セネガル相撲

《闘技場の王者》

セネガルには、下記のように毎年いろいろな相撲の試合があり、《殴り技のない伝統相撲》もあれば、《殴り技を伴う相撲》もある。

これらの相撲大会で優勝した力士をチャンピオンと呼んでいる。従って、1シーズンに複数のチャンピオンが誕生することになる。

・大統領旗争奪戦Drapeau Chef d’Etat
・スポーツ大臣旗争奪戦Drapeau, Matar Bâ, Ministre des Sports
・国会議長旗争奪戦Drapeau du Président de l’Assemblée Nationale
・ダカール市長旗争奪戦Drapeau de Mairie de Dakar
・Ndef Leng旗争奪戦Drapeau de Ndef Leng
・ンドンゴ・ロー旗争奪戦Drapeau Ndongo Lô
・ガストン・ンベング旗争奪戦Drapeau Gaston Mbengue

1986年、旧相撲連盟は、《闘技場の王者》という相撲選手権を開催した。

その際、マンガⅡ 、モル・ファデム、トゥバブ・ジョールのチャンピオン級の3人の力士でトーナメント戦を行うことを決定した。マンガⅡはトゥバブ・ジョールを倒したので、もしマンガⅡがモル・ファデムを破ったら、マンガⅡに《闘技場の王者》の称号を与える、と旧相撲連盟が決定した。

モル・ファデムとトゥバブ・ジョールの試合は引き分けとなり、決勝戦で、マンガⅡがモル・ファデムに勝ったため、旧相撲連盟の決定通り、マンガⅡが初代《闘技場の王様》となった。

《闘技場の王者》のタイトルを与える明確な基準はないようだが、目安として1シーズンに2~3回チャンピオンになり、華々しい成績を収めた力士が《闘技場の王者》に挑戦し、勝利すると、《闘技場の王者》となる。

《闘技場の王者》のタイトルは、セネガル相撲の愛好家やマスコミに大変評価されていて、相撲協会に登録している約8000人の力士の頂点に立つことになる。まさにチャンピオンの中のチャンピオンである。力士の才能と強さは並々ならぬものであることに間違いない。

日本では、横綱が2人存在することがあるが、《闘技場の王者》は常に1人しか存在しない。

マンガⅡは、1990年の最初の引退まで、12年間《闘技場の王者》の防衛に成功した。

期間:1986年~1999年
マンガ・ドゥ- Manga Ⅱ

1957年4月12日、長い相撲の伝統を持つ貝殻の島ファディウトゥに生まれる。

本名 イアサント・ンデイHyacinthe Ndaye

エキュリ・セレールに所属。(Hann地区にある「障害児病院」の運動場の片隅で練習をおこなっている)

1970年から80年に活躍。

マンガⅠの後継者で、初代《闘技の王者》となる。

ニックネーム「ファディウトゥの壁」

鋭い足技による防御力。スピードとパンチ力があるが、持久力に欠ける。豊かな相撲経験がある。

国立警察学校の体育科の先生だった。

1976年から相撲を始め、10年間の期間、トゥバブ・ジョールに倒されたことはあるが、負けた試合は少ない。

後進に道を譲るため、早い時期に引退したが、すぐに復活した。
経済的に困窮しているから「復活」したと噂をされたが、実際は、彼の後継者候補の3人の力士が、ムスタファ・ゲイに立て続けに負けたため、その挑戦を受けるためだと言われている。

タイソンに負けた後は、最終的に引退し、CNG(セネガル相撲管理委員会)の副会長になった。

奥さんの話しによると、マンガⅡはダンスが上手で、好きな食べ物はチェレ(トウジンビエのクスクス)。

WebサイトRFIのインタビュー:

RFI :「マンガⅡ」というしこ名はどのように決めたのですか?

マンガⅡ:「マンガⅡ」は、村の老人たちがつけました。私が相撲を始めた時、老人たちから名前を変えるように言われました。そして、当時、「マンガ」という名前のチャンピオンが活躍していたので、そのチャンピオンにあやかって「マンガⅡ」に決めたのです。

RFI : 呪術儀式についてどう思いますか?

