セネガル映画 1/3

【セネガル映画  1/3】

センベーヌは、「セネガル映画」という呼び方を好まなかったと言う。

彼によれば、「セネガルという国家はフランスの植民者が勝手に地図上に線を引いて作ったものであり、もともとの住民である黒人たちのあずかり知らないものである。そうした植民地支配の産物を越えてブラック・アフリカ全体が結束することが、私と私の仲間たちの希望であり、意思である」(映画『チェド』パンフレット 佐藤忠男 岩波ホール)

センベーヌが言いたいのは、たとえセネガルで作られた映画でも、扱っているテーマは、セネガルの問題にとどまらず、アフリカ全体の問題、ひいては世界の問題、人間の普遍的な問題にまで及んでいるので、単純に「セネガル映画」と呼んで欲しくない、ということなのだろう。

とは言え、《セネガル》という特定な地域で育まれた文化に敬意を表すためにも、筆者はセネガルでつくられた映画を敢えて、「セネガル映画」と呼ぶことにする。

《セネガル映画の歴史》

映画が誕生し、比較的早い時期から、アフリカ人も映画を観ていた。アフリカの植民地に在住するヨーロッパ人たちが、自分たちの娯楽のためにもってきた映画をアフリカ人もまた、観る機会があった。

セネガルの人々が、初めて映画に出会ったのは、フランスの植民地時代(1815年~1960年)に、フランス人の実業家で大富豪のモーリス・ジャッカンMaurice Jacquinがダカールにオープンした映画館だった。

(注:モーリス・ジャッカンは、セネガル相撲の興行ライセンスを初めて取得し、最初のプロモーターとなった。ダカールの自分の映画館にリングを設置し、セネガル相撲の興行を初めて有料でおこなった)  (投稿記事『セネガル相撲 モーリス・ジャッカン』参照)

モーリス・ジャッカン

当初、観客のほとんどはフランス人で、セネガルの人たちは、アフリカ人に入場を許された映画館でしか映画を観ることが許されなかった。

映画館では、チャールズ・チャプリンやバスター・キートンなどの無声映画や、『天井桟敷の人々』、『パリの屋根の下』、『望郷』などのフランス映画が上映されていた。

セネガルの映画監督、センベーヌ・ウスマンは、子供の頃、映画館の入口近くで、わざと騒ぎを起こし、切符売り場の人がそれに気を取られているすきに、映画館にもぐりこんでいたという。

1920年から1960年にかけて、アフリカ諸国のほとんどがまだ独立を達成していなかった頃、この大陸では映画産業はほとんど存在していなかった。当時、ヨーロッパで制作された数少ない作品は、植民地主義的な視点を反映したもので、アフリカの現実をしばしば誤って伝えているものであった。

1934年3月8日、フランスの植民地大臣によってラヴァル法が公布された。この法令は、脚本を精査した上で、すべての映画プロジェクトに事前の許可を義務づけた。検閲は、制作後も適用される可能性さえあった。

エジプトとチュニジアでは、サイレント映画時代からアフリカ人監督による映画がすでに制作されていた。1958年には、エジプトのユーセフ・シャヒン監督が77分の長編映画『中央駅』を制作している。

《セネガル映画第一号》

1950年代に入って、西アフリカの若いアフリカ人たちのあいだでも、映画制作への関心をもつ人たちがあらわれた。当時はまだ映画は金持ちの芸術だと言われていて、映画の技術も心も、アフリカ人のものではなかった。

その第一世代の若者たちの中に、ダホメ出身のポーラン・スマヌ・ヴィエイラ Paulin Soumanou Vieyraがいた。

1952年、彼は、パリのイデックIDHEC(高等映画学院。現在のラ・フェミスLa Fémisの前身)をアフリカ人として初めて卒業した。(学生時代、クロード・オータン=ララ監督の『肉体の悪魔』に端役で出演したことがある。主役はジェラール・フィリップ)

