セネガル川の水源を求めて

筆者は、セネガルに滞在した際、連休を利用して大きな旅を3回しました。

・《セネガル川の水源を求めて》

・《ダカール/バマコ鉄道横断の旅》

・《ダカール/ジゲンショール船の旅》

今回は、この中から、《セネガル川の水源を求めて》を御紹介いたします。

セネガル川の水源はギニア共和国にありますが、そのギニア共和国の降水量はアフリカ有数で、ニジェール川もガンビア川も水源がギニアにあるため、西アフリカの「水がめ」(正確には、シャトー・ドーChâteau d’eau《高架水槽または貯水槽》)と言われています。

尚、水源とは関係ありませんが、サハラ縦断塩金交易の時代、ギニアで採れた金は塩と交換され、ベルサイユ宮殿の「黄金の間」に使われたそうです。

【セネガル川の水源を求めて】

セネガル川は長い間、エジプトのナイル川の支流と考えられていた。

紀元前500年頃、古代カルタゴのハンノは、第3回の遠征の際に、「クレテスという大きな河を発見し、河口からさらに奥に進んで行くと、野獣の皮を身にまとった野蛮人が石を投げつけてきて、我々の上陸を妨げた。そこで航行を続けると、カバやワニがたくさん棲んでいる、大きく広い別の河口に到達した」と報告している。

楠田直樹名誉教授によると、クレテス河は、セネガル川のことで、アリストテレスの述べる大西洋に流れ出ているクレメテス河と一致し、当時はナイル河の支流だと考えられていた。

アフリカの西海岸を航海するハンノの艦隊
(『世界探検全集 第五巻 アフリカ探検 上』より転載)

スペインのアンダルス地方ウエルバ出身の地理学者、アル・バクリー(1014頃~1094)はその著『黒人達の国の概要』の中で、『黒人達の町は、Sanghana(=セネガル)と呼ばれ、ナイル川によって2つに分かれている』と記述している。このナイル川は、当時、エジプトのナイル川の支流だと信じられていたが、実際にはセネガル川のことである。

1375年作成の『カタロニア地図』には、ナイル川がアフリカ大陸をエジプトから大西洋に向かって横断している。

カタロニア地図

フランスの探検家、クロ-ド・ジャンヌキャン(Claude Jannequin)は、セネガル川を小舟でさかのぼることを試みた。

「フランスでは1637年クロ-ド・ジャンヌキャン(Claude Jannequin)の一行が船に乗ってセネガル河に向かった。当時は、この川の上流がニジェール河だとも思われていたからである。彼等は、その川を遡るボートをつくるために、ブランコ岬の北、サハラ砂漠の岸に上陸した。それはアフリカの海岸でも最も砂の多い乾ききった荒涼たる地方であって、ここそこに湿った谷はあっても、そこの住民は上陸したものを奴隷に売ったり、使ったりするので有名なところである。彼等が何故、このようなところに上陸するの大愚を敢えてしたかは、想像に苦しまざるを得ない。そこには木も水もなかった。彼等はさらさらした砂山に井戸を掘ったが水の出る筈がなかった。そのうちに砂山の向かう側から、獰猛な一隊の土人が這い上がって来た。しかし土人たちは、白人を怖れて近寄らず、矢で射取った魚を示して、タバコやブランディと交換することを望んだ。一行は安全な距離に、交換すべき商品を運んで並べたところ、土人は魚をそこに置き、商品を持って逃げて行った、漸く、本国から持って来た木材で小舟をつくり、セネガル河を遡った。

