カイ駅Kayes : 6時15分着/7時08分発 (3時20分/3時55分)
列車が停まり、車両同士がぶつかり合う音で目が覚めた。
発着予定時刻からすると、約3時間の遅れだった。国境警察でかなりの時間をロスしたと思う。
ここからはマリだ。
車掌からこの駅で入国スタンプをもらうように言われたのを思い出し、半分眠りながら列車を降りた。
遠くの地平線が明るくなり始め、森が黒いシルエットになっていた。
列車を降りた乗客はどこにもいなかった。
入国スタンプをもらうためにどこに行けば良いのか全く分からなかった。
それに、この間に列車が発車してしまったらどうするのか?と不安になった。
すると、幸運にも男の人が暗闇の中を歩いて来た。
「国境警察の事務所はどこですか?」と僕は尋ねた。
男の人は、一見怖そうな顔をしていたが、「追(つ)いておいで」と言って僕を案内してくれた。
無事、国境警察の事務所に着くと、男の人は係官を探しに行ってくれた。(助かります!本当にありがたいです!)
男の人は係官を連れて来ると。そのまま行ってしまおうとしたので、僕は握手をし、丁寧に御礼の言葉を述べて別れた。
係官に「バマコ行きの列車は何時に出発しますか?」と聞くと、「6時45分までは出発しない」と言われた。それを聞いてちょっと安心したが、念のため、早めに列車に戻っておいた方が良いと思った。アフリカは何があるか分からない。
係官の仕事はゆっくりだった。スタンプがなかなか見つからなくて、見つけるのに時間がかかった。ボールペンで書類にサインをしようとしたら、そのボールペンのインクが切れたのか、書けなかった。ちょっと焦ってきた僕は、持っていたボールペンを渡そうとしたが、係官は新しいボールペンを見つけ、書類にサインをし、入国スタンプを押した。(ばんざーい!終わった!)
パスポートを引き取り列車に戻ろうとしたら、車掌がいたので、いつ列車が出発するか聞いてみた。車掌によると「出発は1時間後くらい」ということだった。
国境警察の係官の言うことは正しかった。疑ったことを恥ずかしく思った。
僕は駅に戻って、カイ駅の駅名の看板の写真を撮った。
辺りは徐々に明るくなり、夜が明け始めていた。
充実した長い1日が終わったような気がした。
コンパートメントに戻ると、男性2人がチェスをしていた。
隣のコンパートメントから赤ちゃんの泣き声が聞こえた。
アフリカのパワーを感じさせる元気な泣きっぷりだった。
窓の外を見ると、線路沿いにコスモスのような白い花が咲いていた。
朝の透明な光の中を列車がゆっくりと動き、窓の景色が横に流れ始めた。
徐々に車輪の音が大きくなっていく。
マリに入って風景ががらりと変わった。
岩肌が多く現れ、あたり一面、岩山という場所があった。
トイレに行ってみた。
半畳ほどの部屋に、小さな西洋式便器があった。黒い便座がついていて、覗くとすごいスピードで走る枕木が見えた。意外ときれいだったが、長年使っている古さを感じた。
実際に使ってみると、車輪の振動と列車の横揺れで、落ち着いてできなかった。
水洗式ではないので、用を足した後、水は出なかった。
列車の横揺れによろけながらコンパートメントに戻った。
ここまで来たら、鉄道の旅はもう終わりだな、と思って地図を見ると、今来た距離とおなじくらいの距離がバマコまで続いている。まだまだたっぷりと鉄道の旅を味わうことができるのだ!もっともっとこの旅が続いて欲しい。
ジャムー駅Diamou :8時08分着/8時15分発
ンジャンぺを売っているおばさんがいた。
ンジャンぺは、たわしのようなもので、セネガルでは、あかすり、ボディブラシ、食器洗いのスポンジとして用いられている。
ウチワヤシの繊維で出来ている。
列車が進むにつれて、隆起した岩山と頻繁に出会うようになった。
しばらく行くと、軍艦の形をした巨大な岩が宙に浮かんでいるような場所を通った。
とても神秘的な風景だった。
ガルゴ駅Galougo:9時14分着/9時15分発
列車は、セネガル川の源流である、バフィング川の支流を渡る。
バフィング川の支流に睡蓮の花が見えた。セネガルでは、睡蓮の胞子を使ってクスクスを作る地方がある。(『チェレ・ジャッハル(睡蓮のクスクス)』参照』
マヒナ駅Mahina :9時53分着/10時08分発
マヒナ駅は植民地時代に行政的な理由により建設された。
窓の下に、物売りが来た。物を売る情熱・エネルギーがすごい。商魂たくましいおばさんたち。
駅に降りて、駅の周囲の写真を撮ろうとしたら駅員に注意された。しかたがないので駅名の看板だけ撮った。
スムスムという果物を買った。日本では「バンレイシ」と言っているらしい。お釈迦様の頭の形に似ているところから、別名、「釈迦頭(シャカトウ」とも言う。1個50FCFA(約10円)。
ゴヤブやマンゴスチーンの味に似ていて、甘くとろりとした味。
中にある黒いタネを一緒に食べ、果肉を食べたら、口の中で溶かすように食べると、タネが外れ、甘みがじゎーとあふれ出てくる。最後にタネだけを吐き出す。
マヒナ駅を出て、しばらくするとバフィング川を通過。鉄橋は1895年に完成した。
バフィング川はさらに6km北上し、バコイ川と合流してセネガル川になる。バフラべ村が近くにある。(『セネガル川の水源を求めて』参照)
「バフラべ」とは、バンバラ語で「2つの川の出会い」と言う意味。
バフィング川の水源を訪れたことがあるが、あの小さな泉がこんなに大きな川になっているなんて、ただただ感動!恐るべし自然の力!
