらの色で描いた絵は、もうありませんが、とても素晴らしかったです。
ル・バオバブ:その技術をもう使わないのですか?
モール・ゲイ:塗装用油性ペンキだと作業が早く、一日で数作のガラス絵を造ることができます。
ル・バオバブ:今まで作った作品の中で何に一番満足していますか?
モール・ゲイ:多数あります。『アリユウAlliou 』『ダルサラムDarou Salam』はアハマドゥ・バンバのdセネガル帰還を永遠に後世に伝えることになりました。『ダバ・ンバケDaba Mbacké』は当時最も美しかった女性の娘です。
ル・バオバブ:ガラス絵を制作するのは難しいですか?
モール・ゲイ:その人の素質によりますが、《器用さ》と《正確さ》の2つの要素が求められます。あとは経験のみです。私は、下絵は描かないで、直接ガラスに絵を描いてゆきます。
ル・バオバブ:何か苦い思い出はありますか?
モール・ゲイ:西アフリカ総督ポンティの有名な通達は、私たちにとって辛いものでした。私たちは隠れて作品を作っていました。アーティストにとって、そのような状態で作品を制作するのは大変困難でした。
2016年、モール・ゲイはこの世を去った。

ガラス絵作家 第3世代
ゴラ・ンベングのまな弟子のアレクシス・ンゴムAlexis Ngom (主に鳥や動物をモチーフにする)、ガラス絵の改革者ビライム・ファル・ンビーダBirahim Fall M’Bida (女性をモチーフにした作品が多い)などがいる。


ガラス絵作家 ヌーベル・バーグ
ダカールの美術学校で近代的な教育を受けた若い作家たちは、テクニックや題材やインスピレーションなど、さまざまなレベルで、ガラス絵の変革を試みている。
美術学校ではガラス絵のテクニックは教えていないが、自ら進んでガラス絵作家に学びに行ったり、あるいはたった1人で試行錯誤をしている。
具象画よりむしろ抽象画の傾向が強い。
女性最初のガラス絵作家アンタ・ジェルメーヌ・ゲイAnta Germaine Guèyeは、《アール・デコ》の様式を取り入れ、エナメル、鉄筋、陶器などを組み合わせた作品を作っている。

スリンニュ・ンジャイSerigne N’Diayeは、ガラス絵の⦅変革者⦆と言われ、いろいろなテクニックを駆使して、新しいガラス絵の制作に挑戦している。例えば、花を蝶々に見せたりするなど、植物を動物に見立てるテクニックを用いて繊細で美しい画風を作り上げている。


1943年、『タンタンの冒険』で成功したベルギーの漫画家エルベは、『タンタンの冒険』の一場面を描いたガラス絵を作成しようとしたが、戦時下の当時、原材料のガラスの不足や包装、輸送の困難さを理由に代理店から反対され、断念した。
1960年~1970年代に、フランス政府からセネガルに派遣された技術協力者たちは、ダカールにガラス絵があることを知り、タンタンの絵をダカールのガラス絵作家に注文し、大ブームが起きたと言われている。

ガラス絵は徐々に多様化し、大衆からの人気に支えられる一方、観光客や外国人たちなどの新しい買い手が現れた。ガラス職人たちは、繁華街の屋台やバラックに工房を設けるようになり、作品をお金に換えるために、弟子たちを市場など人が集まるところに送り込んだ。
ガラス絵はよりいっそう売れるようになり、ガラス絵職人たちは多くのお金を手に入れるようになった。彼らは、今までよりまともな家に住み、必要な設備を整え、十分な資材を買い込むと同時に、積極的に画廊や文化センター、ホテルなどで展覧会を開き、マネージャーを通じて、カタログや小冊子を出させ、あるいは新聞に記事を書かせ、ラジオで放送させるなどして展覧会の売り込みを図っている。(アブドゥ・シィラ)
もともと庶民の日常生活の一部であり、観光客のお土産用として路上などで販売され始めたガラス絵が、アートとして評価されるようになったのはつい最近のことである。
その経過を川口幸也氏は以下のように説明している:
「(ダカール・ビエンナーレでセネガル人の造形美術家たちが高い評価を受ける)一方、従来はアートとみなされていなかったガラス絵が、ダカールの中心部にあるフランス文化センターの中庭で大々的に展示されたのである。そこには、ゴラ・ムベングやモール・ゲイら市井のガラス職人らの作品に加えて、美術学校で専門の教育を受けた比較的若手のアーティストによるガラス絵の実験的な作品までがいっしょに並んでいたのだ。人びとの心に深く根を下ろしてきた民衆造形が、独立後40年近くを経てやっとアートとして認められ、セネガルの国民文化の目録に組み入れられたのである」
ダカールのフランス文化センターは、2年に1度、テーマを決めて「ガラス絵フェスティバル」を開催している。また、欧米の美術館なども、ガラス絵の展示会を開催し、セネガルのガラス絵を積極的に紹介しているため、国際的評価が高くなっている。
自分たちの身近にあったガラス絵が、《アート》というランクに格上げされたことについて、セネガル国民は困惑しているかもしれない。
ガラス絵に描かれているテーマ
1.イスラム教の影響を受けた宗教画
a)コーランに関するテーマ(アラブ諸国で描かれた絵をモデルにしている)
・旧約聖書の場面:「アダムとイヴ」「地上楽園」「誘惑」「ノアの洪水」「ノアの箱舟」
・預言者の場面:「翼のある馬に乗った預言者の神秘的な旅」