その彼の元に、セネガル出身のママドゥ・サールMamadou Sarrとジャック・メロ・カーンJacques Mélo Kane、インドシナ生まれのアンティル人ロベール・カリスタンRobert Caristanが集まり、「アフリカ映画グループLe Groupe Africain du Cinéma」をつくった。彼らは、セネガルでの撮影許可をフランス政府に申請したが、却下された。自国大陸での撮影が不可能となったので、人類博物館Musée de l’Hommeの民族誌映画委員会Comité du film ethnographiqueの後援のもと、1955年、パリを舞台にした短編映画『セーヌ河畔のアフリカAfrique sur Seine』(16mm、モノクロ、上映時間21分)を共同で制作した。

この映画は、サハラ以南の黒人アフリカ最初の短編映画であり、セネガル最初の映画となった。(因みに、日本で最初に映画が作られたのは、1909年6月の「芸者の踊り」の実写だった)

『セーヌ河畔のアフリカ』は、セネガル映画が「映像を通して自国の現実とセネガル人の感情を語る」初めての試みであり、将来、輝かしい活躍を見せるセネガルの映画作家たちの道を開いた。

脚本はママドゥ・サール。ナレーションはママドゥ・サールとヴィエイラが担当した。

ナレーションは詩のように美しいフランス語で語られる。

左から:Paulin S.Vieyra、Robert Caristan、Jacques Mélo Kane、Mamadou Sarr。1955年のフランスにおける『セーヌ河畔のアフリカ』の撮影時。

「アフリカ映画グループ」は1956年、政府の要人とのコネを使って、軍用機でセネガルへ飛び立った。その時、セネガルで撮影をして短編映画『一人の男、一つの理想、一つの人生』を制作した。この時は、サールが事務を担当し、カリスタンが撮影を担当し、ヴィエイラが監督を務めた。この映画は、後に、ヴィエイラを総指揮者として『モルMol(漁師たち)』として制作されることになった。

この『モル』に関し、ヴィエイラは次のように述べている:「受け取った助成金はセネガルで生活するには不十分だったため、グループは2本の依頼作品を制作せざるを得なかった。ダカールでは西アフリカ国際銀行(BIAO)の開所式に関するルポルタージュを、サン=ルイではホテル・レジデンスの広報用映像を制作したのだ。」

さらに彼は次のように付け加えている:「グループはサン=ルイを題材にした短編映画も制作する予定だったが、その作品は未完成のままとなり、パリのいくつかの現像所に散逸した素材は、今なお命を吹き込まれるのを待っている」
『モル』が完成するのは1966年になってからだった)

『セーヌ河畔のアフリカ Afrique sur Seine』

この映画は、パリで暮らすアフリカ人学生たちの生活、彼らが出会う人々、そして故郷を離れて感じる郷愁を描いている。アフリカはセーヌ川のほとりにもあるのだろうか?それともカルチェ・ラタンにあるのだろうか?自らの文明、文化、未来を模索する芸術家や学生たちによる、甘くも苦い疑問が投げかけられる。

セーヌ川のほとり、モンマルトルの丘、そしてカルチェラタンの知的熱気にあふれた街で、ポーラン・スーマヌ・ヴィエイラのカメラは、アフリカ大陸の伝統的なタムタムのリズムをバックグランドミュージックに、白黒のパリの賑やかな街並みを私たちに紹介してくれる。

この映画のオリジナル完成版は紛失していたが、当時つくられた試作品が残っていたため、それを元に2018年に復元された。インターネットでこの復元版を観ることができる。

『セーヌ河畔のアフリカAfrique sur Seine』

【シナリオ】(訳・構成:筆者)

貝殻をベーゴマにして遊ぶ黒人の少年たち。

ナレーション:
「太陽と、そして年寄りたちの前で、私たちは独立を叫んだものだ」

サッカーに興じ、喜々として水遊びをする黒人の少年たち。

ナレーション:
「若く、無邪気で、周囲の世界のことなど何も知らなかった。
アフリカのこの小さな片隅しか知らなかった。
黒人の子供や、黄色人種の子供や、そして白人の子供たちが、別の川で遊んだり、取っ組み合いをしたりしている別の国が存在することなど知らなかった。
私たちには、ニジェール川があり、太陽があり、森があった。
あの頃は良かった。
『子供たちの王国』の時代。地球全体の子どもたちの時代。
遠い昔のこと……
時間が何だ!」

