映画の時代
「私は映画より小説が好きです」
「われわれアフリカ人にとっても映画の観客より、小説の読者が多い方がよかったと思います。わたしは、ひとりの人間を深く掘りさげられるものとして、文学は完璧な芸術であると考えています」
このようにフランスのテレビでの対談(1967年4月)で明言するセンベーヌが、なぜ映画作家でもあるのだろうか。
アフリカの中高年層には文盲が多い。センベーヌが最初の小説『黒人沖仲士』をフランス語で書いた時、かれはその冒頭に母への献辞を置いている。母はその本の頁を指でなぞって喜びをあらわしたが、中味を読むことは彼女にはできなかったのである。
当時の状況をセンベーヌが説明している:
「わたしは『黒人冲仲士』の一冊目を母に捧げました。母は、本の表紙を手でなでて喜んでくれましたが、その時、母を代表とするわたしの祖国の同胞たち、わたしがもっともわたしの本を読んでもらいたいと思っている人々が、文盲であることに思いあたりました。わたしの思いをそうした人たちに知ってもらうには、どうしてもわかりやすい方法を見つけなければなりません。わたしは、大衆に人気のある映画に興味を抱きました」
1960年8月20日、セネガルは独立を宣言した。マルセイユで13年間を過ごした後、センベーヌは故郷セネガルに帰国する。彼はフランス国籍を捨て、フランス共産党および所属していた他のすべての政治的・文化的組織・団体から脱会した。
1961年頃、センベーヌはすでに何冊かの小説を出版していたが、二年ぶりにアフリカに戻って、マリ、ニジェール、コート・ジボワール、コンゴなどをめぐり歩く。そして、アフリカのほとんどの人が、アフリカ文学の存在すら知らないという事実に大きなショックを受ける。
要するに、アフリカ文学の読者は大部分がヨーロッパ人なのである。一方、映画館には毎夜大勢のアフリカ人がおしかけている。現時点では、映画こそアフリカ人と接触できる最良の方法であるとその時かれは確信したのであった。
疎外されているアフリカの現実をもっとも生々しく実感させる芸術として、映画はつねにかれの創作意欲をかりたてている。
アフリカの文学作品がほとんど普及していないのに対し、映画が人々を惹きつけていることに気づいた。この視覚的メディアの重要性を認識した彼は、映画制作を決意した。
(『消えた郵便為替』センベーヌ・ウスマン 片岡幸彦訳より引用)
センベーヌはこう語っている:
「どうすればアフリカ人に語りかけることができるか?言語は理解を制限する。映画は、私たちに最も身近な大衆芸術であり、永続的な『夜間学校』である」
センベーヌは、「アフリカの人達に、文字では伝えられないメッセージを映画を通して伝えたい」と願い、映画製作を志す。
映画も自分でつくろうと心に決めたかれはすぐに行動に移す:
「私は映画を学びたいと願ってパリに戻りました。私は40歳でした。人々は『あなたの年齢で映画を始めるなんて!』と言いました。愚かさに年齢は関係ありません。学ぶことにも年齢は関係ありません!実際、私は映画監督になることができました」
「はじめは、パリのイデック(IDHEC高等映画学院)に入りたかったのですが、あそこは学歴が必要ですし、わたしは正規の学校を出ておりません。映画史家のジョㇽジュ・サドゥールさんたちが、あちらこちら世界中の映画大学と連絡をとり、最終的にはモスクワのゴーリキー映画研究所から、奨学金がもらえるよう、話をつけてくれました。
ソ連では、俳優、作家、技術者などで一家を成した人が映画監督を志望した際、2年間の特別研修で演出を学べるコースがゴーリキー撮影所にありました。
そこで、エイゼンシュタインの映画手法や、ドヴジェンコ、ドンスコイ、セルゲイ・ゲラシモフなど、旧ソ連の監督の映画手法を学びました。
わたしは寒いのが嫌いですから、モスクワの寒い冬を2度も過ごすことはできないと、1961年から1962年にかけて死にものぐるいで勉強しました。アフリカに帰れば、優れた映画技術者はいませんから、カメラ、照明、録音、編集と、監督の勉強だけではなく、すべてについて学ばなければなりません。幸い、素晴らしい監督であるマルク・ドンスコイ氏の映画制作に参加しながら、映画技術を学ぶことができました。私はソ連文学の中でも、ゴーリキーを愛読し、そのゴーリキーの作品を映画化したのがドンスコイ氏でしたから、ドンスコイ氏にはとりわけ親密感を持ち、多くを学びました」(高野悦子氏とのインタビュー)
1962年、セネガルに帰国したセンベーヌは、録音機能の無いカメラを1台しか持っていなかったが、マリ政府の要請でドキュメンタリー映画『ソンガイ帝国L’Empire Songhaï』を制作する。
1963年、映画の第一作としてネオ・リアリズムの短編映画『ボロム・サレット Boroom Sarret (荷馬車引き)』を制作し、同年ツール映画祭で公開した。

