セネガル映画 1/3

8mmのハンドカメラで暗い原爆ドームの中を走りながら撮影。

レッドツェッペリンの曲『Babe,I’m Gonna Leave You』が流れ始める。

画面は斜めになり、真っ直ぐになり、荒々しく揺れる。

原爆ドームの壊れた残骸が闇の中に広がっている。

カメラは突然停まり、ゆっくりと垂直パン。

原爆で焼け落ちたドームの鉄骨を、白い空を背景にズームイン。

光の粒子が降りそそぐ。

空襲警報が鳴り響き、突然、画面が真っ黒になる。

徐々に周りが白くなり、そこから黒い文字が浮かび上がってくる。

タイトル『黒い平和』が画面に現れる。

これは筆者が所属していた清水東高映画部が製作したドキュメント映画の冒頭です。

ちょっとシュ―リアリズムっぽい映像でしたが、青春の情熱にあふれた作品でした。

1968年、筆者は、被爆2世の女の子が白血病で亡くなったという新聞記事を読みました。

女の子は被爆したお母さんの子供で、当時は、被爆は遺伝するのではないかという不安が社会に広がっていました。(現在では、『被爆者の子供への遺伝的影響はない』というのが定説になっていますが、被爆2世の健康面への不安は残っています)

戦後20年経った当時、日本は奇跡的な復興を遂げ、高度成長を実現し、欧州の先進国を抜き去ってGDPが世界第2位の経済大国になりました。国民の生活は豊かになり、日本は平和な国になりました。そんな状況の中で、被爆2世の問題が突き付けられたのです。

筆者は、当時の映画部の部長の望月君に被爆2世の問題を話し、原爆の悲劇がまだ終わっていないこと、そして、永遠の核廃絶を訴えるために、オリジナルの映画を制作し、学校の文化祭で上映することを提案しました。望月君は即座に賛成し、夏休みに広島に撮影旅行に行くことになりました。

一見平和そうに見える現在の平和は、本当の平和なのだろうか?真の平和なのだろうか?筆者はそんなことを問いかけてみたかったのです。

当時は、1970年安保闘争や学園紛争などで社会が揺れていて、社会問題を真剣に考える高校生が多かったと思います。

映画は、第7の芸術と言われ、演劇、音楽、文学、絵画、舞踏、などの芸術を含む総合芸術であると同時に、社会問題を人々に啓発する力を持っています。筆者はそんな映画が持つ力を心から信じていました。

夏休みになって、望月君と筆者は国鉄の《鈍行》を乗り継いで広島まで行き(夜は当然、列車の通路に新聞紙を敷いて雑魚寝)、広島ロケを敢行しました。

まず、広島市役所の原爆ドーム担当者を訪ね、原爆ドーム内部の撮影許可を取得しました。そして、担当者と一緒に原爆ドームに入り、ドーム内で上記の撮影を行ったのです。その後、日本赤十字社原爆病院に行き、被爆者に関する取材を行いました。そこでは、被爆して亡くなった人たちのホルマリン漬けの内臓をたくさん見せられ、私たちは本当に身の引き締まる思いでした。「下手な作品は作れないぞ」と、筆者は腹を括ったものです。

(因みに原爆ドームは、1996年12月、負の世界文化遺産として登録されました)

その夜、私たちは広島のユースホステルに宿泊。

お風呂に入り、夕食も終わって、一息ついていた時、アメリカ人らしきバックパッカーが部屋の奥でぶらぶらしていましたので、「広島の原爆」について話し合おうと思い、手で《おいでおいで》をして、彼を誘ったのですが、完全に無視されました。筆者が直接彼のところに行って話しかけると、彼は言いました:
「君がさっきやった手つきは、アメリカでは、『あっちに行け!』という意味だ。『こちらに来い』と言う時は、手の平を上に向け、指全体を自分に向って折り曲げるのだ」

アメリカ人がよくやる、あの《カモオーンCame on !》のジェスチャーです。(夏木マリが『絹の靴下』を歌った時のあのフィンガー・アクションです)

確かに、日本の《おいでおいで》の手つきは、見方によっては、《あっちへ行け》に見えてしまいます。5本の指を上げ下げする時、指を下げる時に力を入れれば、《おいでおいで》になり、指を上げる時に跳ね上げるようにすれば《あっちに行け》になります。力の入れ方次第で意味が真逆になってしまうなんて…ちょっとしたカルチャーショックでした。(そして、あの伝説的な言葉「The Nature calls me !」が飛び出すのです!←楽屋落ち)