列車がどこか分からない小さな村で突然止まり、幾人かの人が降りて行った。駅は無いのに、好意で列車を止めてやったのだろうか?
ウアリア駅Oualia:11時18分/11時21分発
植民地時代、ワアリア駅は行政的な理由で建設された。
駅を出て、しばらくすると山が見えてくる。セネガルではほとんど山を見る機会がないので、山を見ると、なぜかホッとする。
ファンガラ駅Fangala:12時7分着/12時9分発
ファンガラは木材の集積地として有名。
物売りからインニャムを買って食べる。インニャムは、キャッサバのことで、ゆでて塩をかけて食べるととてもおいしい。
その他、いろいろな物売りがいた:
ピリ辛ソースの肉団子。
ゆでたキャッサバ
ローストチキン
ローストビーフ
ゆでたまご
バナナ
ジューシーなマンゴ
落花生
眠気をさますためのコーラの実
ファンガラ駅を出ると、灌木が多い風景に変わってくる。
車内の通路に立ってぼーっと窓の外を見ていたら、隣のコンパートメントのおばさんから、「カーイ・レックKaay Lek (食べに来なさい」と、食事に誘われた。
西アフリカの人達は、国民性なのか、宗教的習慣なのか分からないが、自分が食事をしていて、食べていない人がいると、その人に必ず「カーイ・レック」と言って声をかける。それは決して義務的ではなく、心から自然に表れる行動である。
持って来た、「バッシュ・キ・リVache qui rit」のチーズ1箱を差し入れて、お呼ばれすることにした。
チェブ・ヤップ(肉の炊き込みご飯)と鶏のソテーを、セネガルの人たちと同じように手を使って食べた。肉汁がごはんによく浸み込んでいてとてもおいしかった。
日本の列車では見られない風景である。
みんなと一緒に食べながら、みんなと家族になったような気がした。
おばさんの話によると、弟と義理の弟と一緒に、カイのおばあさんの葬式に行った帰りとのこと。
トゥコト駅Toukoto:12時45分着/13時42分発
フランスの植民地時代、西アフリカで最初の鉄道員養成学校があったが、1952年に閉校となった。
焼肉(1袋、200FCFA, 300FCFA, 500FCFA)とミントティー(1杯50FCFA)を売っていた。
脂っこい肉を食べたあと、ミントティーを飲むと口の中がスッキリする。この二つがセットで店を出している心遣いがすばらしい。
プラットフォームで駅員たちが和気あいあいに昼食を取っていた。こういう風景は日本ではなかなか見られない。(写真は敢えて撮らなかった)
みんな、おなかが一杯になって出発進行!