これは、ダカールで荷車引きとして生計を立てようとする貧しい男の一日を描いた作品。アフリカの貧困を浮き彫りにし、国家の独立が人々の問題を解決していないことを描いている。
2013年、カンヌ国際映画祭の「カンヌ・クラッシック」部門で上映された。
このようにして、センベーヌは小説の執筆と共に、本格的に映画制作を始める。
1964年、第二作目の映画『ニアイ Niaye』を制作。
ツール短編映画祭でCIC賞を受賞し、ロカルノ国際映画祭で特別賞を受賞。
劇場で上映されたことはない。

1966年、短編集『ヴォルタ川』に収録されていた『黒人女 La Noire de …』を映画化する。セネガル最初の長編映画であり、サハラ以南の黒人アフリカで最初に制作された長編映画でもある。

フランスのヌーベル・バーグの影響を受けたと思われるシンプルな準ドキュメンタリースタイルで撮影された本作は、フランス人家庭で使用人として働くセネガル人女性の悲劇を描き、彼女の孤立感と深まる絶望に焦点を当てている。
故郷と家族に別れを告げ、希望に満ちてフランスで働き始めるが、常にマダムから侮辱され、奴隷のような扱いを受けることに疲れ、彼女は最後には自殺してしまう。
セネガルは「植民地化から解放された」かもしれないが、彼女は依然として植民地支配者の世界における非人間的な存在であった。
センベーヌによると、この映画のテーマは、「人は、自分の文化を失ってはいけない。その深い魂というものを残さなければいけない」ということである。
センベーヌは、「この映画を母親に見せた。母親が映画を見ている間、映画を見ている母親を見ていた。そして母親がどういうふうに感じるか、母の感情をいっしょに感じていた」という。
1966年4月1日に開催された第1回世界黒人芸術祭で、「最優秀アフリカ映画監督賞」を授賞。
同年、ジャン・ヴィゴ賞を獲得し、一躍黒人アフリカ映画の存在を国際社会に確認させた。
1968年、第4作『マンダビ Mandabi』を制作。

自作の短編小説『ル・マンダLe Mandat 』(邦題『消えた郵便為替』)の映画化。
センンベ―ヌにとっては初の長編カラー映画であり、ウォロフ族の言語(ウォロフ語)で制作された最初の映画である。
民衆のひたすら心やさしく、また、したたかな生きざまを凝視する、ソ連のゴーリキー=ドンスコイ監督の眼と、センベーヌ監督のまなざしと相通ずるものを見出すことができる。時にユーモアに富んだ風刺で描いた作品。
1966年の第1回黒人アフリカ芸術祭で、当時のフランスの文化大臣アンドレ・マルローは、小説『Le Mandat(消えた郵便為替)』に対して、30万フランの映画製作費つきの大賞を与えた。
この映画では、フランス語版を作ることも契約上義務付けられていたが、セネガルの多くの町では、ウォロフ語版にフランス語の字幕スーパーをつけて上映したいとサンベ―ヌは要望した。小説家、映画作家であるだけに甘んじず、セネガル人の80%が理解するウォロフ語の普及を目ざし、ウォロフ語の雑誌を発行していたセンベ―ヌの悲願の一端がここにまず成就したと言える。
残念なことにこの映画のフィルムはパリのスタジオで火災にあって消失したとされる。
1969年、本作品は、第1回ワガドゥグ全アフリカ映画祭(1972年にFESPACOと改名)に招待された。
この映画祭はもともと、セネガルのサン・ルイにあったフランス文化センターの館長、クロード・プリュイの発案だった。彼は、このプロジェクトにポーラン・スマンヌ・ヴィエラとセンベーヌ・ウスマンを参加させた。
1968年、最初の「アフリカ映画週間」がサン・ルイで開催され、ポーラン・スマンヌ・ヴィエラが短編映画を出品した。
センベーヌは、この映画祭を今後も継続し、より良く運営するために、ブルキナファソのワガドゥグーで開催することを提案した。
1969年、センベーヌは、FESPACOの創始者の一人である、ハミドゥ・ウエドラオゴHamidou Ouedraogoに次のような手紙を送っている:
「ワガドゥグーは、すべての道が通ずる中心にあるので、きっと成功するでしょう」
センベーヌはこの映画祭において重要な役割を果たし、生涯、映画祭に関与していた。しかしながら、他の映画作家たちに日が当たるように、自分自身は公式コンペ部門に作品を出品することはなかった。
岩波ホール総支配人だった高野悦子氏は、『黒人女』のジャン・ヴィゴ賞などを契機としてカンヌ映画祭の審査委員となったサンベ―ヌに対し、『マンダビ(消えた郵便為替)』の日本上映を申し入れた。しかし、以上のような事情で断念せざるをえないことになり、これに代わるものとして選ばれたのが、第五作目の長編カラー映画『エミタイEmitaï (雷神)』(1971年)である。
この時の経緯をセンベーヌは、高野悦子とのインタビューで次のように語っている:
「『マンダビ Mandabi(消えた郵便為替)』のネガを預けていたフランスの倉庫が火事で焼けたため、多くのネガと一緒に『マンダビ』のネガも焼けてしまったのです。幸い、ポジティブが世界のあちらこちらに残っていますから、いずれ新しくネガをおこすつもりですが、まず火事の事後処理が済んでからでないとできませんから、代わりに『エミタイ』をお送りしたわけです」
1969年:ドキュメント映画『Traumatisation de la femme face à la polygamie 』(一夫多妻制に直面した女性のトラウマ)
1969年 : ドキュメント映画『Les dérives du chômage』(失業の弊害)
1970年、短編のカラー映画『タアウTauw』制作。