広島から帰って、筆者は、《世界が今平和に見えても、人間は常に核兵器の脅威にさらされている》というテーマでシナリオを書き、映画のタイトルを『黒い平和』としました。

映画のラストシーンは、平和のシンボルである白鳩を生きたままナイフで殺す残酷なシーンで、「平和を求めることが、時として平和を破壊することがある」という逆説的なメッセージも込めました。

監督・撮影・編集・音楽・お金の工面はすべて望月監督に任せ、映画制作はクランク・イン。当時、映画部は出来たばかりの《新生児》で、撮影機材などは全くなかったため、望月監督個人所有の「フジカシングル8」の8ミリカメラで撮影を行いました。

授業が終わると、部員全員が視聴覚教室に集まり、シナリオに基づいて撮影を行い、時間がある時には、清水銀座のレコード店《スミヤ》に行って、無料の試聴盤を片っ端から聴き、映画のバックグラウンドに流れる曲を探しました。

その中で、一つの曲が見つかりました。

それはレッドツェッペリンの『Babe,I’m Gonna Leave You』で、悲しみと絶望の中でかすかな希望を見出そうとする魂の叫びが、私たちの作品のイメージにぴったりでした。即座にそのレコードを望月君のポケット・マネーで購入しました。

映画のナレーションは、清水南高放送部の磯谷君にお願いしました。彼の《ドキュメンタリー・チック》な低音で抑えた語り口は、私たちの作品に重厚なリアリティを与えてくれました。因みに、筆者は彼と「Bとルズ」という名前のフォークデュオを組んでいて、ウッディ・ウ―の『今はもうだれも』と北條 暁の『生きてゐるのに』(川端康成作詞)を清水南高の文化祭で飛び入りで歌った思い出があります。

映画『黒い平和』は、無事、文化祭で上映され、《もの珍しさ》から盛況でしたが、前衛的でシュールだったため、いまいち理解し難かったようです。しかしながら、映画部の歴史に燦然と輝く《レガシー》となったのは確かだと思います。笑

当時、体育・保健担当だった勝沢先生もわざわざ観に見てくれました。(勝沢先生は、清水東高サッカー部を日本一にした監督です)

私たちの映画部は単なる「映画鑑賞の会」ではなく、オリジナルの作品を創りあげることを目標としていましたが、それは当時の高校のクラブとしては珍しい活動でした。現在では、生成AIにおおまかなストーリーの条件を入力すれば、自分たちの作品を簡単に制作できるようです。正に隔世の感があります。

因みに、私たちの映画のために犠牲となった白鳩は、我が母校の校庭の桜の木の下に手厚く埋葬されています。

時代の可能意識を越えていた私たちの作品が、もしノルウェーのノーベル平和賞選考委員会の目に止まっていたら、2024年度のノーベル平和賞は日本被団協と共にこの映画にも授与されていたかもしれません…涙😢

私たちの映画で使用した『Babe, I’m Gonna Leave You』の演奏者であるレッド・ツェッペリンは、1971年9月の初来日時に、旧広島県立総合体育館で、「愛と平和」のチャリティーコンサートを開きました。そして当時の金額にして約700万円の売上金を、広島市役所を通して原爆被災者に寄付したそうです。私たちの映画がレッド・ツェッペリンを広島に呼んだのかもしれません。

(『Babe, I’m Gonna Leave You』は、もともと、カリフォルニア大学バークレー校の学生だったアン・ブレドンAnne Bredonが、1950年代後半に作曲したフォークソングでした。反戦歌手として有名だったジョーン・バエズJoan Baezは、この曲に「反戦の魂」を込めて歌い、それを聴いたレッド・ツェッペリンのギタリスト、ジミー・ペイジJimmy Pageが編曲に取り組み、現在の曲に完成させました。歌詞はこんな感じです:

ベイビー、俺は去らなければならない

ああ、君をおいて

夏がやって来る頃に、君と別れることになる

夏がやって来る時に君のもとを去る

夏がやって来たら君のもとを去る….