マンガⅡ:信仰心の表れだと思います。私は試合がある時は、呪術儀式を真剣にやっていました。村から村を訪ね、マラブーを探しました。あるマラブーは、私にこう言いました:

「家を出たら、これこれ、こういう人、または、双子を産む女性とすれ違いなさい」
私は信頼していたので、それを行い、その結果戦いに勝利することができました。

私が相撲を始めた時は、他の力士たちはグリグリにすがっていて、それはその後もずっと続いていました。私は《闘技場の王者》のタイトルを得ることができたのは、私が信心深かったからだと思います。私は私に立ち向かってくるすべての力士を倒せるという自信がありました。今は、多くの力士が呪術儀式を行っていますが、そのうちの何人かは、本当の《神秘的儀式》ではなく、単なる《民間伝承》のまじないです。

敵であり友人でもある、モル・ファダムが、「マンガⅡと闘うと、試合中ずっと、呪術の影響を感じていた」と嘆いていました。

RFI : 伝統的な相撲は、若い世代に人気がありますが、それは何故だと思いますか?

マンガⅡ:セネガル国民は相撲が好きです。伝統は昔から比べると若干変わっているかもしれませんが、いろいろな世代の人が、自分のスタイルと活力を秘めた力士を応援してくれています。

RFI : 現在、CNGの副会長の職務の中で、優先的に行っていることは何ですか?

マンガⅡ:私の目標は、《殴り技のない伝統相撲》発展させ、外国で相撲を紹介することです。と同時に、《殴り技を伴う相撲学校》の建設プロジェクトの夢があります。Joal Fadiouthとダカールに設立する予定ですが、そこでは、《殴り技を伴う》相撲教育をするのは、もちろんのこと、生徒たちにフランス語をしっかりと教えたいと思っています。なぜならば、多くの力士がフランス語で意志を伝えられないからです。これは重要なことだと思います。

RFI : おなかがまだ出ていますが、不便はありませんか?

マンガⅡ:全然ないです。日本の力士を見てください。私は彼らと同じくらい筋肉質で、体が柔らかです。笑い。

期間:1999年~2002年
タイソン Tyson

本名 モハメッド・ンダオMohamed Ndao

1972年2月3日、カオラック生まれ。(USAから帰国したアフリカ・アメリカ人が多く住むメディナ・バイ地区)

身長 1.99 m  体重 135kg

技・体力・品格3拍子すべてがそろった本格的力士。

カオラックを拠点とするエキュリ・ブル・ファレ所属 (「ブル・ファレ」とは、「向こう見ず、反逆」という意味)

1990年~2010年に活躍。

いわゆる《ブル・ファレ世代 》で、競技場に高級車リムジンで乗り付け、アメリカの星条旗をまとい、今までにはないヘアスタイルで、斬新なダンスを踊りながら、闘技場まで入場行進するという、全く新しいタイプの力士。彼の派手なパフォーマンスに若者は熱狂した。

ゴレ島連絡船の船着き場の職員として働いていた。

カオラックにあるイスラム教ティジャニア教団の一派ニアセン教団の信者。

1997年7月8日、チャンピオンのムスタファ・ゲイを倒す。

その後、モハメッド・アリにKO勝ち。トゥバブ・ジョールを倒し、連戦連勝した。

1999年7月4日、15年間《闘技場の王者》に君臨していたマンガⅡを倒し、2代目《闘技場の王者》となる。

得意技は、相手の足のタックルおよび腰技。

2011年7月31日、タイソンはバラ・ゲイ2に試合開始後30秒で倒された。

ふがいない敗北に怒ったタイソンのサポーターたちは、その夜、ピキン地区にあるタイソンの筋トレルームを破壊し、顔写真がプリントされたTシャツなどを燃やした。マスコミは、《侮辱的な敗北》と酷評し、《神話の終焉》と表現した。

WebサイトAfrik.comのインタビュー:

Afrik.com:相撲界にはいつデビューしたのですか?