セネガルの都会に住む若者たちが、教育を受けてもそれを生かす道もなく、職のないままにさまよう姿が描かれている。
20歳の失業中の若者が、ダカール港で沖仲士として働きたいと望んでいるが、港の中に入るために必要な1.000FCFAフランを払うことができない。
母親は、息子タアウ(ウォロフ語で「長男」を意味する)を助けようと、夫のズボンを渡し、これを売ってお金に替えるようにとすすめる。
息子はこのたいへんな冒瀆行為をおかす決心がつかない。彼は色々ためらったあと、家族と喧嘩し、妊娠している婚約者を連れて家を出る。
セネガルの都会に住む若者たちが、教育を受けてもそれを生かす道もなく、職のないままにさまよう姿が描かれている。
映画は、子供のむき出しのおしりのアップから始まる。ポルノ映画ではないかと思いびっくりしてしまうが、実は、これは、コーラン学校をさぼった息子を、父親がおしりを叩いて折檻をしているシーンである。
1971年、『エミタイ』制作。

セネガルのカザマンス地方の小さな村の女性たちが、フランス植民地軍による人狩りのような徴兵と、かけがえのない米の供出に、敢然と反対し先頭に立った物語である。
セネガルのカザマンス地方のジョラ族の人々が第二次世界対戦中にフランス当局と闘った記録。
ジョラ語とフランス語で撮影された。オリジナルの脚本に基づき、古い文化を尊重しつつも美化しない描写で、植民地主義の抑圧に対する闘いにおける女性の役割を強調している。
この映画では、舞台となったカザマンスのジョラ族の村人たちが出演し、センベーヌ自身も村人たちと共に頭を剃られる役で出演している。
1972年:『ミュンヘン・オリンピック』Jeux Olympiques à Munich 制作。
アフリカの部分のみを制作。
センベーヌは1972年のミュンヘンオリンピックの公式映画を制作する10人の映画監督に選ばれ、アフリカ部分の撮影を担当した。ミュンヘンで偶然、ジェシー・オーエンスとレニ・リーフェンシュタールに会った。「私は彼らに感謝した。その女性はナチス側の人間で、優越人論を信じていたが、私は彼女をジェシー・オーエンスの前江に立たせ、握手をした」とセンベーヌは振り返る。
オリンピック期間中、パレスチナ武装組織「黒い9月」により、イスラエル選手2人が殺害され、8人が人質となるテロ事件が起こった。 センベーヌは公式記録映画の撮影を辞退した、と言われている。
1972年:『ミュンヘン・オリンピックにおけるアフリカのバスケット』 Basket Africain aux Jeux Olympiques à Munich制作
アフリカのバスケットの部分のみを制作。
オリンピック期間中、パレスチナ武装組織「黒い9月」により、イスラエル選手2人が殺害され、8人が人質となるテロ事件が起こった。 センベーヌは公式記録映画の撮影を辞退した、と言われている。
1974年、『ハラ Xala』(呪い)制作。