背の高いトウジンビエの下を歩く2人の少年。

ナレーション:
「私たちは大人になり、故郷を離れて、世界の首都であり、黒人アフリカの首都であるパリへと向かった」

パリの屋根の風景。徐々に、カメラが下方にパンし、建物の風景に移っていく。

ナレーション:
「ここでは、太陽の代わりに霧が立ち込め、機械の音や、自然を愛する人々の声が響いている。しかし、パリは希望の中心、あらゆる希望の中心である。
パリはまた、祖国を助けるという若者たちの誓いが交わされる街でもある。
パリよ、私たちの童話に描かれていた、黄金の石畳の通りはどこへ行ったのか」

1950年代のパリは、アフリカからの移住者にとって、希望とより良い未来への約束に満ちた街だった。

樹々に囲まれたパリの建物。

アフリカの音楽が流れている。

カメラは石畳の歩道を歩く男の足を追う。

男はネクタイに背広を着て、カバンを抱えた黒人青年。街を走るバスの後部に飛び乗る。

遠ざかるバス。

通りには、たくさんの自動車が往来し、女性たちが颯爽と歩道を歩いている。

華やかなパリの街の風景。

先程の男性がバスから降りる。

カフェの路上のテーブルに座っている白人女性にまず挨拶し、その他の友達にも挨拶をする男性。そして早足で大通りを渡る。

ナレーション:
「通りの多くは、サン=ジェルマン大通り、オデオン通り、モリエールの家、コメディ広場へと変わっていた。
ある朝、私は、《差し伸べられた手》という名の学校で文明を見出した」

乞食に追われ、お金渡す青年。しかし、さらに乞食が追いかけて来て金をせびるので、青年は小銭を渡す。

青年はパリの街を早足で歩く。

手前に池があり、遠くにカフェとパンテオンが見える。

ナレーション:
「これらの通りの間には、メディシス通り、スフロ通り、学生たちの住むカルチェ・ラタンがある。ああ、パンテオンの高名な死者たちよ。彼らは、日当たりの悪い息苦しい下宿で、しばしば一部屋に二人で暮らしているのだ」

建物の壁に「法学部」と記されている。

ハンチング帽をかぶった別の黒人男性が、通りを歩いている。突然、バッグからワインの瓶を出して、ラッパ飲みをする。

パリの街並み。

黒人のレストランのオーナーが、大きなあくびをする。腰には、白い布巾をぶら下げている。

黒人男性3人がそのレストランの前を通ろうとすると、オーナーが3人のうちの1人の腕をつかみ、窓ガラスに貼ってあるメニューを強引に見せる。3人はメニューを見る。

レストランの中から黒人女性が出て来て、男性の腕をつかみ中に入るよう誘う。

3人はレストランの中に入らない。不満な顔をするオーナー。

映画の冒頭で出てきた黒人男性がやって来る。

舗道を歩く3人の男性の足。

ナレーション:
「パリ、パンのない日々。
パリ、希望のない日々。
パリ、黒人の子供たちのための童話に登場する黄金の街。
パリ、孤独と永遠の友愛が入り混じる街」

黒人男性が道路掃除をしている。

ワインをラッパ飲みした男が、掃除人に話しかける。

掃除人は煙草を吸っているが、煙草1本を男に渡す。男は御礼を言って、煙草を口にくわえる。掃除人は男の後ろ姿をじっと見ている。

ノートルダム寺院の全景を映す。

ナレーション:
「パリ、比類なき多様性」

道路掃除人が、舗道の隅の水を流し、側溝の掃除をしている。

ナレーション:
「パリ、芽生えつつある友愛」

水が流れている舗道の側溝で、白い紙の船を浮かべて遊んでいる黒人の少年と少女。

ナレーション:
「そして、子供たちよ、希望と輝かしい未来のメリーゴーランドが、あなたたちのために回り続けますように」

メリーゴーランドが回っている。

その前にお母さんたちが座って、メリーゴーランドで遊ぶ子供たちを見ている。

突然、側溝の水に紙の船を浮かべて遊んでいた少年と少女の顔。

まわるメリーゴーランド。

シャンソンが流れてくる。

草の上を歩く鳩たち。

ノートルダム寺院のすぐそばのセーヌ河の水面に、ノートルダム寺院が逆さに映っている。

舗道を歩く黒人男性の足。

男性はタクシーをつかまえ、乗り込む。

ナレーション:
「パリを発見しに行くとき、セーヌ川沿いのアフリカを探しに行くとき、私たちは『自分自身を見つける希望』、『出会う希望』、『文明を見つける希望』を抱いている」