タイソン:正直に言いますが、私は相撲には向いていないと思っていました、私は、学校では優秀な生徒で、勉強を続け、法律家になりたかったのです。しかし、当時、大学ではストが続き、1988年は大学の入学がありませんでした。私は高校を中退し、バスケットボールやボクシングをやっていました。1992年から、相撲をやり始めました。当時は、トマトの缶詰の空きかんにコンクリートを入れたものや、自動車のホイールなどをバーベルの代わりにして筋トレをやっていました。1995年に超重量級の力士との試合に勝つと、私の名前が世間で知られるようになりました。

Afrik.com:なぜ「タイソン」という名前をつけたのですか?

タイソン:1990年代に、私はボクシングをやっていて、当時、ヘビ―級の世界チャンピオンだった、マイク・タイソンが活躍していました。私は彼に自分を投影し、彼の名前をつけることに決めたのです。

Afrik.com:あなたがリーダーのエキュリ・ブル・ファレは今や誰もが知っています。この成功は何故でしょうか?

タイソン:ダカール市郊外のピキンにあるエキュリ・ブル・ファレは、スポーツを愛する私の友人に後押しされて生まれました。私達は、最初は、浜辺で練習をしていましたが、その後、他のエキュリとは違った、私達固有の機能的な施設を造りました。始めは、誰も私達のことを真に受けていませんでした。しかし、私が試合に勝利すると、人々の私達に対する見方と考えが変わりってきました。よりモダンで、よりプロフェッショナルなブル・ファレ運動は、人々を魅了しました。私達の闘技場への入場は、いつもアメリカのショーのように壮観です。

私達が始めた「ブル・ファレ」の概念は、「詳細や的外れの問題にこだわることなく、やるべき事をやる」ということで、「Self made man (自分自身の努力で成功や名誉などを手に入れた人)」と言う社会的現象にもなっています。私達のエキュリには始めは何もありませんでした。しかしながら、懸命な努力と神の恩恵により、闇から抜け出し頂点に達したのです。

Afrik.com:1995年から2004年の間、12戦11勝でした。あなたは何が他の力士と違うのでしょうか?

タイソン:努力と規律だと思います。私は幸運にも空手家から相撲を習ったのです。彼は、戦いにおける平常心と敵に対する揺るぎない目つきを教えてくれました。プロになる前は、アマチュア力士としてのデビュー戦で、「攻撃」の意義を学びました。ンバパットで行われた様々な試合で多くの経験を得ました。(ンバパットでは、力士たちに賭けて、お金や食料品を得る人達がいた)。これらの経験が、他の力士たちと違う、私のスタイルを作り出したと思います。

Afrik.com:2002年12月25日のボンバルディエ戦に敗北し、「闘技場の王者」のタイトルを彼に譲りました。スポーツにおける審判の判定は常に問題となりますが、ボンバルディエとの戦いの判定はどう思いますか?

タイソン:人間が行う行動には間違いは避けられません。私のボンバルディエとの試合に関しては、私は完璧に負けましたし、審判の判定は受け入れます。私は判定に疑惑を抱いていません。私が勝利したすべての試合の判定は的確で明瞭でした。判定について改善する余地があるとしても、私は相撲連盟の決定に従うだけです。

Afrik.com:若者達に熱烈に支持されることは、あなたにどのような影響を与えていますか?

タイソン:若者達に支持されていることは、神様に感謝します。彼らの模範になっていると思うとこれからの励みになります。そのため、私は常に健康維持に努めています。私はお酒も飲まないしタバコも吸いません。すべてにおいて、過度なことは控えています。

Afrik.com:試合前の肉体トレーニングはどのようにしていますか?

タイソン:私のトレーニング方法は色々です。セネガルでトレーニングをしたり、時として、外国に行ったりします。1997年には、スペインに行きました。アメリカのマイアミにも行きます。浜辺でジョギングできる場所を優先して選んでいます。それは、力士達の伝統でもあるからです。

Afrik.com:プロの相撲は近代化されました。しかしながら、呪術儀式は現在も残っています。

タイソン:スポーツ的な面は除いて、相撲は、なによりもまず、伝統的なスポーツであるということを忘れてはいけません。民間伝承は大変重要な役目を果たしていると思います。呪術儀式の様式こそが、相撲にスパイスを与えています。スポーツは近代的な人間によって行われていますが、伝統は残らなければならないと思っています。