遠くに、貫禄がある岩山が見えてきた。この辺には形の変わった岩山が多い。
ウチワヤシが群生している場所を通った。セネガルでは、チェスの近郊にウチワヤシの林がある。マリでも見ることができるとは思いもよらなかった。
ウチワヤシは、ウォロフ語で「ロンRon」、フランス語で「ロニエRônier」と呼ばれ、果実は「コニーKoni」と呼ばれている。
コニーは、白色のゼリー状で、特に味は無いが、ひんやりとして食べると清涼感があって気持ち良い。ほのかに松脂の匂いがする。
木はノコギリで切れないほど硬く、家具などの材料になる。
樹液で発酵酒が作られる。
葉は、ござ、かご、ほうき、たわし(ンジャンぺ)などの材料として用いられる。
通路で、おばさんが窓からゴミを捨てていた。床にはごはんが散らばっていた。
乗務員が掃除にやって来たが、特におばさんに文句を言うこともなかった。車内でこういう事は当たり前なのかと不思議に思った。
バルリ駅Balouli:14時22分着/14時27分発
植民地時代、バルリ駅は軍事的理由により建設された。
小さな女の子が突然通路にやって来て、僕を珍しそうに見ていた。
多分、プル族の少女だと思ったので、プル語で「バッダ?(こんにちは)」と
声をかけると、恥ずかしそうにうつむいてしまった。
残っていたバナナをあげると、急いでどこかに走っていなくなってしまった。
キタ駅Kita:15時00分着/15時16分発
キタ駅は植民地時代、経済的理由により建設された。
イスラム教やキリスト教が入って来る以前に、キタはマンディングの巡礼地の聖地と見做されていた。
キタは2つの集落が合併してできたと考えられている。
集落の1つはガーナ帝国のワガドゥグ出身のトゥンカラ商人が設立し、この集落の首長ジュナ・トゥンカラは、「3本のシアバターの木」を意味する、セジュサバSediousabaと名付けた。もう一方の集落はギニア出身の商人、シエマ・トロバ・カマラが13世紀に設立したファタリFataliで、後に2つの集落は合併し、リンゲコトLinguékotoとなった。
もの売りからゴヤブを1個買う。50FCFA。
ゴヤブは、「グアバ」のことで、マリ産のゴヤブはダカールのゴヤブよりも大きく、酸味が少なく、とてもおいしい。少し、青臭い味がするが、それが野性的で自然な味を感じさせる。
グアバジュースは、果物ジュースのなかで最もビタミンに富む飲み物で、葉を用いたグアバ茶は高血圧に有効と言われている。
ゴヤブには、いろいろな種類がある。外皮が緑色、赤色、黄色のもの。果肉がピンク色、白色、黄色のものがある。
1つのゴヤブにはゴマ粒大の種が100~500個入っているが、そのまま食べることができる。種が小さいので鳥によって伝播しやすく、熱帯の離島に野生化した林もみられる。
紀元前800年にペルーのインディオがすでに果実を利用していたという。
グアバは、「果実」を意味するスぺイン語の「グアヤバGuayaba」に由来する。
アイスクリームやシャーベットにも利用され、ダカール市内にある《キャフェ・ドゥ・ロームCafé de Rome》の「ゴヤブ・シャーベット」はお勧め。
サトウキビやふかしたサツマイモを売りに来たが、買わなかった。
キタ山には洞窟や岩絵がある。いつか機会があれば見に行ってみたいものである。
バディンカ駅Badinko :15時46分着/15時48分発
バディンカ駅に着くと、ホームでソッチュが売られていた。
ソッチュは、ハミガキ用の木の棒で、タマリンドやスンプやウェレッグなどいろいろな種類の木の枝を用い、味も違う。歯を磨くというよりも、むしろ、ソッチュで歯茎をマッサージしているようである。
セベコロ駅Sébékoro:16時15分着/16時20分発
美しい夕焼けを見ることができた。アフリカの夕焼けはとても美しい。
カサロ駅Kassaro:16時32分着/16時40分発
凝乳(ヨーグルトの一種)が、ひょうたんを半割にした容器に入っているのはどこも同じ。ひょうたんの容器に入っていると、いかにも伝統的な飲み物に見えておいしそう。プラスチック製の容器だとちょっと興ざめしてしまう。
ネガラ駅Negala:17時28分着/17時30分発
ネガラ駅は植民地時代、軍事的理由により建設された。
少年がセップを売っていた。
セップはネべダイの木の根で、マリの特産品。水を保存するカナリに入れると、水の味が良くなると言われている。
ネべダイ(モリンガ)の木の根は、水の浄化作用がある。
根を杵でつぶしたものを水に溶かし、それを約30分間かき混ぜた液を、淀んだ水などの浄化したい水の中に流すと、2~3時間で凝集・凝結が起こる。残滓を底に残しながら水が入っている容器をそっと傾けると、きれいな水だけを取り出すことができる。この効能ははるか昔から知られていたが、おそらくこれは、他の木の周辺の雨水が淀んでいたにもかかわらず、ネべダイの木の下の水だけ澄んでいたことから発見したものと思われる。エジプトでは、Shagara al rauwaq(浄化する木)と呼ばれている。
ディオ駅Dio Gare:17時52分着/17時57分発
ワッサンベという、サツマイモかタロイモかキャッサバのようなものが売られていた。
先頭を行く機関車から煙が出ていて、ススのようなものが目に飛び込んできた。石炭車なのだろうか?