セーヌ河沿いにある古本屋。

ナレーション:
「自由と平等の精神を持つ人々の才能に敬意を表そう。
平和な人々の平和な勝利に敬意を表そう。
パリのすべての記念碑に敬意を表そう。
過去と現在の栄光の証人たちに」

ノリの良いタムタムの音が聞こえてくる。

ルーブル宮殿、チュルリー公園、たくさんの車が通行しているコンコルド広場、オベリスク塔が流れるように映る。

華やかなパリの風景が白黒の画面で次々に映し出されてゆく。

早いスピードで走る車の中から、パリの大通りを進んでゆく風景。

シャイヨ宮の画面からゆっくり右へ水平パンをすると、霧の中のエッフェル塔が見える。ヴァンドーム広場。タムタムの音と共にリズミカルに画面が進んでゆく。

「パリの風景」と「アフリカのタムタムの音」という組み合わせは、奇妙な感覚に陥る。パリにはクラシック・ミュージックが似合う、という変な固定概念があるからだろうか?

女性が歩道を行ったり来たりしている。彼女はサンドニ街の通りに立つ娼婦。

白い長い階段が映り、その頂上にはサクレ・クール寺院がある。

街のバスステーション。運転手と車掌が話しをしている。

昔は、バスの後部に昇降口があり、そこに車掌が立っていて、料金を徴収していた。

車掌は煙草を吸っている。

スクーターに乗ってロータリーを走っている黒人青年と金髪の白人女性を俯瞰で撮る。

スクーターは、車の列の間をすり抜けて行く。カメラはこの二人を追う。

金髪の白人女性が黒人青年に後ろから何かを話し、お互いに笑い合う。

杖をついて歩く盲人が、舗道を渡ろうとして、スクーターとぶつかりそうになる。

スクーターは急ブレーキをかけ止まるが、盲人は何事もなかったかのように歩いて行く。

口笛を吹きながら歩いている盲人。

サンマルタン運河の風景。

ノートルダム寺院の外壁の彫刻。

バッグの中を開けて見ている黒人女性。頭にスカーフをしてチャーミング。

煙草を吸いながら、地下鉄の路線図を見ている白人男性。

サンミッシェル広場の噴水。

盲人の口笛が続いている。

暗い路地裏。

セーヌ河沿いにある古本屋。

白人女性の後、若い黒人女性が映る。顔のアップ。笑顔がまぶしい。

彼女は誰か人を待っているらしく、歩道をうろうろしている。

黒人男性が彼女に声をかけると、彼女は男性を避けて冷たい態度をする。

そこに背広を着て、口ひげをはやし、サングラスをつけた白人男性がやって来る。彼女は彼を見て、抱き合って喜ぶ。そして仲良く腕を組んで去って行く。

それを見て、先程彼女をナンパしようとした黒人男性は、にこにこ笑いながら納得したかのようにうなずく。

歩道に出ている屋外カフェ。

2人の黒人男性と1人の白人女性が一緒に歩いている。

ナレーション:
「カルチェ・ラタンの世界は、愛の陽光の下で、偏見という古くからの障壁や憎悪の遺物を溶かしだし、善良な人々の歴史の改ざんにもかかわらず、互いを近づけ、理解し合うよう努めている」

黒人の男1人が紙きれを他の男に渡し、握手をして別れる。(何があったか分からない)

白人女性と黒人男性が2人並んで話しをしながら歩いていて、大学のレストランがある建物の中に入る。

ナレーション:
「計算された連帯や、温もりのない原則上の友愛は、分かち合う幸福や、この世の食の喜びへと道を譲る。大地の実りはすべての人へ、文化の実りはすべての人へ」

