《セネガル相撲の黎明期に活躍した伝説の力士たち》
アブドゥラマン・ンジャイ 通称ファラング Abdourahmane Ndiaye « Falang »
1912年、ダカールから東へ35kmに位置するリュフィスク県ジャンデール村の貧しい農家に生まれた。父親はアレ・ファル・ンジャイ、母親はティナ・ンドイ。
父親は、ファラングが生まれた時、「ティナの息子は、いつかチャンピオン」になると予言したと言う。
1935年、23歳でデビュー。
腕は長く、長身で堂々たる体格。しなやかな動きの中で強烈なパンチをくりだす。
闘いの最中の彼は、獲物を鋭い眼で見張るチーターに似ていると言われていた。
バクで、「Lo falang falang dou ma té niew」(俺の行く手を阻む者は退ける《=ファラング》、退ける《=ファラング》)と歌っていたことから、ファラングと呼ばれるようになった。
1935年~1949年の14年間に、150戦148勝。1935年にスレイ・ンドイに負け、1948年にモドゥ・ジャハテ に負ける。この敗北から1年後の1949年に引退し、その後、ジャンデール村の村長を務める。
村長になってすぐに、自分に対し「ファラング」という名前で呼ぶことを禁止した。ある日、自動車の走行許可書の更新をしに町の運輸局に行ったところ、長い行列ができていた。ファラングが列に並んで順番を待っていると、職員の1人が彼を見て、「あなたはファラングではないですか」と言って、走行許可書の更新を直ちにやってくれたという。
自分のことを覚えていてくれた人がいる事に感動し、ファラングは自分の名前の使用禁止を解除した。
国民から最も人気のあった力士で、1999年に《セネガル20世紀の最優秀スポーツマン》に選ばれた。
人々から《教授》と呼ばれ、セネガル相撲の力士として初めて、メッカの巡礼に行った。
ジャンデール村の村長でもあり、乗り合いバス会社(Car rapide)の経営者でもあった。
ファラングの言葉:
「私達力士は、常にスポーツ精神に則って闘いを行った。力士同志は兄弟のようなもので、ケンカもないし、確執もなかった。私達は、村の名誉のために闘うのであって、お金のためではなかった」
花田勝治氏(初代若乃花)とセネガルを訪れたNHK取材班の石田雄太氏は、ジャンデール村でファラングと会っている。石田氏は『相撲ルーツの旅』の中でファラングについて詳細に描いている。少々長くなるがここに引用する:
アブドゥラマン・ンジャイは、子供の頃は病気がちで、コーランを勉強するために通っていた学校にも満足に行けなかった。そんなンジャイが丈夫になったのは、12歳のとき、村のマラブーに進められた相撲・ブレを始めてからである。やがて、18歳でプロとして相撲を取るようになった。そして、5年目の23歳のとき、全国チャンピオンに輝き、それから15年の間、セネガルの横綱として、国民的英雄の座を守りつづけた。
「1935年の全国大会では、80キロあった横綱を倒しました。その横綱を倒してから、私はみんなに尊敬されるようになったのです」
「私はセネガル相撲を通じて、3つのたいせつなものを得ることができました。
1つ目は技。私はけっして体が大きいほうではありませんでした。ですから敵を倒すために技を身につけないわけにはいかなかったのです。もちろん、私に本当の技が身についたのは、30歳を過ぎてからでしたが…
第2に富を得ました。相撲で勝った賞金で暮らすのですから、勝負には厳しくなるのは当然です。そして、最後に健康です。80歳の私が今でもこうして村長として元気でいられるのも、相撲で鍛えた体があるからこそ、なのです。
現役時代、私のシコ名は『ファラング』でした。『ファラング』とは、『目の前にあるものを退けていく』というような意味です。ちょうど、水の上に浮いているものは簡単に払い退けることができますね。私はそのようにして、私に向かってきたたくさんの敵を、いつも『ファラング』しつづけてきたのです。それはまた私自身の可能性への挑戦でもあったのです」(中略)
「どんな動物だって、おなかが減っているときに、相撲を取ったりはしません。そんなことをしている暇があったら、食べるものを得るために働かなければならないからです。しかし、おなかがいっぱいになれば力がみなぎってくるものです。
私たちも収穫のあとは、食べるものがたくさんあります。たくさん食べれば力が湧いてくるから、それで相撲を取るのですよ。満腹になれば力くらべをしたくなるものです。
セネガルには相撲の伝説があります。私たちに食べるものをお与えになるために海の神と地の神が相撲を取った、というものです。つまり、神がわたしたちに相撲を教えてくれた、戦いを与えてくれたのだ、と私は考えています」
ンジャイは、1948年、37歳のとき、ダカールで行われたンジャイ自身最後の試合で勝ち、当時の金で20万セーファーフランの賞金を手にいれた。日本でいえば当時で50万円ほどにあたるこの大金で、ンジャイは、故郷のジェンデール村にマンゴー畑を興した。まさに力で、自分の村を発展させたのだ。
かつては、マンゴーは換金できる作物ではなかったが、今ではマンゴーだけで村が豊かに暮らせるほどまでになった。
ファラングが作った詩の一部:
Abdou mou yaye Tiné
Ma gora yiwe
Saf khorom !
Bari bairé !
Teque tchi di douma !
Dannou mèle ni yaa daane !
Bouna daanone douma djick !
Massambay Mbéry Ndao
Bèye dou rasse démou goudi
Ma ssambaye Mbéry Ndao
Bèye dou rasse démou Falang !
Ba weddè lima wakhe, lathko….
母親ティネの息子アブドゥ (ファラングのこと)
私は人に畏敬の念を起こさせる男
付いてゆくのが楽しい男!
人々を惹きつける男!
私は闘う!
敗者よ
あなたが勝者なら
勝者のようにみえるだろう!
私があなたを倒すことは
私にとっては良くなかったのか!
マッサンバイ・ンべリ・ンダオ
山羊は、夜間、木から落ちたナツメを食べない!(冒険をしないと言う意味)
私はマッサンバイ・ンべり・ンダオ
山羊はファラングのナツメを食べない!
私が言った事をあなたが受け入れないなら
誰か他の人に尋ねてください….
メドゥーヌ・クレ Médoune Khoulé
1930年~1940年に《殴り技のある相撲》の力士として活躍。最初は、地方の試合に参加していた。
ティジャンヌ教団の聖地、ティヴァワンヌで行われた試合では、16人の従者、太鼓奏者グリオ6人を率いて参加した。彼がこの試合で勝利し、2頭の牛を獲得すると、グリオたちはその勝利を祝って、太鼓を打ち鳴らした。この時、ティジャンヌ教団の創始者エラージ・マリク・シイ(El Hadji Malick Sy)の息子のセリンヌ・ババカール・シイ(Serigne BabacarSY) がモスクで瞑想を行っていたが、鳴り響いていた太鼓の音が、突然、ぴたりと止まった。セリンヌ・ババカール・シイが瞑想中であることを知ったメドゥーヌ・クレが、太鼓を叩くのを止めるよう指示したからである。のちにこのことを知ったセリンヌ・ババカール・シイは大変感激し、メドゥーヌ・クレの名声が国境を超える活躍をするよう祈願したという。
メドゥーヌ・クレはその後、ティジャンヌ教団の忠実な信徒となり、ムーリッド教団のセリンヌ・ファロー・ンバケ(Serigne Fallou Mbacké)やセネガルの初代大統領となるレオポール・セダール・サンゴールやセネガル政府高官と知り合いになった。
次のサン・ルイの試合では、初めて、ファイトマネーとして3500FCFA(約700円)を受け取った。この金額は当時としては大金で、彼はすぐさま、牛15頭と家の屋根の修理に必要なトタン板を購入した。
政府高官が、メドゥーヌ・クレに「ダカールで行われている試合に参戦するよう」アドバイスをすると、彼はそれを実践し、たちまちのうちに、ダカールにいるすべての力士を打ち負かしてしまった。
彼の名声は隣国のマリにも伝わり、マリで開かれた相撲の祭典に招待された。メドゥーヌ・クレは、セネガル政府高官と共に列車でバマコに行き、祭典に参加し、すんなりと優勝。4500FCFAを獲得した。この金額は当時のお金の価値として、900万FCFA(約180万円)に相当する。
メドゥーヌ・クレは、52歳まで力士を続け、1980年、98歳で亡くなった。息子3人と娘6人の子供がいた。
フォデ・ドゥス―バ Fodé Doussouba
カザマンス地方のコルダから30km離れたサリケネ(Salikégné)村で生まれる。
本名 Fodé Baldé。《ドゥスーバ》は母方の名前。
ファレイ・バルデとはいとこにあたる。
子供が15人いる。
1950年~1960年に活躍
当時、《伝統相撲》では、カザマンス出身のフォデ・ドゥスーバ(Fodé Doussouba)とダカール市内のヨフ出身のデンバ・チャウ(Demba Thiaw)が最も人気があった。
才能豊かで、攻撃の技術レベルが高く、ずばぬけて強い力士だった。
得意技は、「ノディユ(Nodiou)」「カッタルビ(Khatarbi)」「チャハバル(Caxabal)」「ンブート(Mboot)」。(詳細は、下記の『攻撃技』参照)
当初、フォデのパンチが相手の体に大きなダメージを与えることから、フォデには《殴り技》が禁止された。
例えば、ベカイという力士は、フォデのパンチを受け、24時間昏睡状態になった。
1951年に試合にデビューし、コルダで開催されたすべての相撲トーナメントに優勝した。隣国のガンビア、ギニア・ビサウの試合にも参戦し、多くの勝利を収めた。その後、セネガルのタンバクンダに滞在し、1957年、力士仲間の1人から勧められて、ダカールにやって来た。
奥さんのマイムーナ・バは、「フォデはセネガルのカオラックでデビューし、その後、いろいろな力士と闘い、とりわけ、ハウサ族の強敵ンギリング・ンギリングとの試合の時は、フォデは倒されるのではないかと不安でした。だけど、フォデは見事に彼を打ち負かしました」と話している。
ダカールに上陸した怪物フォデは《殴り技》のない相撲での快進撃を続け、あらゆる力士を打ち倒し、まさに敵無しだった。しかし、ダカールの近郊のキャップ・ベール(ベルデ岬)州の相撲ファンたちは、フォデの破竹の勢いを恐れ、デンバ・チャウに白羽の矢を立てた。デンバ・チャウはかつてレブ―族が誇る最強の力士だったが、漁業に専念するため相撲をやめていた。
フォデに挑戦するよう依頼されたデンバ・チャウは答えた:
「フォデ・ドゥスーバの名前を聞いたことはあるが、彼のことは知らない。彼が試合をしているところを見れば、彼を倒すことができるかどうか分かるかもしれない」
キャップ・ベール地区の代表の人たちは、デンバ・チャウをまず食事に誘い、食後、彼と一緒に闘技場に行き、フォデの試合を観戦した。それを観たデンバ・チャウは言った:
「試合を観た限りでは、12回彼と闘ったとしても、いろいろな技術を使って彼を何度でも倒すことができるだろう…」
その言葉を受け、キャップ・ベール州にある121のレブ―族の村人たちと23のセレール族の村人たちが、デンバ・チャウの勝利のため、そして、フォデ打倒のために総動員された。
1958年4月18日、フォデ・ドゥスーバとデンバ・チャウの決闘が行われた。結果は、デンバ・チャウの勝利だった。彼が、フォデの左足を払うと、フォデは右側に倒れ、両手を地面につけて、右わき腹を完全に地面につけた。
翌年1959年、フォデはデンバ・チャウとの復讐戦に臨むが、引き分けだった。
デンバ・チャウは惜しくもその2年後の1961年に亡くなった。
フォデは、相手を倒して勝つと、その場でカメラマンを呼んで、相手が地面に倒れているところを写真に撮らせた。これは、のちのち、相手からの係争を避けるためだったと言う。
そのため、フォデは《Kharal Photo (写真待ち)のフォデ》と呼ばれた。
フォデの人の良さは有名だった。他の力士達は常に金銭的な問題を抱えていたが、フォデは、お金に困っている力士がいると、その力士と試合をやって、力士にファイトマネーが入るようにしてやった。
当時、フォデが付けていたまわしは、現在の力士のまわしと異なっていて、グリグリが見えないように、グリグリを全部まわしの中に入れていたという。
フォデは、勝利100回、敗北2回、引き分け2回という輝かしい戦歴を残し、1985年、ダカール郊外のピキン(Pikine)で没した。
スレイ・ンドイ Souleye Ndoye
フランス植民地時代の1930年代に活躍。
伝説の力士、ファラングを倒したことで有名。
デンバ・ンギランという力士は、スレイ・ンドイの強烈なパンチを受けて入院した。
スレイ・ンドイはダカールに長い間住んでいたので、ボクシングジムに通い、そこで、自身のパンチのパワー・アップとコントロールを学んだ。それ故に、彼のパンチは《死の危険》または《赤十字》と呼ばれていた。
スレイ・ンドイの父親は猟師で、狩猟を行うためンブール(Mbour)に行った。当時、ンブールは、ジン(アッラーが火から作った鬼神)により支配されていたが、スレイ・ンドイの父親がジンを追い払った。しかし、その後、父親とジンが出くわした時、ジンは10人の人間になって彼を囲み、彼に向かって銃を撃った。弾は彼に当たり、彼は従者と共に空中を舞い、そして海に落ちた。ジンは彼に「これからもお前につきまとうぞ」と言った。こうして、スレイ・ンドイの家系は、呪術と深い関わりを持ち、それを実践する家族となった。
相撲が行われる当日は、呪術儀式の大部分が彼の家で行われていた:
《スレイ・ンドイは、妹の腰布を使って、まわしを巻く。彼のグリグリを箕(み)の中に入れ、その箕を姉妹の1人が頭の上に置く。スレイが立ち上がり、足のところに穴を2つ掘る。未成年の子供に2つの水差しを持って来させ、その中の水を同時に2つの穴に流し込む。もし水が2つの穴に同時に浸み込んで消えて行ったら、スレイの勝ちとなる》
一連の儀式が終わると、著名なマラブー(イスラム教の導師)が呪術儀式を完了する。
スレイ・ンドイは、ファラングとの試合当日も、上記の呪術儀式を行い、ファラングに勝った。この試合で得た高額のファイトマネーを、彼はレブ―族のほとんどの村に配ったという。
ボスコ・ソウ Bosco Sow
1912年、ダカールの郊外リュフィスクで生まれる。本名エラジ・ママドゥ・ソウ通称ボスコ。ダカール港湾局に勤めていた。
1930年代から40年代の植民地時代に活躍し、115戦以上を戦った。身長1.88m 体重 90kg
パンチ力に定評があり、攻撃技も洗練されていた。
セネガルで最初にプロになった力士。髪型は当時流行していたボビーカット。
彼のバク《Sounkagne, Sounkagne, Golo wathieu lenn senn morom yeek》(スンカニュ、スンカニュ、猿たちよ、降りて来い、お前の仲間たちが登れるように) は有名。
ファラングやベカイ・ゲイと同世代で、《殴り技を伴う相撲》の先駆者の一人。
セネガルのサッカー代表チームの監督アブドライ・ソウの父親。
ボスコという名前は、ダカール港湾局時代の上司からつけられた。
この時期、ボクシングのフランスおよびヨーロッパチャンピオンだったKitt Marcelからボクシングを教わり、その才能を見込まれ、フランスに来るように乞われたが、母親への想いからセネガルを離れることはなかった。
師匠であるスレイ・ンドイは、唯一ファラングを倒した力士。それ故にファラングは弟子であるボスコとの戦いを生涯避けていた。
ある時、ボスコは最大のライバル、ファラングと闘うことが決まった。ボスコのサポーターたちは、一丸となって彼を応援し、勝利を期待していた。試合当日、ボスコはファラングを闘技場で待っていたが、結局ファラングは来なかった。後日談によると、ファラングは母親から今回の試合に出ることを止められた、とのことである。
こうして長年熱望していたファラングとの戦いは叶うことなくボスコは1995年10月19日に亡くなった。
ピエール・テニング・サール Pierre Téning Sarr
1937年、ダカールから159km離れた、パルマラン・ンゲージュ(ジョアール・ファディウトゥの南)で生まれる。セレール族。
1960年代に活躍。《セネガル闘技場旗》争奪戦に優勝。
攻撃のスピードは、セネガル相撲の歴史の中で最も早かったと言われる。
お気に入りの力士はマンガⅡ。
彼のバクのダンスは見ごたえがあった。
ピエール・テニング・サールの回想:
「若い頃、ラトミンゲ村に行った。そこでは伝統相撲の試合が開催されていて、一緒にいた叔父から、試合に出るよう勧められた。試合に出て、9人の力士を倒し、わけのわからないまま優勝してしまった。
その後、ニョジョール村の試合で優勝し、翌年のDjifior杯にも優勝した。私の噂を聞きつけて、幾人かの力士が私に挑戦を挑んできた。私はダカールに行き、しばらくの間《殴り技のない伝統相撲》に専念していた。そのうち、《殴り技のある相撲》に転向し、いろいろな試合に出て連戦連勝した。ある日、チャンピオンのファライ・バルデと闘うことが決まった。しかし、結果は屈辱的な敗北だった。生まれて初めての敗北に意気消沈し、失意のうちにンブールに戻り、仕事を始めた。
しかし、相撲への思いを断ち切れず、1961年、プティトゥ・コート地区に移り住み、相撲を再開する。元気を取り戻した彼のところに、力士の友達がやって来て、『ピエール、お前がファライ・バルデに敗れて1年たった。復讐を考える時期だ』と言った。私は、すぐさまダカールに行き、ジャーナリストのアラサン・ンジャイに会った。彼は私を見るなり、『ファライ・バルデと闘う勇気があるかどうか』を尋ねた。私は挑戦を受け入れた。
復讐の戦いは1分もかからなかった。私の圧倒的な勝利だった。
その後、他の力士たちが私に挑戦してきたが、私はそれらのすべてに勝利した。しかし、第52戦目のボーイ・ナール・ファルとの戦いで、私は敗北を喫した。
私は、ンブールに戻り、数日後、引退を決心した」
ファレイ・バルデ Falaye Baldé
1932年、ギニア・ビサウのガブー村の農家に生まれる。家は王様の家系。
祖父も父も叔父さんも力士だったので、子供の頃から相撲を始めていた。
1960~70年にかけて活躍。《殴り技を伴う相撲》のチャンピオン。
当時の伝統相撲は、収穫後の祭りで行われ、トーナメント試合で優勝者を決めるため、夜の8時から翌日の朝10時まで続いた。2ヶ月間、すべての試合で負けない力士は過去においていなかったが、ファレイ・バルデだけは4ヶ月間、連戦連勝した。(ガブーでは、相撲トーナメントは、休みなしで3ヶ月間続くのが普通)
ファレイ・バルデは、他の土地で相撲の修業をすることを考え、ガブー村を出て、セネガルのサリケネ村に移り、まず百姓を始めた。
1956年、この村でフォデ・ドゥスーバと出会い、それを機に、村の相撲大会に参加。村のすべての力士を倒し、その存在感を際立させた。しかし、収穫祭の後、ファレイは落花生を売却し、故郷のガブーに戻った。
(因みに、ファレイ・バルデに注目したフォデ・ドゥスーバは、サリケネ村を出て、タンバクンダに移り住み、自分の才能を売り込んだ。そして、1957年にダカールに向かった)
故郷のガブー村で落花生を栽培していたファレイに、フォデが人を送り、ダカールに来るように誘ったが、彼の母親は,「息子は落花生を収穫しなければならない」と言って拒絶した。ファレイは母親を説得し、了解を得ようと努めた。母親は1週間頑なに拒んだが、最終的にファレイ自身がガブー村を去ることに決断した。
1957年11月22日、ファレイは《殴り技のない伝統相撲》の修業をするためにダカールに行く。ある時、試合が終わると、相手は負けたが10.000FCFA(約2.000円)を受け取り、ファレイは勝者にもかかわらず、4.000FCFA(約800円)しかも貰えないことに気付いた。説明を求めると、「我々力士は《殴り技のある相撲》と共に進化している。我々はただ、おまえの技術を見るために試合をすることに同意しただけなのだ」
これを聞いた、ファライは激怒し、以後は《殴り技のある相撲》を行うことを決意した。しかし、フォデがそれに対しきっぱりと反対すると、ファライはガブー村に帰ることを決め、フォデの家を出た。
ファレイはダカールに留まり、フォデに内緒で《殴り技のある相撲》の練習を開始した。これを知ったフォデは、ファレイのところに行き、ファレイが正式に《殴り技のある相撲》の試合ができるよう関係者に働きかけた。
ファレイの最初の《殴り技のある相撲》の試合相手は、ファレイの激しいパンチをまともに食らい、3ヶ月の入院を余儀なくされた。これ以降、ファレイは、他の力士から恐れられる存在となった。
ファレイはフォデに対し尊敬の念を抱き、彼を自分の父または兄弟と見なしていた。彼の忠告に決して逆らうことはなかった。
ファレイは1967年まで《殴り技のある相撲》を行っていたが、自分のファイトマネーの金額を知らなかった。ある日、手にケガをした時に、自分の将来が急に不安になって、ファイトマネーを今までにいくら獲得していたかを側近に尋ねたという。
ファレイは筋金入りの社会党員で、コロバン地区にある社会党本部の建物の建設費用を寄付した。リュフィスク(Rufisque)、ンブール(Mbour)、カフリン(Kaffrine)、ニョロ(Nioro)、サン・ルイ(Saint-Louis)、ルガ(Louga)、ワロ(Walo)、そしてモーリタニアのヌアクショットの試合のファイトマネーは、ファレイには直接支払われず、すべて社会党本部の建設費用に振り込まれた。ファレイはまた、セネガル赤十字の建物の建設費も寄付している。
ファレイは、一方で、ピキン(Pikine)やゲジャウエイ(Guédiaway)に多くの家を買った。しかし、金銭的な問題が生じた際に、多くの家を売ってしまったという。彼は最愛の友人フォデにも家を建ててやり、その家には今でもフォデの家族が住んでいる。
ファレイの言葉:
「今、セネガル相撲は職業になってしまった。昔は情熱だった。さらに嘆くことには、闘技場にはかつてのような雰囲気が無くなってしまった。昔は各々の力士が、タマやサバールを演奏するおかかえの打楽器演奏者を引き連れて、バクを行っていた。今日、それらのすべてが無くなってしまった。しかし、それでもセネガル相撲は確実に発展している。」
ファレイは、137戦1敗2引き分けという戦績を残し2013年10月23日、81歳で亡くなった。
ンバイ・ゲイ Mbaye Guèye
1946年生まれ。
当時、犯罪が多発する治安の悪いファス地区で育った。
ンバイ・ゲイは、「町を荒らしているチンピラたちと闘うには、相撲しかないと子供心に思った。そして、プロの力士になった時、大麻売りの巣窟になっている場所を粛正し、ファス地区の治安の問題を解決しようと考えた」と言っている。事実、彼は、彼の考えに賛同する友達と一緒に、ファスの街を新しく生まれ変わらせることに成功した。
後年、「私は相撲で得た金はすべて、私の町の若者たちのために使った」と述懐している。そして、「もし私がタイソンの年代の力士だったら、高いファイトマネーをもっと若者達にために使うことができたかもしれない」と残念がっていた。
1970~80年に活躍。
セネガル相撲の力士にしては、体格が小さかったが、その勇猛さと秀粘り強さと秀でた技術により、多くの敵を倒した。
《ファスの虎》と呼ばれ、攻撃の大胆さで有名だった。
《ファスの虎》というニックネームは、ジャーナリストのヤマ―ル・ジョップが、血みどろの戦いをしているンバイ・ゲイを見て名付けたもので、以前は《サタニック(悪魔)》と呼ばれていたが、マイナスのイメージがあるので、《虎》を採用したとのことである。
トゥバブ・ジョール(Toubabou Dior)など、多くの力士がンバイ・ゲイを慕って集まって来た。彼は、それらの力士の将来を案じ、よりよく彼らを教育するため、1969年、ダカールのファス地区にエキュリ・ファスを開いた。
1987年のモハメッド・アリとの試合を最後に引退。
引退後は、エキュリー・ファスの相撲技術部長として、40人ほどの若者達を育てた。その教えの中で、彼は《規律》を重要視し、練習では、彼の経験を最大限学ぶよう若者たちに指導した。
2005年、エキュリー・ファスを弟のムスタファ・ゲイに任せ、相撲学校「Ecole de Lutte les Tigres 」を創設。若い力士の養成に情熱を注いだ。
呪術儀式には否定的で、「呪術は有害な行為で、それで戦いに勝つことはできない。《呪術儀式》は、スポーツマンの道徳観を破壊し、存在しないものを信じさせる。確かに、それは私達の文化の一部を形成しているが、勝つための要因に分類したら、4番目くらいの位置付けだろう。力士にとって必要なものは、勇気と力と技術だけである。」
ンバイ・ゲイは闘技場内で起こる暴力についても嘆いていた。「相撲はかつて、戦士の戦闘行為だった。その相撲が行われる神聖な場所に、不良グループが平然とナイフやピストルを持ち込み、暴力沙汰を起こし、車を破壊したりする。」(実際、彼は愛車メルセデスベンツを不良グループに破壊されている)
彼は、関係当局に対し厳重な対策をとるよう要請した。
《殴り技を伴う相撲》を、よりプロフェッショナル化し、それまで極端に低かった力士のファイトマネーを、力士の技量に見合った金額が支払われるよう尽力した。しかし、タイソンとマンガⅡの試合以降、ファイトマネーの金額が高額になってゆくのを見て、「幾人かの力士の戦い方は失望するだけで、彼らが要求するファイトマネーの金額に値していない」と警鐘を鳴らしていた。
一方、いかにして魅力的な相撲の試合を観客に見せるかを常に模索し、いくつかの改革を実践した。
例えば、力士の闘技場の入り方、力士の勝利の祝いかた、戦いの前と後の雰囲気づくり、リズムに合ったバクのやり方等。
ンバイ・ゲイはイブラヒマ・ファルが率いる「バイ・ファル」の弟子で、ムーリド教団の熱心な信徒だった。教団の総本山、トゥーバに定期的に行き瞑想をした。また、相撲大会の前日も、瞑想と祈りを行ったと言う。
2021年8月7日、長い闘病生活の末、ダカールの郊外Fass Mbaoの自宅で亡くなった。75歳。遺体はムーリッド教団の総本山、トゥーバに埋葬された。
パパ・カーンPapa Kane
1946年生まれ。チヤロイ地区出身。
モドゥ・カーンの息子。
1970~80年に活躍。
あだ名は、「闘技場のプリンス」(残念ながら写真はありません)
Demba Diop競技場で、ンバイ・ゲイMbaye GuèyeをKOで倒す。
長い闘病生活の後、2013年、67歳で亡くなった。
ムーリッド教団の総本山、トゥーバに埋葬された。
ムスタファ・ゲイ Moustapha Guèye
1961年生まれ。
ンバイ・ゲイの弟。2代目《ファスの虎》。
親しみをこめてタファ・ゲイと呼ばれている。
幼い頃からンバパットで相撲を学ぶが、グレコローマンスタイルのレスリングの教育も受ける。
1986年7月13日のドゥドゥ・ジョムDoudou Diomとの初戦で、勝利デビュー。
1980年の中頃、《新しい波》の力士たちの中で、エキュリ・ファスのマンガⅡとビラヒム・ンジャイが、その技術力で注目されていた。彼らが引退すると、ムスタファ・ゲイなどの新しい才能が開花した。ムスタファ・ゲイは、マンガⅡと対戦したことは無かったが、セレール族の力士をことごとく撃破した。
2009年5月3日、バラ・ゲイ2との試合に負ける。翌年、8月8日引退を表明。
2本の映画に力士役で出演、俳優としても活躍した。
モル・ファダム Mor Fadam
Louga出身。身長1m97 体重120kg
スピードと耐久力のバランスがあり、冷静な試合運びを行う。試合運びが巧みなだけに、攻撃性に欠ける一面がある。
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