「俺」は多分、ベトナムの戦場に行く若者だと思います。レッド・ツェッペリンはこの曲を、悲しみと絶望のラブ・ソングとして歌うと同時に、戦争に対する怒りの反戦歌として歌っていたと思われます)

話がずいぶんと横にそれてしまいましたが、ここからが本題です。

アフリカを舞台にしたかつての欧米の映画は、ほとんどが冒険映画で、槍を持って腰巻をつけた原住民が、サバンナの大自然の中でライオンやゾウを追いかける、そんなシーンが必ずありました。登場するアフリカ人も常に悪者でした。しかし、そういう時代はもう終わりました。セネガルでは、1960年代には、セネガル人自身が映画を作り始め、古い伝統のしがらみや現代の社会問題に鋭く切り込み、そこで苦悩している人々の心理を繊細に描くレベルの高い映画を作り出しました。

セネガルには、国際的に高く評価されている2人の映画監督がいます。

一人は、才能ある小説家であり、「アフリカ映画の父」と呼ばれている、巨匠センベーヌ・ウスマン監督。小説と映画の二足のわらじをはく、正に《二刀流》作家です。

それぞれの時代に、最も先鋭的な問題を提起し、いくつかの作品はすでにアフリカ映画の古典となっています。

エイゼンシュタインの映画手法や、ドヴジェンコ、ドンスコイ、セルゲイ・ゲラシモフなど、旧ソ連の監督の影響を受けた古典的でアカデミックな作風ですが、描かれているテーマが私たちの心にダイレクトに伝わってきます。時々見受けられる舞台劇風な演出は、黒沢明のそれを彷彿させます。

もう一人は、ジブリル・ジョップ・マンベティ監督。

疾風怒涛の1960年代のアフリカが生んだ早熟な天才映画監督です。独学で映画技法を学び、作品は、クラウベル・ローシャやへクトール・バべンコなど、南米の映画のように、自由闊達で、陽気で、饒舌で、感覚的で、しかし哲学的です。

本ブログでは、全くタイプの異なった上記の二人の監督に焦点をあてます。

筆者は、この二人の監督の全作品を観るのに、ほぼ10年かかりました。

あらゆるところにアンテナを張り、二人の映画を貪欲に追い続けました。

ダカールのフランス文化センター、ダカール市内の映画館、テレビのカナルプリュスで放映される映画、移動中の機内で観る映画、パリのシネマテック、そして東京の岩波ホールなど、セネガル映画に関する情報が入れば、いつ、どこにでも馳せ参じて映画を観たものです。(現在、大部分の映画がYouTubeで観ることができます)
映画を観ながら書き取った当時のメモを読み返してみると、心に残ったシーンやセリフが鮮明に蘇ってきました。

親日家だったセンベーヌは、未来に起こり得る核戦争の危機について次のように訴えています:

「私はたくさんの日本映画を見、フランス語に訳された小説も数十冊読みました。現在、私は、セネガルのペンクラブ会長をしておりますので、日本の会長である井上靖氏にもお目にかかり、5月に日本で開かれる国際ペンクラブ大会について打ち合わせをしました。

この大会では、核状況下における文学者の使命について討論がおこなわれる予定です。核大国、アメリカとソビエトとの狭間にあって憂えている世界の国は一つや二つではありません。ほとんどの国が危機感を抱いているのです。日本の方たちも同じだと思いますが、私たちアフリカの人間は、ボタンひとつで人類を破滅させる核戦争を防止するため、必死になっております。

私は広島に行って被爆者の碑に花束を捧げ、死者の冥福を祈り、再びこのような悲惨なことが地球上で起きないよう、私たちが頑張らねばならぬという思いを新たにいたしました。実にすばらしい文化遺産です。こんなすばらしいものも、戦争になれば一瞬にして消えるのです。だからこそ、文化に従事する者は、文化的創造の面の努力だけでなく、平和への努力をたえず続けなければならないのです」
(映画『エミタイ』パンフレット「ウスマン・センベーヌ」岩波ホール)

現在、センベーヌやマンベティの作品のほとんどをYouTubeで観ることができます。

YouTubeの動画やDVDには、フランス語または英語の字幕がついていますが、作品をより深く理解できるように、筆者はほぼ全セリフを文字に起こし、和訳し、シナリオ風に構成してみました。映画の中における登場人物の言葉にストレートに接することにより、登場人物の考えや感情がより強く伝わってくると思います。

尚、「ネタバレ」を好まない方は、読むことを避けてください。笑

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