パリの路地の風景。

黒人男性と白人女性がカフェのテーブルの前に座っている。そして、二人は立ち上がり、カフェを去る。

ナレーション:
「そして、文学と科学のこの古き街角に、希望の風が吹く。幸福と愛の風が」

二人は、スクーターがたくさん並んでいる建物の前を歩いている。

地下鉄の駅の前で、先程の白人女性と黒人男性が握手をして別れる。

地下鉄の駅の階段を降りて行く女性。

レストランで、白人男性1人と白人女性1人と黒人男性1人が話をしながら食事をしている。

そこにもう1人の黒人女性が現れ、同じテーブルの椅子に座る。またもう1人の黒人男性も現れ、そこに座る。

ナレーション:
「そして夜には、友情の祝宴に集い、腹を満たし、顔を輝かせ、心を広げ、人々の陰謀にもかかわらず両腕を広げる」

黒人男性が、ライスを皿に盛りつけ、肉の煮込み料理を皿に盛り、隣の黒人男性としゃべりながら食事をする。

話しがはずみ、食事をする女性たち。

(この食事のシーンの意味がよく分からない)

黒人男性のフォークとナイフの使い方がエレガント。

黒人女性と黒人男性が立ち上がり、出て行く。

黒人男性の1人は、食事が終わり、テーブルでパイプをくゆらせている。

白人男性と白人女性が仲良く話しをしている。

先程の黒人女性が戻って来て、パイプをくゆらせている男性の横に座る。

(画面だけでは、この人たちがどういう関係なのかよく分からない)

夜の道を走る車。

暗い舗道を横断する人々。

2人の黒人男性が歩いて来て、駐車している車に寄りかかり、話しをする。

バーのカウンターに、白人女性と黒人男性が座っている。

先程の黒人男性が店に入って来て、白人女性と握手をし、店の奥に入って行く。

男性はテーブルに座っている白人女性の頬にキスをする。

黒人男性と白人女性のカップルが店に入って来る。

暗い中で、アジア人らしき男性と白人女性が、他のカップルに混じってダンスをしている。

ナレーション:
「黒人の友と黄色人種人の友よ、黒人の友と白人の友よ、そして今もなお、愛の舞踏の中で、心と心を合わせ、闇を越えて肩を並べ、私たちは光の戦いに勝利しつつある。
神の前で、そして他者の前で」

店の外にいる黒人男性が、バーの中を見る。

サルサ風のラテン音楽が流れ始める。

その音楽でダンスをしているカップルたち。

黒人の男性が、ダンスをしている人たちの間を歩いて来る。誰かを探しているようだ。

しかし、見つからなかったのか、バーの外に出て、もう1人の男性とそこを立ち去る。

Rose Rougeというネオンが映る。「ou」という文字が消えている。

(この映画は、「黒人男性のパリの一日」という設定なのだろうか?)

FIN

【筆者の映画鑑賞メモ】

・映画では、登場人物のセリフは全くない。ただ、ナレーションと音楽だけが流れる。フィクションでもドキュメントでもない、不思議な映画。ナレーションは詩的で少し難解。「文学的ドキュメント」映画とでも言うのだろうか。
ただ、映画の終わり方が突然で、意味不明。ストーリーがあるようで無く、支離滅裂。終わり方がもう少し、劇的に終わっても良かったのではないだろうか?消化不良気味な作品。
この点について、ヴィエイラは、後年、次のように述懐している:
「ママドゥ・サールと共同監督を務めることに同意したが、この作品は、方向性が定まっていない不均衡な映画である。物語も登場人物も、実際にはほとんど存在しない。当初から役割が明確に定義されていなかったため、権限の二重性が生じ、構想から制作に至るまで、この映画は欠陥を抱えている」

要するに「失敗作」だったのか?そういう意味でこの作品が「セネガル映画第1号」」というのはちょっと受け入れ難いものがある。

・スクーターに乗ってパリの街中を走り回る黒人男性と白人女性。このシーンは、アン王女と新聞記者がスクーターに乗ってローマの街を走る『ローマの休日』(1953年)のシーンを想起させる。

・この映画は、パリに暮らしているアフリカ人たちのデラシネ(根無し草)のような孤独について描いているが、それでも希望に満ちたメッセージが込められている。故郷を離れて感じる郷愁が繊細に表現され、これまで取り上げられたことのなかったアフリカの「ディアスポラ(離散)」というテーマに取り組んでいる。これは今でもアフリカやカリブ海のさまざまな映画で重要なテーマとなっている。この映画はフランスで撮影されたものの、セネガル人監督が手がけ、パリに住むセネガル人青年たちを主人公としていることから、セネガル初の映画とみなされている。

・パリで貧乏学生をしていた筆者にとっては、映画の中のパリの風景は青春の思い出で、とても懐かしかった。

ポーラン・スマヌ・ヴィエイラ Paulin Soumanou Vieyraについて

ヴィエイラは、1925年、ダホメ(現在のベナン)に生まれ、10歳の時、祖国を離れフランスへ渡った。パリで映画の世界に触れ、いつか映画を制作することを夢見ていた。

1956年、アフリカ人として初めて高等映画研究所(IDHEC)を卒業し、1955年には、セネガル初の短編映画『セーヌ河畔のアフリカAfrique sur Seine』を制作し、アフリカ映画の先駆者となった。

セネガル初の短編映画制作後も、パリで精力的に短編映画を制作していたが、アフリカのディアスポラ(離散)の知識人の集いの場であった雑誌社《プレザンス・アフリケーヌ》で、脊椎治療のためにパリに上京していたセンベーヌと運命的な出会いをする。すでにいくつかの小説を書いていたが、まだ有名な小説家ではなかったセンベーヌに、ヴィエイラは映画が持つ《表現手段の魅力》を熱く語ったと言う。

その後、セネガルに移住し、ニュース番組のために30本ほどのドキュメンタリーを制作した。1960年から1975年にかけて、セネガルニュースのディレクターを務め、この時代の映像による記憶の証人であり、記録者となった。セネガル国籍を取得後、アフリカ映画評論家・歴史家として活動した。ヴィエイラは、フランスの映画評論家ジョㇽジュ・サドゥールの弟子で、アフリカ初の映画評論家だった。

ヴィエイラは、早い段階でパン・アフリカ主義の構想を打ち出し、1969年に「全アフリカ映画製作者連盟(FEPACI)」を設立し、ワガドゥグのパン・アフリカ映画テレビ祭(FESPACO)の創設に関わった。彼はその立場を利用して、センベーヌをはじめとする技術者や監督たちを育成した。また、センベーヌの多くの映画作品のプロデューサーとしても活躍した。

1975年に『アフリカ映画:その起源から1973年までLe Cinéma africain, Des origines à 1973』を出版した。この本は、アフリカ映画史研究における必携の参考文献となっている。

映画人としての役割に加え、歴史家としての活躍を通じて、セネガルの文化遺産を豊かにした。ヴィエイラが称賛していたのは革命ではなく、民族の友愛であった。

1987年に逝去。

《セネガル映画の黄金時代》

フランスのマルセイユで沖仲士として働き、小説家としてデビューしていたセンベーヌは、セネガルの独立に合わせ、セネガルに帰国し、「映画も自分でつくろう」と心に決めた。そして、モスクワのゴーリキ―・スタジオに行き、エイゼンシュテインやドンスコイのモンタージュ理論を学んだ。

セネガルに戻ったセンベーヌは、1963年、22分の短編映画『ボロム・サレットBoroom Sarret (荷車引き)』をダカールで自前で制作する。生粋のセネガル人が、セネガルのダカールで撮影した『ボロム・サレット』こそが《セネガル映画第1号》と言えるかもしれない。

この映画を上映した時の状況をセンベーヌは次のように語っている:

「当時、映画の配給上映は、まったく植民地支配国に握られていて、私がつくった映画を上映する映画館がなかった。私は、友人であり、『ボロム・サレット』のプロデューサーでもあったヴィエイラと、コートジボワールで最初の長編映画を作ったバッソリ・チミテたちといっしょに、映写機とフィルムをかついで、アフリカの村々をまわって歩きました。