タイソンの相撲界での貢献は大きい。今まで数千FCFAでしかなかったファイトマネーが数億FCFAになった。また、テレビ局や民間企業がセネガル相撲のスポンサーとなり、有能なプロモーターも現れた。この結果、プロの力士になることを夢みる若者たちが増え、バラ・ゲイ2のようにタイソンを目標とする力士たちもでてきた。タイソンは、伝統スポーツをショーに変え、《殴り技のあるセネガル相撲》をビジネスに変えた革命児と言える。

試合直前の呪術儀式を簡略化し、グリグリはほとんど付けず、おしゃれな髪型をし、ラップ音楽を聴き、4駆を乗り回す。そんな型破りなタイソンに対する若者たちのまなざしは熱く、支持は絶大だ。

期間:2002年~2004年
ボンバルディエBombardier

本名セリンヌ・ウスマン・ジャSerigne Ousmane Dia (《Bombardier》はフランス語で、「爆撃機」という意味)

1976年10月1日、ンブール 生まれ

身長 1m98    体重 150kg

ニックネーム《B52》

エキュリ・ンブール所属

日課は、朝6時起床。浜辺で1時間ジョギング。筋力トレーニングを2時間。その後、夕方まで約3時間、相撲のトレーニング。

酒もタバコもやらない。好きな食べ物は、スープ・カンジャ(オクラとパームオイルの煮込み料理)

2002年12月25日、タイソンを11秒で倒し、2004年3月28日にイェキニに負けるまで、《闘技場の王者》となる。

父親は漁師。本人も元漁師。

小学校では成績が良く、クラスで3度一番になった。小学校を卒業した12歳の時、ピローグに乗り漁師の見習いを始める。慣れて来ると、外洋のガンビア、ギネ・ビサウ、ギニアで漁を行い、ンブールの魚市場で水揚げをしていた。

その日の漁業の仕事が終わると、ボンバルディエたち若い漁師は、浜辺で相撲を取っていた。(ボンバルディエは、ケンカ早く、しょっちゅう喧嘩騒ぎを起こしていたという)

巨漢でテクニックも抜群だった彼は、すぐに目を付けられ、村が主催するンバパット(町や村で夜間行われる殴り技のない伝統相撲の試合)に参加し、立ち向かってくるすべての力士をなぎ倒した。これを見た現在のマネージャーのイエリ・ジャカテYery Diakhatéは、《殴り技のある相撲》を行なうよう勧めた。

彼は、めきめきと頭角を現し、不屈のチャンピオン《タイソン》と闘うことになる。2002年12月25日、タイソンと戦い、KOで勝利する。

ボンバルディエは、メディアのインタビューに対し次のような思い出話を語っている:

「1995年19歳の時、ガンビアの沖合のバカウに漁に出た。私は、いつも港の同じ場所で座っている老人を見て気になっていた。ある晩、漁から帰って来た時、私はその老人に数匹の魚を渡した。すると、ある日、その老人が私を自宅に招いて『あなたは将来、セネガルの国境を越えて有名になる』と言った。私はその時、将来、大きな漁船の船長になると思ったが、そうではなく、結局、力士になった」

2021年10月24日、ボンバルディは、MMA(総合格闘技)に参戦したが、ポーランド人総合格闘家、マリウス・プッツナウスキーの右ストレートをあごに浴び、失神ダウン。KOで完敗。医療スタッフの手当で意識を取り戻した。

セネガルの敏腕プロモーター、ガストン・ンベングは、彼に「もうMMAに出るな。自殺行為だ」とたしなめた、と言う。

マリウス・プッツナウスキー
(Wikipediaより転載)

2004年/2012年
イェキニ Yékini

1974年2月28日、セレール族の多い、サルーム・デルタのバス―ル生まれ。

身長 1.95m  体重  135kg

本名 Yakhya Diop

エキュリ・ンダカルー所属

1990年~2010年にかけて活躍。

16歳の頃、サッカーをやっていたが、ナイジェリアのサッカー選手、ラシディ・イエキニに体格が似ていたため、イェキニと呼ばれていた。相撲を始めた時、その名前を使うことにした。(イェキニは、ヨルバ族の名前で、「勝利の力と心」という意味)