しかしセネガル河の船行は、今でも非常に困難である。雨期には下流一帯は一面の沼地となってマラリヤの息を吐き出す。その水があふれてできた湖水は、あらゆる野獣の水飲み場となる。ライオン、象、豹、ハイエナ、キリン、猿、すべて渇になやんで、そこに集まってくる。乾期になるや否や、川の水は蒸発して、ところどころで川を横断する砂山や岩礁の自然の堰にたまった水のほかは一滴もなくなってしまう。しかしジャンヌキャンの一行には、そんなことはわからなかった。彼等はまた、レオの著書にかいてある、あの大きなニジェール河の下流としては、あまりに水量が少ないと思ったかもしれないが、何分、地理学の進歩しない時であるから、深くそれを気にとめなかったらしい。そして、川が曲がるごとに、ティンブクトゥの黄金の屋根が見え出しはしないかという期待に胸をとどろかした。しかし緑濃き熱帯のジャングルと、その間を飛びまわる美しい鳥が、彼等の眼を驚かすだけであった。上るにしたがって、土人たちは、また交商を求めたが、ブランディは望まなかった。彼等はそこに一軒の小屋を建てた。これが、今日のフランスのセネガル植民地の標柱となったのである。そのうちに、気候が次第に悪くなって、彼等の健康をおびやかしたので、もっと気候のよい内地に小船を進め、海岸から210マイルほど遡ったが、それ以上に船行が不可能となり、船員も帰国を欲したので、ジャンヌキャンもそれに同意して船をかえした。彼は地理学的の話しは何も持って来なかったが、フランス植民地の開祖として永久に記念されている。彼は帰国の途、当時無人島であったセント・ヴィンセント島に漂着したフランス船の船員が、数週間、海亀で露命をつないでいたのを救った」(『世界探検全集 第五巻 アフリカ探検 上 黄金の都ティンブクトゥ』より引用)

1796年にニジェール川に達した探検家のマンゴ・パークは、旅行記『マンゴ・パークのアフリカの旅』の中で、セネガル川について次のように記述している:

「日没すこし前に、セネガル川の岸辺に沿ったサミーの町に到着した。川はここでは美しいが、浅く、砂と砂利の上をゆっくりと流れていた。川の土手は高く緑におおわれ、土地は広く開けて耕されており、フェロウとバンブーク岩の多い山々がこの風景に一段と美しさを加えていた」(『ニジェール探検行』マンゴ・パーク 森本哲郎・廣瀬裕子 訳)

セネガル川

全長:1.750km   流域面積:337.000km2

世界で75番目に長い川

上流部はギニアに発するバフィングBafing川とバコイBakoy川で、マリのバフラベBafoulabéで合流してセネガル川となる。セネガル川は北西に流れ、セネガルとモーリタニア両国の国境となり、サン・ルイSaint-Louis州の州都サン・ルイで大西洋に注ぐ。(Wikipedia より)

サン・ルイから275km上流のポドールPodorとの間は1年中、また、8月から10月までの増水時にはさらに660km上流のマリ領カイエスまで航行できる。

観光ガイドブックには、セネガル川の水源は、ギニア共和国のフータ・ジャロン地方にある、と書いてあった。

ジャンヌキャンのように、セネガル川を小舟で遡って行くことは不可能なので、筆者は《楽をして》、ダカールからコナクリまで飛行機で飛び、コナクリから陸路、車で水源に向かうことにした。

ただ、セネガル川の水源に関する詳細な情報は何もなく、詳細な旅の計画を立てることは出来なかった。

そうこうしているうちに、連休が間近に迫ってきたため、見切り発車で、とにかくギニアに行くことにした。後は、野となれ山となれ、現地で正確な情報を集めるしかない、と決めた。

出発前日。ギニアに滞在したことがある、Japan Technoの末広直子さんから、「セネガル川はギニア国内ではバフィングBafing川という名前で流れていて、源流を地図でたどると、マムーMamouに到達する」という貴重な情報が寄せられた。これで、一歩、水源に近づいた気がした。

4件のコメント

セネガル河の水源を求めて!まで楽しい✨旅を体験?させて戴きました
BSでも観ることのできない貴重な映像や思いがけない楽しい出会い優しい詩であり、心やすらぐ情景苛酷な旅なのに感動の時を有難うごさいました

コメントありがとうございました。

セネガ川の水源までの道のりで出会った自然の中に
読者が入り込んだような気持ちになるように
記事を構成してみました。

能登地方大地震のような自然災害があると、いつも思い出すのは
長老の言葉です:

「人間は自然の子どもだが、自然は人間の子どもではない」

これからもよろしくフォローお願いいたします。

先ほどかきましたが

今回のはメールアドレスが変わりましたので不時着かな?

すみませんでした。
我が家のインターネットが接続されていませんでした。
田舎にいるとこのようなことがしょっちゅう起こります。

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