セネガル映画 1/3

センベーヌ・ウスマン Sembène Ousmane

姓はセンベーヌ、名はウスマン。呼び方は、「家」を大切にするアフリカ人のように、普通、「センベーヌ・ウスマン」となる。日本と同じで、姓が先で、名が後から来る。欧米方式では、順序が逆で、「ウスマン・センベーヌ」となるが、このような呼び方をセンベーヌ自身、好まなかったという。

「ウスマン」という私のイスラムの名前は親がつけたものです。私の家族は熱心なイスラム教徒でしたが、私自身は個人的にはいかなる名前をもった宗教も信仰していません。ただ、私は人間を信じていますから、そういう意味では祖先崇拝の心情はもっています」

(岩波ホール 映画『チェド』パンフレット「ウスマン・センベーヌ」より)

若い頃は、敬虔なイスラム教徒だったが、晩年は無神論者だった、と本人が告白している。

労働者出身の独学の作家。

センベーヌは生涯をかけて、アフリカの心と魂をゆさぶってきた。彼はアフリカにおける闘争的な小説の先駆者であり、映画制作の先駆者でもある。理論家であり、行動の人である。

終始、反植民地主義の立場を貫き、「植民地支配からの民族の解放」を生涯、追求してきた。

そのためにフランス政府からも自国の政府からも冷遇され、小説の発表にも映画の制作上映にもきわめて困難な条件を強いられてきた。しかし、そういう状況を克服して発表された小説や映画が国際的に高い評価をうけている。

(『アフリカ 顔と心』片岡 幸彦)

センベーヌの小説と映画は、植民地時代から脱却しつつある大陸の多様な姿、独立と近代化の葛藤に直面する姿を映し出している。その作品は、20世紀を通じてのアフリカの政治的・社会的変革を熱く描いた歴史である。

センベーヌは社会現実主義を実践し、歴史、新植民地主義、独立の不確実性について考えさせる作品を作りながら、古い慣習を変革しようとしていた。

1967年、カンヌ国際映画祭の長編映画部門の審査員となる。

1983年、セネガル・ペンクラブの初代会長に満場一致で選ばれる。副会長は、前大統領のサンゴールだった。

1982年のカンヌ国際映画祭で、’’ いま世界で最も優れた活躍をしている監督 ‘’が選ばれ、表彰されたが、その中に、フェリーニ、ベルイマン、黒澤、サタジット・レイなどと並んで、センベーヌの名前があった。

新日家で、何度も来日している。岩波ホール総支配人の高野悦子氏とも親交があった。

岩波ホールでは、3作品(『エミタイ』『チェド』『母たちの村』)が上映された。

1984年に『エミタイ』、1989年に『チェド』が岩波ホールで上映された際に来日している。

明治大学の土屋哲教授によると、センベーヌは日本で好きなものとして、酒とスシと川端康成の作品をあげている。川端文学に心酔し、その繊細で絵画的な描写がすばらしいと言う。日本再訪の際には、川端の小説の舞台に行くのが夢とのこと。

ダカール・ヨフ国際空港の近くの大西洋の波打ち際に自分で建てた家で、センベーヌは静かな生活を送っていた。ヨフ地区にあるその家の入り口の壁には、《ガレ・チェドGALLE CEDDO (抵抗者の家)》と記されていて、フランス人の奥さんと子供二人と住んでいた。

この⦅ガレ・チェド⦆表記について、センベーヌは以下のように述べている:

「政治的意味はありません。私はヨーロッパ人でもアラブ人でも何人でもなく、アフリカ人だから『チェド』と書きました。私自身という意味です」

ちなみに長編小説『帝国の最後の男』は、妻と子供たちに捧げられている。

センベーヌの自宅。入り口の壁にGALLE CEDDOと記されている。

センベーヌ・ウスマンが映画監督として活躍するまでの経緯を、『消えた郵便為替』を翻訳した片岡幸彦氏の解説を基に光を当ててゆく:

センベーヌ・ウスマンは、1923年1月1日、セネガル南部のカザマンス地方の州都、ジゲンショールに貧しい漁師の子として生まれた。届け出は1週間後に行われ、戸籍上は1月8日生まれになっている。7日間、戸籍なしで存在していたことになるが、彼の父親は8日目を待って、名前を決め出生届を出した。西アフリカの人々で、バンバラ族、マリンケ族、プル族、ウォロフ族にとっては、8日目からみんなにとっての存在になるからである。

彼のような年齢で、生年月日がはっきりしているのは、アフリカではきわめて珍しい例である。セネガルの4つの地区、ダカール、ゴレ島、リュフィスク、サン・ルイに生まれた者は、その子孫も含めてフランス国籍を取得する特権があった。彼の父親、センベーヌ・ムーサはダカール生まれ、母、ラマトゥライ・ンジャイはサン・ルイ生まれであったため、その子供も自動的にフランス国籍となった。それ故に、戸籍届出の義務を負っていたことから、生年月日がはっきりしているのである。

父親は、レブ―族の漁師であったが、冒険好きで、一攫千金を夢みてダカールから600km南のカザマンスへやって来た。

父親は「白人の下では働かない」と言って彼の人生は漁だけだった。倹約家でよく働いたが、財を成すにはいたらなかった。

父親は、一夫多妻を実行したことはなかったが、センベーヌの生母である最初の妻と離婚し、次の女性と結婚した。一度に複数の妻は持ったことがなく、結婚は2回だけだった。センベーヌは継母によって育てられた。

8歳になったセンベーヌは、父親の職業を継ぐため漁業に出たが、船酔いに悩まされ漁師になることを断念した。一方、継母ともうまくいかず、家にいても面白くないため、街を仲間とほっつき歩く少年時代となった。非行に走るのを心配した父親は、息子のウスマンをダカールの伯父に預けたが、手に負いかね、すぐジゲンショールに送り返された。そこで、今度は、生母の長兄にあたる、伯父アブドゥ・ラフマーヌ・ジョップに預けられ、村のコーラン学校に通った。伯父は、アラブに関する学識が豊富で、フランス語とアラブ語を書くことができた。1922年、フランス語で授業を行う最初の学校をマルサスームの町に開校し、自身も先生だったが、フランス政府の行政官とのけんかが元で職を失った。

信仰心が厚く、畑仕事に汗を流す傍ら、イスラム教徒の教義の研究に没頭し、その時のノートが今なお、センベーヌの手もとに残されている。この伯父が彼の精神形成に大きな影響を与えたと言われている。

伯父の死の一年後の1936年、13歳となったセンベーヌは再びダカールに行き、初等教育終了証を取得するための準備をする。しかし、彼の夢ははかなく潰えた。勉強を始めてほどなく、盗みの濡れ衣を着せられ、フランス人の校長のピエール・ベラルディの横面をたたいた理由で放校となり、それ以後二度と学校の門をくぐることはなかった。

かくして、センベーヌは学歴とは無縁な人生を送ることになる。

フランスの統治時代のダカールで、兄に倣って自動車修理工を1年やったが肌に合わず、1938年には家づくりが気に入って左官となる。この左官の経験は25年後、センベーヌがダカールのヨフ空港近くの海岸に自分の家を建てるときに生かされることになる。この家は10年かかって自分で建てた。

センベーヌは、昼働いて、夜はアフリカ人に入場を許された映画館にせっせと通い始め、西部劇や茶プリンやレオ・マッケリーなどの映画を観た。入り口近くで騒ぎを起こし、その隙に切符売りの目をごまかして入場するのが、料金を払えないセンベーヌたちの知恵だった。

特に、ドイツの女性映画監督レニ・リーフェンシュタールが、1936年のベルリンオリンピックを記録映画にした『オリンピア』には衝撃を受けたという。アフリカ系アメリカ人のアスリート、ジェシー・オーエンスが4つの金メダルを獲得する5分~10分間のシーンを見るだけのために、ウスマンは友だちと20回~30回、『オリンピア』を観たと言う。

(このシーンでヒトラーはオーエンスと握手することを避けるため、競技場を去った)

レニ・リーフェンシュタール
ジェシー・オーエンス

後年、センベーヌは1972年のミュンヘンオリンピックの公式映画を制作する10人の映画監督に選ばれ、アフリカ部分の撮影を担当した。ミュンヘンで偶然、ジェシー・オーエンスとレニ・リーフェンシュタールに会った。「私は彼らに感謝した。その女性はナチス側の人間で、優越人論を信じていたが、私は彼女をジェシー・オーエンスの前に立たせ、握手をした」とセンベーヌは振り返る。

オリンピック期間中、パレスチナ武装組織「黒い9月」により、イスラエル選手2人が殺害され、8人が人質となるテロ事件が起こった。センベーヌは公式記録映画の撮影を辞退した。

こうして映画館は、センベーヌの言葉を借りれば、「夜の学校」となった。その一方で、ダカールではジゲンショールにいた時よりも深刻な人種差別を経験し、人生で初めて、《汚い黒人》《ブニュル Bougnoul (黒ん坊) 》などと軽蔑的に呼ばれ、人種問題など現実世界の問題を自覚するようになる。

やがて第二次世界大戦の戦況が厳しくなり、1940年、ドゴール将軍がダカールに来てフランス解放のために立ち上がろうと黒人に呼びかける。同年9月23日、ヴィシー政権下にあったダカールは連合国によって爆撃された。ヨーロッパ人が避難する一方で、アフリカ人は何が起こっているか分からないまま、自分たちの運命に任された。混乱と絶望の中、センベーヌは頭を剃ってイスラム教のライエーヌ教団に加入し、熱心な信者となり、1944年2月まで、ライエーヌ教団の創始者マハディ・セイディナ・リマムライの到来を待ち望む夜の集会を運営した。

1944年2月初旬、センベ―ヌは植民著第六砲兵連隊に召集され、狙撃兵として西アフリカから北アフリカへ、イタリアやドイツの戦線で戦い、さらにドイツのバーデン・バーデンへと転戦した。(注:センベーヌは、実際には、整備士兼運転手としてモロッコやアルジェリアに赴き、狙撃兵として各地の戦線で戦うことはなかった、と言う説もある)

かれは軍隊の規律に馴染むことができず、むしろ反抗的だったが戦死を恐れ、18ヶ月の兵役義務期間を終えてフランス軍を離れた。

1946年、ダカールに戻った彼は、ライエーヌ教団とのつながりを絶ち、祈ることもやめた。翌年、西アフリカ史上最大の鉄道労働者のストライキに参加する。

6ヶ月に亘ったこのストライキは、事実上フランス語圏西アフリカ全域を巻き込んだ大ストライキで、アフリカ労働史上に大きな足跡をのこした出来事だった。

「労働者の一人として何かをしなければ、という若者らしい正義感に燃えていた」とセンベーヌは当時を回想している。

1947年、センベーヌは、悲惨を極めていた植民地経済の真っただ中に失業し、より良い暮らしと、長年の ‘’学ぶ夢’’を叶えるため、1948年9月、密航者としてダカール港を出航するが、航海中に多くの密航者が発見され、カサブランカで下船させられる。しかし、センベーヌは乗客名簿にある他人の名前を騙って船に乗り込み、何事もなくマルセイユで下船し、パリに向かった。

パリは秋で、すでに気温が下がり始めていた。シトローエンの自動車工場で3ヶ月働いたが寒さに耐えられず、翌年、寒いパリを離れてマルセイユに戻り、製錬所に職を得る。一人前の製錬工になるため、職業訓練所に入って製錬工速成科の研修を受けるが、目を悪くし、医者の勧告によりその道に進むことを断念する。仲間たちの勧めもあって、当時黒人で賑わっていたマルセイユ港の荷役人夫となる。

過酷な労働に加え、マルセイユでは毎日人種差別に直面した。失業率の高いアフリカ人貧民街に住み、アルコールや宗教に逃避する人々の中にいた。彼は他のアフリカ人とは何ら変わらなかったが、唯一読み書きができ、自分の好奇心を向上させる強い意思を持っていた。

当時、マルセイユの港では、共産党系の労働組合CGT(フランス労働総同盟)が深く根付いていた。センベーヌは、CGTの図書館に繁く通い、組合の研修会やマルクス主義についてのセミナーに積極的に参加した。彼は、世界中の歴史と文化を習得したいと飽くなき欲望に駆られていた。

1950年にCGTに加入し、1年後にはPCF(フランス共産党)に入党した。CGTの組合幹部のなかで彼はただ一人の黒人だったが、CGTの仲間たちに差別がないことに感銘を受けたという。

同時に彼は、MRAP(人種差別反対および民族間の友好を推進する運動)やFEANF(フランス在住アフリカ黒人学生連盟)などのさまざまな反差別団体やアフリカ系団体で活動した。彼は、アフリカ人労働者にとってフランス人労働者との団結なしに解決策はなく、アフリカと世界中の労働者の解放なしにも解決策はないと確信していた。センベーヌは生涯を通じて《国際主義者》であり続けた。

この頃、イブ・モンタンも港で荷役人夫として働いていて、センベーヌは一時期、彼と一緒に働いていた。モンタンは夜、港のキャバレーで歌っていて、その後、歌手としてのチャンスを試すためにパリに行った。

一方、センベーヌは組合の図書館に通いながら世界文学を探求した。

早朝からの肉体労働で、夜はぐったりとなって、死んだように眠るという生活が何年も続いたが、寝食の時間を削って読書をし、フランスの小説、ヴィクトル・ユーゴ―、バルザック、マルタン・デュガール等々、ヨーロッパ人の書いたアフリカに関するものは、随筆・研究書など、すべてといえるくらいの本を読んだ。(「センベーヌの世界―インタビュー」山本玲子・山本真弥子)

労働組合の幹部として、インドシナ戦争向けの武器輸送を3ヶ月阻止するストライキに参加した。同時に、彼は、カリブ海諸島とアメリカ合衆国の黒人作家に注目し、同じように一時港湾労働者として働いたことのあるアメリカ黒人作家、クロード・マッケイの『バンジョー』やリチャード・ライトの『ネイティブ・サン』などの作品に出会い、アフリカ黒人について関心を持ち始めた。センベーヌの処女作は、1929年のクロード・マッケイの『バンジョー』から影響を受けている。また。ジャック・ロンドンと彼の小説『マーティン・エデン』からも強い影響を受けた。

そしてある日、センベーヌが利用していた組合の図書館のヨーロッパの文学には、アフリカの本当の姿が書かれていない事に気付いた。いわゆる神話的なアフリカとか、バナナとかココヤシの木のアフリカは紹介されているが、アフリカの人間というものは描かれていなかった。本当のアフリカ人の姿を書きたい、それなら自分自身の人生を書こうとセンベーヌは思った。

荷役人夫として暮らしていたセンベーヌがいかにして小説を書くようになったか、1984年春、国際交流基金の招きで来日した際、岩波ホール支配人の高野悦子氏とのインタビューでこう語っている。

「荷役人夫の組合には立派な図書館がありました。私は独学でフランス語を学び、その図書館にある小説を手当たり次第、むさぼるように読みました。とろがある日、黒人アフリカの作家による小説が一冊もないことに気がついたのです。それまで自分が小説を書くようになるなどとは一度だって思ったことがなかったのに、一冊もないことが解ったとたん、突然、自分が書こうと決意したのです。30歳ごろのことだったと思いますが、働きながら少しずつ書き続け、1956年、自伝的ともいえる処女作『黒人沖仲士』を自費出版しました」(高野悦子氏とのインタビュー)

また、片山幸彦教授とのインタビューで、センベーヌは次のように述懐している:
「また当時わたしは文学の何たるかについて何の知識もありませんでしたし、書くと言っても自分の経験だけで書けるものではありません。わたしが小説を書くことができたのは、朝な夕なわたしの近くにいてわたしを励まし、わたしにいろんなことを教えてくれたCGTの人たちのおかげなのです。仲間たちはわたしのなすべき日課をすすんで引き受け、わたしが小説に専念できるように何かと心を配ってくれました。当時わたしがともかく小説というものを書けたのは、他ならぬこの人たちのおかげです。ですからこの当時のことは今もよく覚えていて、とてもなつかしい気持ちです」

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