ダンス

《舞踏界のレジェンド》

ジェルメヌ・アコニ Germaine Acogny

1944年ベナン生まれ。現代アフリカダンスのパイオニアの一人。

1977年~1982年まで、サンゴール初代大統領によって創設されたダンス・センターを率い、モダンバレエを教えた。

その後、ブリュッセルに本拠地を置くモーリス・ベジャールのバレエ団に参加。世界中で創作ダンスを披露し、アフリカ・ダンスに関する講演を行う。モーリス・ベジャールの《黒人娘Fille noire》と呼ばれていた。

セネガルに戻り、1999年5月、ダカール郊外の小さな漁村トゥバブ・ジャラウToubab Dialawに、「アフリカ伝統・現代ダンス国際センター」(通称《砂の学校 Ecole des sables 》)を開設。セネガル、コンゴ、ルワンダ、モザンビーク、カメルーン、チャドなど、アフリカおよびその他の国々のプロダンサーを育成し、伝統ダンスおよび現代ダンスの発展に尽くした。

ジェルメヌ・アコニの言葉:「芸術に国境はない」

トゥバブ・ジャラウにあるダンス・センター

モーリス・ベジャール Maurice Béjart

(Wikipediaより転載)

ダンスに愛と革新をもたらした、20世紀を代表する天才振付家。

ベジャールにはセネガル人の血が流れている。

ひいおばあさんはセネガルのゴレ島出身のファトゥ・ジャンヌで、フランス植民地軍の軍人との間に1866年に男の子をもうけた。その子は将校となり、ブルターニュ出身のフランス女性と結婚し、セネガルのサン・ルイでガストン・ベルジェ(=モーリス・ベジャールの父)が生まれた。

父ガストン・ベルジェのヒストリー

ガストン・ベルジェは、14歳の時、両親が離婚し製油工場で働き始めた。18歳になる直前に、フランス軍隊に志願兵として入隊。終戦後は、製油工場に戻って働くが、哲学を学ぶ夢を捨てきれず、25歳の時、バカロレア資格のための受験勉強を始め合格。エクス・アン・プロヴァンス大学哲学科に入学する。

その後、世界的に著名な哲学者となり「光は影を照らすのではない。影を溶かしているのだ」という有名な言葉を残している。

我が子モーリス・ベジャールから、ダンサーになりたいと言われた時は、「もしダンサーになりたいなら、私はおまえを援助しない。自分ひとりでやってゆきなさい」と答えたと言う。

1960年、自動車事故で亡くなる。

セネガル政府は、ガストン・ベルジェの功績を称え、1990年、サン・ルイに「国立ガストン・ベルジェ大学」を創設した。

モーリス・ベジャールのヒストリー

1927年マルセイユに生まれる。子供の時の愛称は「ビム」。

7歳の時、母親が亡くなると、かかりつけの医師から「心身共に強くなるために、バレエを習うよう」勧められた。

14歳からバレエを始める。

最初は、クラッシックのダンサーとして、ロンドンやパリで活動。

21歳の時、ローラン・プティのバレエ団、⦅バレエ・ドゥ・パリ⦆で活動。

1961年、ラヴェルの曲『ボレロ』に振付けをし上演した。その『ボレロ』は、映画『愛と悲しみのボレロ』(1981年)の中でジョルジュ・ドンが踊り、大きな話題を呼んだ。

1977年、ダカールに、芸術学校Mudra Afriqueを開校し、1982年までの5年間、アフリカ現代ダンスのダンサーを養成した。

演劇や文学など、あらゆる分野の表現をクラッシック音楽やロックミュージックと融合させ、世界の観客を魅了していった。

シャンソン歌手のバルバラとジャック・ブレルと親交があり、二人のシャンソンからインスピレーションを得て、曲に振付けをしている。

親日家で、何度も来日し、東京バレエ団のために、日本の歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』を基にした『ザ・カブキ』や、三島由紀夫をテーマにした『M』などを振付けている。

晩年、ルモンド紙のインタビューにこう語っている:

「私は多くの宗教指導者と出会っています。禅師弟子丸泰仙は、私に剣道を教えてくれました。私が創立したルードラというダンス学校では、演劇、声楽ばかりでなく、日本では武芸の基本とされている剣道も教えています」

「1970年代初頭に、イラン人のオスタド・エラヒOstade Elahiの勧めでイスラム教に入信しました。厳格にイスラム教の戒律に従い、1日5回のお祈りをし、酒も飲んでいません」

「私の祖父は第1次世界大戦の時、19歳でセネガル狙撃兵として出兵し、トルコの前線にいました。確かに、私にとって私の黒人の血は次第に重要になっています。年をとるにつれ、少年時代に回帰してゆきます。最近の出来事より私の青春時代をよく思い出します」(筆者訳)

2007年11月22日にこの世を去った。亡くなる直前にスイスの国籍を取得したが、むしろ30年ちかく住んでいたベルギーの国籍を切望していたらしい。セネガルの国籍は一度も申請したことがなかったという。

ベジャールの言葉:「一見無益と思われるものは、より有益である」

ベジャールのバレエにおける創造力は無限だった。ダンスのDNAは、ひいおばあさんからベジャールにもしっかりと受け継がれていた。

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最後のレッスンの日、モーリス・ベジャールのバレエ団の団員だったコモロ諸島出身のダンサーも加わった(写真下 左端)。

チェブジュンのダンスを一緒に踊ったが、筆者のジャンプ力が弱いためか、女性達がまだ空中に浮いているのに、若かりし頃の筆者はすでに着地している。(トホホ…😢)

《参考文献・Webサイト》

・『ヒューマニエンス』NHK BSP

・『世界探検全集 第五巻 アフリカ探検 上』(萬里閣書房版)

・『ハンノの航海史料に関する一考』楠田 直樹 

・『航海の記録』カダモスト 河島英明 訳 (岩波書店)

・『ジャン・ジュネ』朝吹 登水子 ジャン・ジュネ全集1 付録1   (新潮社)

・『Dictionnaire insolite du Sénégal』Christophe Parayre  (COSMOPOLE)

・『Maurice Béjart, 50 ans d’enfance』27/11/2004 Le Monde Edition internationale

・『Maurice Béjart 』Sympa Juillet/Août 1994

・『ベジャール、バレエ、リュミエール』ガーデンシネマ・イクスプレス第108号

・『ダカール大学客員教授 セネガル滞在日記』鈴井宜行 (揺籃社)

・『サルサ ラテンアメリカの音楽物語』スー・スチュワード (アスペクト)

2件のコメント

冒頭の絵がゴーギャンの色彩に似てて面白い。
ジェンベのリズムを聞いて、ダンスの雰囲気が伝わってきました。
残念ながら私は歳なので飛び上がる事はできません。

コメントありがとうございます。
ジェンベのリズムで自分が好きなように踊れば良いと思います。
踊ると、気分が爽快になります。

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