【ダカール・バマコ鉄道横断の旅】

建設当初は、バマコの東に位置するクリコロが最終の駅だった。
(『Wikimedia』より転載)
セネガルにはかつて5つの路線があったが、現在4つの路線が廃線となり、ダカール・バマコ路線のみが存続している。ただ、そのダカール・バマコ路線も線路や施設の老朽化が進み、度重なる脱線により死傷者を多数出した。しばらくの間、旅客車両の運行は停止し、貨物輸送だけが行われていた。現在は、線路や設備の改修工事が全面的に行われ、運休状態となっている。
尚、近いうちにダカールとブレーズジャニュ新空港を結ぶ、高速鉄道(TER)が開通する予定である。

(『Ph.David 1908』 より転載)
各路線は次の順序で建設されていった:
①ダカール・サン=ルイ路線:全長263km。1880年~1885にかけて建設された。フランス領西アフリカで最初の路線。建設中はカイヨール王国のラット・ジョールLat Diorの激しい反対運動にあった。現在は廃線になっている。
②ダカール・クリコロ路線:カイ・クリコロ間全長555kmの区間は1881年に着工し、1904年に完成。チェス・バマコ間634kmの区間は、1909年に着工。1924年にダカール・クリコロ間の全延長が開通した。全長1287km、(そのうち、マリの部分は641km) 33の駅がある。ニジェール川に面するクリコロを終点としたため、《ダカール・ニジェール鉄道》とも呼ばれていた。
③カオラック・ギンギネオ路線:全長22km。1912年完成。現在は廃線となっている。
④ジュルベル・トゥバ路線:全長45km。1931年完成。ムーリド教団の巡礼《マガル》の時のみ運行する。
⑤ルガ・リンゲ―ル路線:全長129km。1939年完成。現在は廃線となっている。
2021年に、ダカール・ジャムニャード間が開通し、高速鉄道(TER)が運行している。
今後は、下記の図が示すように、ジャムニャードからブレーズジャニュ新空港に行く路線と、チェスに延伸する路線が計画されている。

(『Au-Senegal.com』より転載)
《ダカール・バマコ鉄道の歴史》
長い間、イギリスやフランスの文明国は、「黄金の都」として栄えていたニジェール川河畔に位置するティンブクトゥ到達に大きな希望を抱いていた。

(Wikipediaより転載)
17世紀、フランスの財務総監コルベールが、セネガル川とニジェール川を遡って、ティンブクトゥに到達する計画を打ち立てると、その計画はルイ14世によって承認された。
1854年、セネガルの植民地化を進めていたフェデルブ将軍は、豊かな資源を有する西アフリカの国の地域との交易を確保するため、ニジェール川までの鉄道の開発を提案した。
(19世紀、熱帯アフリカの内陸部に勢力を拡大していたイギリス軍の兵士たちはマラリアに苦しめられていた。
マラリアの予防薬としてキニーネが発見されると、アフリカ内陸部への植民地拡張が飛躍的に加速されたと言われている。キニーネ入りのシュエップス・トニックScheppes Tonic Waterがセネガルで売られているが、植民地時代にイギリスやフランスの兵士たちも飲んでいたのではないだろうか。
因みに、筆者はセネガル滞在中、清涼飲料水はシュエップス・トニックしか飲まなかった。そのお陰?か、今までマラリアに一度も罹ったことがない)

1863年、フェデルブ将軍の提案を受けて、最初の現地調査が行われた。しかし、その後の進展はなかった。
(注:フェデルブ将軍は、いくつかの種族の言葉を話し、「フランス語・ウォロフ語辞典」と「フランス語・プル語辞典」を編纂した。また、15歳のソニンケの少女、ジョクンダ・シディべとの間に1人の息子をもうけた)
1876年、ブリエール・ド・イール総督は、フェデルブ将軍の鉄道計画を再検討することを決定した。
1877年、フランス人土木技師がアルジェリアで調査を終えた後、サハラ砂漠縦断鉄道の建設に関する報告書をフランス政府に提出した。
政府の運営委員会は、マリとアルジェリアを結ぶ縦断鉄道と、マリとセネガルを結ぶ横断鉄道の2つの鉄道建設を決定・採択した。
ブリエール・ド・イール総督は、セネガル川を航行可能な地点まで利用し、そこから鉄道でニジェール川に到達する計画を提示した。始発駅はカイが選ばれた。
水路調査の結果、ニジェール川に面したカイの港は、1年の間、6ヶ月間はボルドーから来る蒸気船を停泊できることが確認された。このため、最初の鉄道の区間はカイとバマコを結ぶ路線となった。