セネガルの新植民地主義的な黒人階級を批判した作品で、検閲により一部カットされて上映されたため、センベーヌは観客に検閲されたシーンを資料にして配布したという。
ブルジョアジーを題材にし、結婚当夜に「ハラ(呪い)」に因るED(勃起障害)に悩まされる、裕福で、西洋化されたイスラム教徒の実業家が主人公。
センベーヌは、この作品で、金持ちで物欲主義的で無学なビジネスマンたちを非難している。彼らは「単なる仲介者、新しい種類の店員に過ぎなかった」
アフリカの永遠の知恵は無視し、唯一の楽しみは肉欲の快楽だけだった。
『ハラXala』で描かれる、不快なほど無神経で悪意に満ちたブルジョアは、卑劣さを露わにし、腐敗している。
貧しい人々は、しばしば謙虚さと尊厳を持って礼儀正しく、忠実で献身的な使用人、例えば、家政婦や運転手とは無関係である。アラジが破産した時、彼のそばには運転手のモドゥだけが残った。
「運転手は心優しい男で、沈みゆく船から逃げ出そうとしなかった」
彼は常に雇い主に適切な助言を続ける。尊厳と忠誠心を示すモドゥのキャラクターは、民衆は知性があり、真の社会的な資質を備えていることを示している。
1976年、『チェドCeddo』制作。

「チェド」とは、ウォロフ語で「抵抗者」を意味し、イスラム教の侵入に対して、あくまでもアフリカの伝統を守り、改宗を拒み続けた人々のことをさす。
本作品は、センベーヌの最高傑作と言われている。
従来の監督の現実主義的なアプローチから離れ、特定されないアフリカ社会がイスラム教とヨーロッパの植民地主義の侵攻に対し、数世紀にわたる闘争を繰り広げた歴史をドキュメンタリー形式で描いている。
この映画は、アフリカでは大衆に身近な物語として受け入れられているが、日本では、アフリカの政治、経済、宗教などの歴史の勉強から始める必要がある。
1987年、『チャロイ収容所Camp de Thiaroye』制作。

第2次世界大戦中、フランス軍としてヨーロッパの戦線で戦った「セネガル狙撃兵」は、兵役が終了し、ダカールに戻ると、チャロイの収容所に収容された。しかし、収容所内での待遇は悪く、給料や手当の支払いが遅れることが分かり、兵士たちが暴動を起こしたため、フランス軍により虐殺された。1944年の史実を基に映画化された悲劇的な作品。
作品を発表後、フランスでは上映禁止となったが、10年後の1998年に数か所の劇場で上映が許可された。
1988年に制作された映画『ニーワムNiiwam』は、センベーヌによって制作されたのではなく、セネガルの若手監督クラランス・トマ・デルガドClarence Thomas Delgadoによって映画化された。デルガド監督は、センベーヌが制作した映画『チヤロイ・キャンプ』や『ゲルワール』や『モーラーデ』などの助監督を務めていた。

1992年、『ゲルワールGuelwaar』を制作。
ベルギーのルーヴェンで開催された「アフリカ映画祭」に招待され、字幕付きで上映された。

この物語を通して、センベーヌは、腐敗、物乞い、奴隷化、恥といったテーマを取り上げ、アフリカを苦しめる悪を糾弾している。
映画は、宗教的な緊張や社会的不公正を浮き彫りにし、アフリカ大陸の政治的・経済的状況に対する鋭い批判を投げかけている。
『ゲルワール』は、個人、コミュニティ、制度の関係性を問いかけながら、人間の尊厳と社会正義の重要性を強調する作品となっている。
2000年、『ファート・キネ Faat Kiné』制作。

【あらすじ】
主人公のファートゥ・キネは40歳。高校時代、弁護士を夢みてバカロレア(大学入学資格試験)の受験勉強をしていたが、担任教師と関係をもち妊娠してしまう。しかし、教師は自分の子と認めず、ガボンに行ってしまう。キネは、未婚の母となり苦労をしながらも、TOTALのガソリンスタンドの一従業員から支配人に昇進する。子供は成長し、バカロレアの試験に合格する。
物語はバカロレア合格発表の日から始まる。
キネの過去のフラッシュバックと、キネの現在が交錯し、合格祝いのパーティーでは、キネを捨てた男たちが、キネの息子に論破され、キネによってパーティー会場から追い出される。その夜、キネは好意を抱いていたジャンと結ばれる。
《日常の英雄主義》三部作の第1作。第1作と第2作(『モーラーデ』)はアフリカ女性の社会的状況を描いている。
センベーヌの映画では例外を除き、女性の運命と性の平等の問題が常にテーマとなっている。
2004年、『母たちの村 Moolaadé』制作。
《日常の英雄主義》3部作の第2作。センベーヌの遺作。