植民地時代の末期、今まで輸入されてきたアラブ・ベルベル系のガラス絵が次第に少なくなってきたことから、アラブの宗教的英雄やイスラム的伝統を模倣した初期の絵柄は、セネガルの宗教団体の創設者やその後継者たちの絵柄に取って代わった。テーマと内容は宗教的だが、花や動物を多用する装飾が見られる。(アブドゥ・シィラ)
b)ムーリッド教団に関するテーマ(セネガル独自のオリジナルなテーマ)
・アーマド・バンバの生涯の場面

c)セネガルにおけるイスラム教の世界
・イスラム教の導師およびタリベ(コーランを学ぶ子供達)

(「Art sur Vie」より転載)
これ以降は、宗教的な主題や人物に代わって、世俗的な主題や、社会や家族の情景、道徳的な場面、犯罪や冒険譚が描かれ始める。(アブドゥ・シィラ)
2.伝説および歴史に関するテーマ
・セネガルの国民的英雄:「馬に乗るラット・ジョール」

(「Art Contemporain du Sénégal」より転載
3.装飾のテーマ
・鳥、花、動物など:「オウム」「ニワトリ」「亀」「花飾り」

(「Peinture sous verre du Sénégal」より転載)
4.田舎の風景
・「プル族の羊飼い」「村」


5.肖像画
注文による肖像画や理想化された肖像画が多い。大変繊細な作りで、エレガンス、気品、そしてドリアンケ(淑女)など女性の顔の哀愁・物静かさを見事に表現した傑作が多い。これは、ガラス絵が単に《ナイーフ派(素朴派)》的なアートではなく、最大のデリカシーをもって最も繊細なニュアンスを表現できることを証明している。

(「Peinture sous verre du Sénégal」より転載)
ガラス絵の制作方法
ガラス絵は、ガラスの裏側から左右逆に描くが、後から描き直しができないため、一度紙などに下書きしたものをガラスに描くのが通例である。例えば、顔を描く場合、普通最後に描く目鼻を先に描いてから、肌の色を塗っていく。加筆や塗り直しが出来ないため制作は難しいが、絵具が直接空気に触れないことから、汚れることなく画面が保たれる。また、絵の表面が平滑で光が反射しないため、いつでも潤いある発色が保たれる」(Wikipedia 「ガラス絵」より)
作図は普通次の手順で行われる:
1.下絵をガラスの下に置く。
2.対象物の輪郭および基本線を墨で描く。この線は修正ができない。
3.塗装用油性ペンキで、あざやかな色をつける。
4.最初に描いた線や細部は、表のガラス面に現れる線となる。
5.背景は最後に仕上げる。
6.モドゥ・ファルの場合、逆向きに自分のサインをし、時には《Grand Artiste》(「ガラス絵の大家」という意味)と書いて、住所を付け加えたりすることがある。
7.描き終わったら、日陰で乾かし、ゴム糊を塗った紙で縁取り、ガラスおよび廃材段ボール紙の端に貼り付ける。
大阪の万博記念公園内にある国立民族学博物館で、セネガルのガラス絵が常時展示されている。

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