1879年および1880年、ブリエール・ド・イール総督は、ガリエニ大尉に対し現地調査を命じた。
1880年以降、ダカール・カイ・ニジェール川を結ぶ鉄道建設の法案が審議された。
1881年、フランス政府がプロジェクトの予算を承認し、まず、カイからニジェール川方面に向かって工事が開始されたが、工事の進捗は芳しくなかった。工事開始から4年たった1885年の時点において、56kmしか線路が敷設されていなかったため、民間企業に工事が委託された。しかし、人員不足や資機材不足から、工事現場は間もなく閉鎖された。
1888年、ガリエニ大尉がプロジェクトを引き継ぐと、バフィングBafing川とバコイBakoy川が合流し、セネガル川の起点となっているバフラベ村(マヒナ)までの線路の建設が終了した。(『セネガル川の水源を求めて』参照)




1889年、アルシナール司令官がガリエニ大尉を引き継ぐが、政府は鉄道計画継続に関する新たな予算を認めなかった。
1890年にフランス軍がマリのセグーを占領し、さらに1891年にセネガルのニョロを占領すると、鉄道建設再開への機運が高まった。
1892年、ジョッフル工兵大隊隊長が鉄道建設の指揮を執ることになり、カイ・バフラベ間の鉄道の運行が始まる。それに伴い、工事は急ピッチで進められた。
1897年、161kmの区間が運行可能となる。
1904年5月、線路がバマコにつながった。バマコまでの線路の敷設工事が終了。


1904年12月10日、カイ・クリコロ間の鉄道555kmが開通した。こうしてセネガル川とニジェール川は、《船と列車》の混合輸送により、大西洋とニジェール川がつながった。
(注:クリコロは、ニジェール川水運の起点でもある。増水期になると、クリコロから、ティンブクトゥ、ガオなどの下流の諸都市に向けて船が運行する)
しかしながら、セネガル川は水位の関係で、カイまで常時航行可能ではなかったので、フランス領スーダン(現マリ)への物資の輸送は不可能だった。
このため、バマコを経由し、ニジェール川河畔にあるクリコロ港とダカール港を結ぶ鉄道を建設する計画が浮上した。

(Wikipediaより転載)

1907年、ダカールの東方30kmに位置するチェスを起点とする鉄道建設工事が開始された。

1912年、敷設工事はギンギネオに達した。
1914年、チェスから349kmに位置するクサナールに到達。しかし、第1次世界大戦の勃発により工事の進捗はスロー・ダウンした。
1923年9月15日、ファラメ川を渡る大橋が完成し、東のカイ側からの線路と西のチェス側からの線路が、キディラで接続された。大西洋のダカールとニジェール川のクリコロを結ぶ1.289kmの鉄道が完工した瞬間だった。
1924年1月1日、ダカール・クリコロ間の開通式が行われた。工事の進捗速度は年平均23kmだった。
運行当初、列車は単なる輸送手段ではなく、植民地支配を拡張する手段でもあった。当時は、《落花生》と乗客を輸送する一方、旧フランス領スーダン(現マリ)を征服していた植民地軍の輸送も行っていた。
1938年、セネガル人鉄道員のストライキがチェスで起こった。このストライキは軍隊により制圧され、6人が死亡、約100人が負傷した。
ダカール・バマコ鉄道は、1945年まで、「ダカール・サン=ルイ鉄道会社」によって経営されていたが、第2次世界大戦後、フランス政府は同鉄道を国有化した。
1946年、鉄道は、新たに設立された「西アフリカ鉄道公社Régie des Chemins de fer de l’Afrique de l’Ouest」に移管され、主に農産物や鉱石などの鉱物資源をダカール港まで輸送する任務にあたることになった。
1947年10月11日~1948年3月19日(約5ヶ月間)、セネガル人鉄道員は、フランス人と同等の権利を要求し、賃金の見直しを迫るストライキを行った。その結果、賃金は20%アップしたが、労働組合の書記長、イブラヒマ・サールIbrahima Sarrは投獄され、ストライキをおこなった組合員は解雇された。(鉄道員はストライキの期間中、組合員と会う必要がある場合は、女性の格好をして移動したというエピソードが残っている)
セネガルの作家であり映画監督である、センベーヌ・ウスマンはこの史実を作品の題材に選び、1960年、長編小説『神の森の木々 Les Bouts de bois de Dieu』を発表した。