【あらすじ】
西アフリカの小さな村、一人の母親コレのもとに4人の少女が助けを求めてやってくる。この村で伝統的に行われてきた「女子割礼」から逃れてきた少女たちである。少女たちを守るため、母親のコレは「モーラーデ」(保護)を宣言したことを示すため、家の入口に縄を張って割礼師たちと村人たちと闘う意志を見せる。しかし、その決断は村中に大きな波紋を呼ぶことになる。伝統に逆らう事など問題外のこの村での前代未聞の出来事に、村の男たちは困惑し大混乱となる中、ついに母たちは娘たちのためにこの風習を廃止しようと立ち上がる。
現在もアフリカの多くの国々で問題となっている、「女子割礼」というデリケートなテーマを扱いながら、女性たちの溢れんばかりの力強さと優しさを色鮮やかに描き出した、愛と尊厳の人間賛歌。
センベーヌは女性たちに、自らの運命をしっかりと受けとめ、割礼を拒否する論拠を提供し、勝利する可能性を示している。
初期の作品『黒人女』では、主人公の女性は反抗し、一人で自殺するが、『母たちの村』の主人公は、伝統的な村長の権力濫用を拒否する女性たちを連帯させることに成功する。
1983年4月、長い間センベーヌと思想的立場を異にしていた前大統領サンゴールが、セネガル・ペンクラブ会長にセンベーヌを推薦、全会員圧倒的支持によりセンベーヌが初代会長に就任する。
2006年6月、セネガル政府により《人間国宝》の称号を授与された。
2006年11月9日、フランス政府によりレジオン・ド・ヌール勲章オフィシエを授与される。
新日家で、何度も来日し、岩波ホール総支配人の高野悦子氏とも親交があった。
岩波ホールでは、3作品(『エミタイ』『チェド』『母たちの村』)が上映された。
数年来、企画を暖めている大作『サモリ・トゥーレ』の準備のために来日、日本の文学者、映画関係者を中心に、多くの実り多い交流が行われた。
次回の映画は、都市が舞台で、政治に関わる物語だった。タイトルは、『ネズミ教団Confrérie des Rats』と言い、《日常の英雄主義》三部作の第3部の準備が始められていた。
センベーヌは、また、次回作として、19世紀西アフリカの民族的英雄、サモリ・トゥーレの苦闘の生涯を物語る6時間の大作『サモリ・トゥーレ』を準備中だった。
歴史的・伝説的人物のサモリ・トゥーレを題材にした壮大な脚本で、反植民地主義に抵抗したアフリカの英雄、サモリ・トゥーレを称える歴史映画だった。
セネガル政府はこの壮大な脚本の一部を負担することを約束している。作品が映画化されれば、アフリカの偉人たちの再評価と名誉回復の第一歩となるはずだった。
サモリ・トゥーレは19世紀、ヨーロッパの植民地進出に対して、18年ものあいだ抵抗し続けた西アフリカの民族的英雄。サモリは奴隷につかまってしまった母親を助けるために、自分が代わりに奴隷になった。そして民族として目ざめていくという、史実にもとづいて彼の生涯を描くつもりだった。この作品は、根こそぎにされたアフリカ文化の根を探し求めていこうとするものだった。
製作費が莫大になるため14ヶ国の合作になる予定だったが、センベーヌが急逝したため、大作「サモリ・トゥーレ」が制作されることはなかった。
2007年6月9日、自宅で亡くなった。享年84歳。
ヨフ地区のイスラム教徒の墓地に埋葬された。










【あらすじ】
物語はセネガルの村で展開される。
国際援助に反対するカトリックの活動家、ピエール・アンリ・チューンは、人びとから《ゲルワール》とあだ名で呼ばれていたが、集会の演説で過激な演説をしたため、襲撃を受けて死亡する。
遺体安置所で事務上のミスにより、彼の遺体はイスラム教徒の墓地に埋葬されてしまう。
ゲルワールのキリスト教徒の家族は、空の棺で葬儀をとり行うが、ゲルワールの遺体がイスラム教徒の村の墓地に埋葬されていることを知り、ゲルワールの遺族や関係者はその村にやって来るが、イスラム教徒たちは墓を掘り返すことに断固反対する。
イスラム教徒とキリスト教徒の間に一触即発の緊張が走る。