また、レスリングのグレコローマンスタイルの国内代表メンバーとしてアフリカチャンピオンに数回なったことから、グレコローマンのグレコから《ル・グレック(ギリシャ人)》とも呼ばれていた。

18歳の時、ジョアール・ファディウトゥ村に親戚に会いに行った時、伝統相撲大会が行われていた。そこでは、他の地方からやって来たチャンピオンが村の若者たちをことごとく打ち負かしていた。それを見て自尊心が傷つけられたイエキニは、即座にまわしを借り、そのチャンピオンに挑み、倒してしまった。イエキニの向こう見ずと相撲の技術力の高さに驚いた相撲愛好家たちは、将来、彼が必ず偉大なチャンピオンになることを確信し、彼に相撲の道を進むよう勧めた。

⦅殴り技のない伝統相撲⦆で、数度、アフリカ・チャンピオンとなる。

若い頃は伝統相撲がずば抜けて強く、地元のサルーム島では試合をする相手がいなくなったという。

1990年代になると、セネガルの相撲番付を一変させる力士たちが現れる。モハメッド・ンダオ《Tyson》、ザル・ロー(Zale Lô)、バラ・ベイ(Bala Bèye)、イェキニ(Yékini)である。

1996年、22歳の時、運命の出会いが訪れる。

Fatickで行われた大統領旗争奪戦の決勝で、強敵ザル・ローと闘うことになる。その試合を観ていたザル・ローのコーチは、創設したばかりのエキュリ・ンダカルに入るよう誘った。

イェキニはダカールに移り、《殴り技のある相撲》を本格的に開始した。

2004年3月28日、ボンバルディエに勝ち、初めて《闘技場の王者》となる。

2012年4月22日にBalla Gaye 2 に敗れるまで、8年間《闘技場の王者》のタイトルを守った。

WebサイトAfrik.comのインタビュー:

Afrik.com:負けることは恐くないですか?

イェキニ:もし負けることがあったら、それは運命と考えます。そうならないように引退するまで猛練習をします。

Afrik.com:試合の前に、相手に微笑むのはどうしてですか?

イェキニ:試合前は、プレッシャーがあるので、微笑むことでリラックスして、極度の緊張に陥らないようにしています。こうすると、心理的に開放され、攻撃の技に力が増し、勝利につながるのです。

Afrik.com:タイソンとのファイトマネーはいくらですか?

イェキニ:プロ―モーターに支払われるのは、2億FCFA(約4000万円)で、私とタイソンは各々、6000万FCFA(約1200万円)です。

Afrik.com:日頃、どんなトレーニングをしていますか?

イェキニ:朝、ジョギングをして、夕方、チームメイトと筋トレをし、その後、イギリス式ボクシングと伝統相撲の練習をします。

Afrik.com:試合前の呪術儀式はどのようなものですか?

イェキニ:呪術儀式は我々の文化遺産です。精神的指導者が、勝利を保証するお祈りを唱えてくれます。他に、闘技場での成功をお祈りしてくれるマラブーがいます。

2005年に、当時のワド大統領から、その年のベストスポーツマンとして、リヨン・ドール(Lion d’or)を授与された。(ジャーナリストの投票で満場一致だった)

2016年10月17日、引退を発表。

22戦19勝2敗1引き分け。《闘技の王者》のタイトルを8年間8回防衛に成功した。

往年のチャンピオン、ムスタファ・ンバイ・ゲイから、「イェキニは15年間の力士人生で、敗北が無い無敵の王者だった」と絶賛された。

イェキニは最後に、「これでまわしをたたみます。ありがとうございました」と述べた。

2010年に行われた雑誌の読者アンケートでは、「呪術儀式に最もこだわっている力士は誰か?」という質問に対し、1位はイェキニだった。

2012年/2014年
バラ・ゲイ・ドゥBalla Gaye 2

1986年12月4日、ゲジャウエイ、生まれ

本名オマール・サホOmar Sakho

往年のチャンピオン、バラ・ゲイの名前をもらう。

エキュリ・エコール・ドゥ・リュット・バラ・ゲイ所属

ニックネーム《ゲジャウエイのライオン》

2011年7月31日の巨人タイソンとの試合の前に、「オレとお前は比較にならない。オレが目的を達する事におまえは邪魔することはできない」と言ったことは有名。実際、30秒でタイソンを倒した。