カティ1駅Kati 1 :18時18分着/18時40分
Bamakoから15kmのところ。
駅に着いた時は、あたりはすっかり暗くなっていた。
カティ駅は植民地時代、軍事的理由により建設された。
カティという名前は、バンバラ語の「カティゲレニKatigueleni」に由来する。これは、16世紀末にカティを建てた、戦士の大将、コネ・ブラマKoné Bouramaの性格「頑固な人」に因る。
1886年、フランス軍はカティにセネガル狙撃兵の第2連隊を設置した。実際には、その多くが、ブルキナファソ、マリ、ギニア、コートジボワールから集まって来た兵隊だった。
カティ駅を出て、列車は真っ暗な闇の中を、ゆっくりと走った。
空には月が輝き始めた。
この月は、「あはれ」な月ではなく、イスラム的な月のように感じた。コーランに詩のように美しい章句がある:
太陽と朝の輝きにかけて、
その後に継ぐ月にかけて、
(太陽を)明るみに出す真昼にかけて、
(太陽を)包み隠す夜にかけて、
大空とそれを建て給う者(アッラー)にかけて、
大地とそれをうち拡げ給う者(アッラー)にかけて…
(『コーラン 91章「太陽」』 井筒俊彦訳)
バマコに近づくにつれ、線路沿いの道路を走る車やバイクのヘッドライトが目に飛び込んできた。
遠くに、街の灯がゆれ、都会の賑わいが伝わってきた。もうすぐバマコだ。
バマコ駅Bamako :19時02分着 (15時22分着)
19時02分、恐れていた脱線事故もなく、無事バマコに到着。
駅の外は照明がなく暗かったので、バマコ駅の正面の写真は翌朝撮ることにした。
バマコは、バンバラ語で「ワニの川」という意味。
バマコには、3つの「枯れ川」が流れ、ニジェール川に流れ込んでいる。
ワニはバマコ市の守り神として敬われ、紋章になっている。
かつて、処女の娘が毎年ワニの生贄となっていたと言う。
1960年~70年代、主に鉄道員で構成されていたライユ・バンドRail Bandeというオーケストラが毎晩、バマコ駅のル・ビュフェ・ドゥ・ラ・ガールLe Buffet de la Gareで演奏していた。マリのミュージシャン、サリフ・ケイタとモリ・カンテは、このバンドに参加し、ヴォーカリストとして活躍していた。
2024年のパリ・オリンピックの開会式で歌った、アヤ・ナカムラはバマコ生まれ。
約3時間30分の遅れは、30時間の長旅からすると、十分に許容範囲内に収まっていると思う。ある意味では、「奇跡」と言える。
パスポート・コントロールでの待ち時間を差し引くと、列車の走行の純粋な遅れはあまりなかったと言える。個人的には合格点をあげたい。
思ったよりハードな旅ではなかった。
グルメの旅があり、歴史の旅があり、人々との交流がある人情の旅でもあった。
列車がバマコが近づくにつれ、僕は「旅よ、終わらないで、終わらないで」とずっと心の中で願っていた。
帰りは、筆者の仕事のスケジュールの都合で、ダカールまで一気にエール・アフリックで帰ってきた。所要時間は2時間だった。
FIN
マリでは、鉄道のことを「大地を走る金属製のピローグ(小舟)」と言われている。
かつては、この地方に豊富な金や鉄を、ダカール・ニジェール鉄道で輸送していた。
カイという名前は、ソニンケ語で「雨季に洪水になる低地」を意味する「カレKharé」に由来する。また、自生していたウチワヤシ「カイエKhayé」に由来するという説もある。
カイは、気温の上昇を引き起こす鉄分を多く含む山々に囲まれ、年間平均気温が30℃と非常に高く、4月の最高平均気温も44℃を記録するため、「アフリカの圧力鍋Cocotte-minute de l’Afrique」と呼ばれている。アフリカで最も暑い都市の一つとされている。
フランスが進出してくる前は、カイは小さな村だった。フランスの内陸進出のためにダカール・ニジェール鉄道の建設が計画された際、セネガルとの交易ための拠点がこの地域に必要となったため、1881年にカイの町が建設された。
この年、カイとニジェール川との間に《メートル軌間》の線路の敷設工事が開始され、1890年に蒸気機関車がバフラベまで走った。
セネガル川は増水期にカイまで船舶の航行が可能なことから、カイは重要な都市となり、1892年にフランス領スーダンの首都となった。やがて、1904年に、より奥地にあるバマコに遷都され、カイ・バマコ間の線路が開通した。
チェス・カイ間の鉄道建設は、1907年に開始されたが、第1次世界大戦で一時中断され、最終的に1923年に完成した。
第2次世界大戦の初め、フランス国立銀行は、備蓄の金が敵国に取られることを恐れ、まず、ダカールに金を輸送し、そして900km離れたカイまで鉄道で運んだ、と言われている。