1960年8月20日、マリとセネガルが独立し、マリ連邦が消滅すると、「西アフリカ鉄道公社」は、「マリ鉄道公団(RCFM)」と「セネガル公団」に分割された。
1989年10月12日、「セネガル公団」は、「セネガル鉄道公社Société nationale des chemins de fer du Sénégal(SNCS)」となった。
2003年10月1日、マリとセネガル両政府は、フランス・カナダの合弁会社、トランスライユTransrailに対し25年間の完全譲渡を認めることを決定した。トランスライユは、路線のメンテと運営を支援し、インフラの改修工事に投資することを約束した。
セネガル鉄道公社は、自社の財産の一部をトランスライユに移譲した。
しかし、インフラの劣化と機器の消耗に因る事故が度々起こり、乗客への危険性が徐々に高まったため、鉄道運営を継続することが難しくなった。トランスライユは契約上、乗客の輸送が義務付けられていたにも拘らず、貨物輸送だけを行う意向を一方的に発表し、全体の3分の2の駅を閉鎖し、運行数を3日に1回に減少させた。この運行制限は僻地の住民にとって大打撃となった。
(これにより,貨物は道路輸送のみとなり、1日254台の貨物トラックがセネガルの道路を走行することになる。その影響で、トラックが通る国道は穴があいてデコボコになり、穴を避けながら走行するのは普通車のドライバーにとって至難の技だった)
こうした中、セネガル鉄道公社は苦境に立たされ、種々の司法手続きの対応に追われた。2009年1月23日、「鉄道部門の健全化を規定する法律」に基づきセネガル鉄道公社は解散した。2010年には乗客の輸送は完全に停止され、マリ・セネガル両政府は、2028年に終了予定だったトランスライユとの契約の終了を前倒しし、2015年に終了した。
その後、マリ・セネガル両政府は、トランスライユに代わる暫定的な管理組織「ダカール・バマコ鉄道Dakar‐Bamako ferroviaire (DBF)」を設立した。この組織は、移行期における管理事業をフォローし、ダカール・バマコ鉄道を再開させることを目的としていた。
DBFは鉄道改修緊急計画を策定し、完全なやり直し工事を両政府に提案しているが、延長1.287kmのダカール・バマコ路線の工事価格は高額だった。単なる修復工事の場合は、工費は500億FCFA(約100億円)だったが、完全なやり直し工事の総工費はその3倍の金額となった。外国の援助が必要となり、世界銀行やフランス開発庁に打診するが、書類審査の結果、却下された。これにより、DBFの計画も頓挫した。
1924年に運行を開始して以来、ダカール・バマコ鉄道は一度も近代化されることがなかった。子供が線路で遊んだり、線路に石が置かれたり、雨期の大雨で鉄橋が浸水したりすることが度々あった。また、線路や施設の老朽化により、脱線事故が何度も繰り返された。
2000年7月3日午前3時30分、バマコ発の特急列車が、キディラから26km離れた、勾配のあるカーブで脱線した。15歳の少年が死亡し、30人ほどの乗客が負傷した(うち6人は重傷だったが、その後4人が亡くなった)。
13両の車両のうち、後続の5両の貨物車が脱線したが、タンバクンダ・キディラ間の路線は操業以来80年近く経ち、老朽化しているため、機関士はその地点を通過する際は、徐行を余儀なくされていいた。
この事故の際、列車には、セネガル鉄道公社(SNCFS)の総裁と随行員が同乗していたが、全員、無事だった。
車両の脱線は、特に7月~10月の雨季の時期に発生しやすいと言われている。
同じ年の5月22日にも、ダカール近郊のジャムニャードで脱線事故があり、12人が死亡し、210人が負傷している。
(2000年7月3日付新聞『Dakar Soir』) (筆者訳)


ダカール・バマコ鉄道はダカール港の機能と発展に不可欠なものであり、セネガル経済の活性化は、ダカール港の発展にかかっている。
しかしながら、ダカール港は、鉄道輸送のスピードの遅いことや線路の老朽化による悪影響をまともに受けていた。
マリに向かう貨物の輸送量は、ダカール港の全輸送量の15%にあたり、5年前までは、この輸送量の75%が鉄道によって行われていた。現在は、鉄道が運休しているため0%である。このため、マリへの輸送はすべてトラック輸送となっている。一時、トラックによるピストン輸送で国道がめちゃくちゃな状態になったが、現在はかなり修復している。

新しい鉄道が建設されれば、ダカール港の競争力は隣国の港に比べはるかに高まることになる。
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