2012年4月22日、イェキニを破って、《闘技場の王者》となる。

父親は長年、力士として活躍したドゥブル・レス(Double Less本名ママドゥ・サホMamadou Sakho)。

グレコロマンスタイルのアフリカチャンピオン。

1976年のモントリールオリンピック、1980年のモスクワオリンピック、1984年のロスアンゼルスオリンピックに出場している。

ユッスー・ンドゥールの「Lamb-ji」という歌にインスピレーションを与えた)

15歳の時、往年のチャンピオン、バラ・ゲイが創設したバラ・ゲイ相撲学校に入学(バラ・ゲイ自身が校長兼トレーナー)。両親や周囲の人々は、彼の潜在能力と相撲に対する情熱を知っていたので、彼の選択には誰も反対はしなかった。学校では、父親の友人でもあるバラ・ゲイに大切に育てられた。卒業後、バラ・ゲイ の名前を受け継ぎ、バラ・ゲイ・ドゥと命名された。

卒業後も、チャンピオンになるために必要なすべてのことをバラ・ゲイから学ぶ。そして、本格的に相撲界に入るため、ンバパット(町や村で夜間行われる殴り技のない伝統相撲の試合)に参加し、栄光への道を歩むことになる。

2014年6月8日、ボンバルディエに負け、《闘技場の王者》のタイトルを失う。

期間:2014年~2018年
ボンバルディエBombardier

2014年6月8日にバラ・ゲイ2に勝ち、2回目の《闘技場の王者》となる。

2018年7月28日にウム・セーヌに負け、《闘技場の王者》のタイトルを失う。

期間:2018年~2019年
ウム・セーヌEumeu Sène

1979年2月4日生まれ

身長1.80m  体重115kg

元板金工

エキュリ・タイ・シンガー所属

タイソンの愛弟子

《伝統相撲》の新人戦ンバパット(町や村で夜間行われる殴り技のない伝統相撲の試合)でデビュー。

《伝統相撲》のアフリカチャンピオン戦に2回優勝。

その後、《殴り技を伴う相撲》に転向。

エキュリ・ピキンの期待の新人となるが、2004年にグリ・ボルドーに敗れると、タイソンのエキュリ・ブル・ファレに移籍。

エキュリ・ブル・ファレに内紛問題が生じたため、自身でエキュリ・タイ・シンガー(Tay Shinger )を立ち上げる。

2015年、当時の《闘技場の王者》バラ・ゲイ 2 に勝つと、ボンバルディエに挑戦するが、コロナ禍によりチャンピオン戦が延期された。

2018年7月28日、ボンバルディエを倒し《闘技場の王者》となる。

2019年7月28日、モドゥ・ローに敗れ、《闘技場の王者》のタイトルを失う。

期間:2019年~2022年
モドゥ・ロー Modou Lô

1985年12月28日、ダカール市パルセル・アセニ地区で生まれる。

身長 1m90  体重 110kg

本名 ドゥドゥ・ロー Doudou Lô

ニックネームは、モドゥ・ハランニュ・ローModou Xaragne Lô (ハランニュXaragneは「天才」という意味)

エキュリ・ロック・エネルジー所属

気性が激しく頑固だが、最も人気のある力士の1人。

子供の頃は、内気だったが、けんか早かったという。

小学校6年を《中退》し、コーラン学校に行きながら、左官、溶接工、荷車引きなどの仕事を行う。

19歳から相撲を始め、数多くの試合をしながら鍛えられてゆく。

2019年7月28日、ウム―・セーヌを倒し、第7代《闘技場の王者》となるが、モドゥ―・ローは同年1月にバラ・ゲイに敗れており、ウム―・セーヌに1回しか勝利していないため、《闘技場の王者》として相応しくないとして、正式には認められないという論争が起こった。

その後は、強敵ラック・ドゥ・ギエールⅡやウム―・セーヌを再度倒している。

期間:2022年~
ウム・セーヌEumeu Sène

2022年3月22日、ボンバルディエを倒し、再び《闘技場の王者》となる。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください