セネガル相撲

飢餓と伝染病のイメージが強いアフリカには、西洋諸国にも劣らない豊かな文化があります。

数千年続くセネガルの伝統相撲は、国技とされ、人々の間で大切に伝承され、保存されてきた文化のひとつです。ただ単に技を競う催し物ではなく、歌があり、ダンスがあり、呪術儀式があり、マラブー(イスラム教の導師)の祈りがあり、人々はそれらのすべてを楽しみ、エキサイトします。

相撲は、セネガルの人々に感動と喜びを与え、セネガルの人々の心を完全に征服しています。

セネガル人曰く:

「セネガル相撲は、セネガル国民の希望です。他のスポーツは、すべて西洋から来ましたが、セネガル相撲はセネガルで生まれました。私達は、セネガル相撲がセネガル国民の希望であることに誇りを持っています」

かつて、花田勝治氏(初代若乃花)がセネガルを訪問し伝統相撲を見学した際、セネガル人力士に蹲踞(そんきょ)をさせたところ、全くできなったそうです。セネガル人力士は足腰が弱いことが分かり、花田氏は彼らを日本の相撲にスカウトすることを諦めた、と日本人関係者から聞いたことがあります。

ちょっと残念な話しです。もし実現していれば、「阿弗利加(アフリカ)」「阿弗利冠(アフリカン)」「世根河瑠(セネガル)」「照乱華(テランガ)」「千恵武膳(チェブジュン)」「才才(サイサイ)」など、そんなしこ名の力士が誕生していたかもしれません。

一方、オマール・ケインのように、セネガル相撲界から飛び出して、MMA(総合格闘技)に挑戦するなど、世界的な格闘家として活躍しているレスラーもいます。

セネガルの3大国民的スポーツは、「サッカー」、「セネガル相撲」、そして「バスケット・ボール」。特に「サッカー」と「セネガル相撲」は国民の人気を二分しています。

人々は今日も、相撲を観戦するために闘技場に向かい、テレビの前に居座り、ラジオの実況中継に耳を傾けています。

(注)私のブログでは、「レスラー」ではなく、「力士」という言葉を使います。
セネガル相撲が日本の相撲に似ていることもありますが、セネガル相撲のアスリートたちが、日本の相撲の力士のように、おなかが出てかっぷくが良く、「力士」と呼ぶにふさわしい風格を兼ね備えているからです。

【セネガル相撲】Bëre ブレ

セネガル相撲には2つのタイプの相撲がある。

1つは、その昔、戦闘の訓練の一環として行われていた《伝統相撲》(Lutte traditionnelle sans frappe)。ウォロフ語で、ブレ(Bëre)と呼ばれている、

《伝統相撲》は、「相撲の学校」と言われ、相撲の基礎的なテクニックが凝縮されている。相手を殴ることが禁じられ、投げ技、足技など高度なテクニックが要求される。試合運びも難しい。《伝統相撲》の力士には、技術的に優れている力士が多い。

もう1つは、《伝統相撲》に、素手で相手の顔を殴る技が組み込まれた《殴り技を伴う相撲》(Lutte avec frappe)。ウォロフ語で、ランブ(Làmb ji)と呼ばれている。

セネガル相撲は、まず《伝統相撲》から始まり、《殴り技を伴う相撲》に発展していった。

《殴り技を伴う相撲》のほとんどの力士は、《伝統相撲》出身である。

「格闘技」という観点からすると、厳密には、《グレコローマン・スタイル》などのオリンピック・レスリング(Lutte Olympique)があるが、本ブログではこれには触れないことにする。

《伝統相撲のルーツ》

セネガル相撲のルーツについて、NHK取材班の石田 雄太氏は著書『相撲ルーツの旅』の中で次のような説を述べている(以下要約):

「今からおよそ5000年前の古代バビロニアで作られた青銅器に、ふんどしをした裸の2人の男が、がっぷり四つに組んだ姿が残されている。これは、現在の日本の相撲の型とほぼ変わらない姿である。バビロニアでは聖婚の儀礼で男神を務める若者を決めるための相撲大会が行われていた。また、4000年前に栄えたエジプトの古代都市、ベニハッサンの古墳の墓室の壁画に、相撲のような格闘技の技が描かれている。

バケト3世の古墳に残る格闘技の壁画
(Wikipediaより転載)

約2000年前、このエジプトからスーダンを通り、セネガルに流れてきた、という1つの仮説が浮かんでくる。」

こうして、セネガル相撲は西ルートで、日本の相撲は東ルートで伝わったと想像される。

相撲ロードの仮説(『相撲ルーツの旅』より転載)
伝統相撲が行われているアフリカの国々
(『Manuel de Lutte Africaine Tome 1』より転載)

CONFEJESが作成した『Manuel de Lutte Africaine (アフリカ相撲の手引き)』によると、「かつて、セネガルでは、マンディンカ族から伝承された相撲が、セネガル川流域のハル・プラール族(Hal pulaar)、カザマンス地方のジョラ族、コルダのプラー族(Peulh)の間で行われていた。一方、シヌ・サルーム、プティット・コート地域のセレール族では、Kuns (小人) と呼ばれる超自然的な存在が、割礼をしていない牧童に相撲を伝授した」と記されている。

セネガルで伝統相撲が行われている地方
(『Manuel de Lutte Africaine Tome 1』より転載))

好戦的だった未開原住民のジョラ族は、戦闘における攻撃方法や防御方法として、多くの若者たちに相撲を教えていた。

その後、戦争が終わり、平和な時代が訪れると、セレール族のシヌ王国ゲルワール王朝初代の王、マイサ・ワリ・ディオンは、1350年頃、《伝統相撲》を宮廷相撲とした。

ジョラ族やセレール族などが住む地域では、成人になる前に、青少年が聖なる森に集団で入り、大人になるための教育を長期間受ける《イニシエーション》が行われていた。

このイニシエーションの期間中、相撲の訓練も行われた。
相撲は「人生の学校」にたとえられ、「青少年が部族に溶け込み、自分の意見を言えるようになるための必要な経験であり、かつ、社会において発言権を有し、決定権を持つための重要な過程である」と言われている。

例えば、ジゲンショール州カサ村では、神聖な森でイニシエーションを受けた後、良い農民であり、良い猟師であり、良い力士であるということを証明しなければならなかった。

イニシエーションで相撲を学んだ若者たちは、畑のきつい労働の後、夏の灼熱の太陽と激しい雨の下で過ごした苦しい労働の時間を忘れるために、相撲に熱中した。若者たちにとって、特に、豊作の年の相撲は、平和で至福の時間であり、生きる喜びを実感するひと時であった。

そのうちに、若者たちは村から村に移動し、村人から熱烈な歓迎を受けながら、真剣に相撲を競い合った。ただ、相撲は時として、二つの部族間または民族間の単純な喧嘩がエスカレーションし、紛争を生じさせることもあった。

伝統相撲はこのようにして、雨季が終った満月の夕方、大漁や豊作を神様に感謝する村祭りの一環として行われ、慣習化していった。
そのうちに、村で誰が一番強いかを決めるようになった。村内の相撲大会で最も強い男は村の英雄であり、村の自慢でもあった。勝利者には、農作物や家畜が贈られた。

また、村と村、部族と部族の対抗戦も始められ、そこで優勝することは村の大いなる名誉となった。

逆に、負けると村全体の侮辱として受け取られ、そのため、かつてチャンピオンだった老人たちは、自分の持っているノウハウのすべてを若い力士たちに伝授し、試合の準備を手伝ったり、呪術儀式の準備をして、村の勝利のために貢献した。

(この頃は、大西洋奴隷貿易が活発になった時期でもある。屈強な男達をまるで動物を捕獲するように捕らえ、単なる「物」としてアメリカ大陸に輸送していた約300年間の苦難の時代でもあった)

夜間に行われていた相撲は、そのうち日中行われるようになるが、民族ダンスは、引き続き、夜踊られ、相撲の文化の一部として残っていった。

近年、国レベルで行われる「大統領旗争奪戦」や「国会議長旗争奪戦」なども開催されるようになった。優勝者には賞金と賞品が授与される。

1970年代には、ダカール郊外のMboloに相撲学校が設立された。この学校からは、初代《闘技場の王者》となったマンガⅡやモル・ファダムが巣立っている。

伝統相撲は、セネガル人の心に深く根付き、民族のプライドとして心に刷り込まれていった。

ンバパット Mbapattes

殴り技のない《伝統相撲》の大会として有名なのが、「ンバパット」である。

これは、セネガル相撲のチャンピオンのOBたちが、若い力士たちのために開催する夜の相撲の祭典。大会は、1~2ヶ月間続き、地方から来た力士達が闘う。

この大会のチャンピオンになるには、10人ほどの力士に勝ち抜かなければならない。勝てば勝つほど、残りの力士と闘い続けなければならないので、体力と技術を要し、優勝するのは大変困難である。

ンバパットは、若い力士を発掘し、その才能を開花させることに貢献している。相撲チャンピオンの90%はこの大会で発掘されている。ただ、この大会の試合に参戦しても報酬はなく、交通費が支払われるだけである。パフォーマンスが最も高い期待の新人は、しばしば観客からお金をもらえる。

《殴り技を伴う相撲の歴史》

ジョラ族やセレール族は《殴り技のない》伝統相撲を行っていたが、15世紀になると、ウォロフ族のカイヨール王国、バオル王国、ジョロフ王国そしてワロ王国の一部の地域で、戦士たちの戦闘訓練として、素手で相手の顔を殴る技を相撲に組み込んだ。これは、セネガル北部のウォロフ族だけが行っていた独特な相撲スタイルで、他のアフリカの国々では見られない。

相撲を取ることができる人たちは、精神的にも実力的にも一定基準をクリアしたエリートたちに限られていた。それ故に、男たちは幼い頃から厳しい規律のもとに相撲を教えられていた。

フランスによる植民地時代以前、上記の王国の戦士たちは、過去の栄光を忘れ難く、19世紀末、娯楽的・文化的活動として《殴り技を伴う相撲》を蘇らせ、Lamb-jiを誕生させた。

1924年、メドゥーヌ・クレ(Médoune Khoulé)やジェリ・サジョ(Diéry Sadio)は、カイヨール地方およびバオル地方のチャンピオンとなり、相撲界に旋風を巻き起こした。彼らは、上記の《殴り技を伴う相撲》の発祥地で行われていた《素手の拳による殴り合い》ができなければ、試合を受け入れなかった。
《殴り技を伴う相撲》をダカールに導入したのは正に彼らだったのである。

メドゥーヌ・クレ(左から2番目)とジェリ・サジョ(その右隣り)

1927、フランスの植民地時代、フランス人の実業家で大富豪のモーリス・ジャッカン(Maurice  Jacquin)が、《殴り技を伴う相撲》のライセンスを取得し、最初のプロモーターとなった。(彼は、西アフリカ諸国の映画館の経営者でもあり、映画俳優でもあった) 

ダカールの自分の映画館内にリングを設置し、《殴り技を伴う相撲》の初の興行を有料で行った。勝利者には賞金を与え、《殴り技を伴う相撲》のプロ化が始まった。多くの観客が殺到し、館内がすぐに満員となってしまったため、後日、彼は空地を囲い、初めての相撲専用闘技場(Arêne)を造った。その際、力士たちも作業を手伝ったという。

モーリス・ジャッカン

1942、パテ・ジョップ闘技場で、ボスコ・ソウ(Bosco Sow)とファラング(Falang)の試合があった。興奮したサポーターが乱闘をおこし、闘技場を完全に破壊してしまった。

1973、ンバイ・ゲイ( Mbaye Guèye)とロベール・ディフ(Robert Diouf)が初めて、デンバ・ジョップ競技場で試合を行った。

1975、《殴り技を伴う相撲》の最初のチャンピオン戦が行われた。

1984、マンガⅡ(Manga Ⅱ)が最初の《闘技場の王者》となった。

1994、CNG(セネガル相撲管理委員会)が設置された。

《伝統相撲》では、体格が良ければ十分だったが、《殴り技を伴う相撲》がプロ化されてからは、アスリートとしての資質、技術、精神、戦略が重要となり、筋肉トレーニングも勝因の1つとなった。

ダカールでは、大きな試合は、庶民の町メディナにあるイバ・マール・ジョップ競技場で行われる。《闘技場の王者》を決めるビッグ・イベントは、レオポルド・セダール・サンゴール国立競技場で開催されるが、サッカー連盟や陸上関係者は、相撲の試合のためにレオポルド・セダール・サンゴール国立競技場を使用しないよう要求している。相撲の試合の際、フィールドに穴を掘ってグリグリを埋めたりして、芝を傷めるというのがその理由である。

《殴り技を伴う相撲》のプロ化は、1980年~1990年にかけて躍進し、大きな試合の場合、スポンサーがつき、テレビ中継される。これにより、《殴り技を伴う相撲》は、商業ベースにのったエンターテインメントとして、民衆に絶大な人気となり、最も国民的なスポーツになった。

《闘技場の王者》を決める試合は、力士の最高チャンピオンが決まるため、セネガルの国中がワクワクしながら戦いの日を待っている。試合当日は、テレビ中継を観るために、テレビの前に多くの人が集まり、実況を聴くためにラジオに耳を傾ける。通りでは車の動きが止まり、町中が静まりかえる。そして、勝負が決まるや否や、近くの家から「どおぅ」という歓声が上がり、通りから勝利を祝うクラクションがにぎやかに鳴り響く。

今日、Lamb-jiは大きな経済効果を生み出し、ダカール地方にしっかりと根付いている。

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