この移動映画は大成功で、どこに行ってもアフリカ人が殺到しました。長い間、白人が主人公の映画を見せられていたのに、自分たちと同じ黒人が主人公なのです。主人公に共鳴し、反応し、笑ったり・泣いたり、拍手がわいたりしました」(『アフリカから日本へのメッセージ』ウスマン・センベーヌ 小栗康平 岩波ブックレットNo.142)

1966年、センベーヌは、セネガルで初めての長編映画『黒人女性 La Noire de …』を制作し、フランスのジャン・ヴィゴ賞を獲得した。

この映画は、サハラ以南アフリカの最初の長編映画でもあり、これを機にセンベーヌの作品は、国際的に注目されることになった。

一方、ジブリル・ジョップ・マンベティDjibril Diop Mambétyは、1965年『バドゥ・ボーイBadou Boy』で鮮烈なデビューをする。作風は斬新で、アフリカの自由と、南米の明るさと西欧の哲学性がある。筆者は、彼の作品を《アフリカのヌーベル・ヴァーグ》と呼んでいる。カトリーヌ・リュエルによると、むしろマンベティがジャン=リュック・ゴダールに影響を与えたという。

セネガル映画界の二大巨匠、ジブリル・ディオプ・マンベティとセンベーヌ・ウスマンは互いに深い敬意を抱いていた。

センベーヌはルイ・リュミエールのように強いリアリズムの傾向があったのに対し、マンベティはメリエスのように詩的で、魔法のような、そしてリアリズムを兼ね備えていた。

映画界では、彼らは同世代である。実際、1963年に40歳で『ボロム・サレット』を制作した「古参の先達」センベーヌに対し、マンベティは1965年、20歳の若さで『バドゥ・ボーイ』(20分、白黒)で映画界にデビューした。

「映画配給システムをアフリカ人のものに」という運動は、1966年になって実を結ぶが、この年に、チュニジアのカルタゴ映画祭、さらにブルキナファソのアフリカ映画祭が組織され、その後、全アフリカ映画人協会が生まれてようやく、アフリカ人の映画が自立を始めることになる。

1969年、この映画は、第1回ワガドゥグ全アフリカ映画祭(1972年にFESPACOと改名)に招待される。

この映画祭はもともと、セネガルのサン・ルイにあったフランス文化センターの館長、クロード・プリュイの発案だった。彼は、このプロジェクトにポーラン・スマンヌ・ヴィエラとセンベーヌ・ウスマンを参加させた。

1968年、最初の「アフリカ映画週間」がサン・ルイで開催され、ポーラン・スマンヌ・ヴィエラが短編映画を出品した。

センベーヌは、この映画祭を今後も継続し、より良く運営するために、ブルキナファソのワガドゥグーで開催することを提案した。

1969年、センベーヌは、FESPACOの創始者の一人である、ハミドゥ・ウエドラオゴHamidou Ouedraogoに次のような手紙を送っている:
「ワガドゥグーは、すべての道が通ずる中心にあるので、きっと成功するでしょう」

センベーヌはこの映画祭において重要な役割を果たし、生涯、映画祭に関与していた。しかしながら、他の映画作家たちに日が当たるように自分自身は公式コンペ部門に作品を出品することはなかった。

1972年、チュニジアのカルタゴ映画祭においてアフリカ統一映画人連盟(FEPACI)がヴィエイラとセンベーヌの尽力により結成され、1975年に「アルジェ憲章」を発表した。そのモットーは「アフリカ映画をアフリカ民族の言葉でつくる」ということだった。10周年にあたる年には、ニジェールのニアメで五原則の確認、市場・配給・制作の三項目についての行動提起など具体的措置を取り決めた「ニアメ宣言」を発表した。こうして、アフリカ人による、アフリカ人のための、アフリカ映画の監督・制作のために、アフリカ映画人が協力して映画の制作にあたることになった。

セネガルの人類学者シェイク・アンタ・ジョップCheik Anta Diopは次のよう述べている:

「アフリカ映画は、アフリカ人によってアフリカ人のために作られているからアフリカ映画である。わたしたちは、ヨーロッパに合わせて映画をつくるのではなく、アフリカに向けて映画をつくるべきだ。なぜならアフリカの人々は共通の遺産を持っているからだ」

セネガル映画はこうして繁栄期を迎えた。国の助成政策および制作された映画の国際的成功により、観客はセネガル映画をこよなく愛し、劇場は満席となった。

1972年、サフィ・フェイSafi Fayeが『訪問者La Passante』で映画界にデビューし、アフリカの女性映画監督たちに道を開いた。

1966年になってようやく、ウスマン・センベヌがサブサハラ初の長編フィクション映画『黒人女 La Noire de …』を制作し、ジャン・ヴィゴ賞を受賞した。その間にも、数多くの短編フィクションやドキュメンタリーが制作され、セネガル映画の基調を形作った。それは、社会的なリアリズムやフランスとの関係、旧植民地支配、そしてセネガル社会における植民地支配の余波を探求するドキュメンタリーやフィクションであり、同国の現実をよりよく伝えるものだった。当時の映画界のキーワードは、低予算、政治的、そして汎アフリカ的だった。

こうしてセネガル映画は黄金時代を迎えた。公的助成政策と製作された映画の国際的な成功に支えられ、観客の熱狂的な支持により、セネガル国内でも劇場は満員となった。当時の代表的な人物は、1973年に『トゥキ・ブキ Touki Bouki』がカンヌ国際映画祭に選出された最初のセネガル映画となったジブリル・ディオプ・マンベティだった。その前に、ウスマン・センベヌはヴェネチア国際映画祭で国際批評家賞を受賞した。また、1972年にはサフィ・フェイが『La passante』で映画界にデビューし、アフリカの女性映画監督たちに道を開いた。

セネガル映画界の活躍を受け、1999年から、映画祭「街かど国際映画祭Le Festival international du film de Quartier」が創設され毎年12月ダカールで開催されている。

この映画祭は、時間の経過とともにセネガルの若手俳優や監督たちの登竜門となっているが、映画製作の減少を食い止めることはできなかった。

2019年、マティ・ジョップ Maty Diopの短編映画『アトランティック Atlantiques』が、カンヌ国際映画祭でグランプリを獲得した。

(注:グランプリは、かつての「審査員特別賞」のことで、最高賞ではない。「パルムドール」が最高賞)

《セネガル映画の危機》

セネガル映画は1970年代の黄金時代を経て現在は勢いを失っている。ここ数年来、ゆるやかな衰退が続いている。

セネガル文化省によると、1980年代初期にはダカールに78の映画館があったが、2010年には20館以下にまで減少している。映画館はイベント会場や結婚式場として貸し出されている。その他の映画館では、インド映画やナイジェリア映画などの外国映画が上映されている。

セネガルは、かつては、アフリカで最も重要かつ生産性の高い映画産業国の一つだったが、ほとんどの映画館が閉鎖されたため、現在、セネガル国内でもセネガル映画を観ることはほぼ不可能となっている。

1980年代から2010年代:映画製作の衰退

1980年代初頭の全国的な経済危機と世界銀行による厳しい経済規制により、映画プロジェクトへの国家資金が打ち切られ、劇場が閉鎖され始めたため、映画製作は急激な衰退を経験した。その結果、セネガルの監督たちは、映画製作を行うために、しばしばパリでの映画教育と欧州からの資金援助に頼るようになった。これらの映画は、セネガル国内ではなく、国際映画祭を通じて配給されるのが一般的である。

1980年までに、この国は年間5本の長編映画と数多くの短編映画を制作するようになりました。

1983年以降、セネガル映画は国内資金不足も一因となり著しい衰退を経験した。センベ-

ヌのような監督は十分な資産を有していたため、『チヤロイ収容所 Camp de Thiaroy』(1987年)や『ゲルワール Guelwar』(1992年)を制作し続けたが、同国には産業を発展させ潜在能力を発揮させるための国内資源と資金が欠如していた。今日でもセネガル、特にダカールでは、多くの撮影技師や映画製作の知識を持つ人材が存在するが、資源が不足している。その後製作された映画はほぼ全て海外からの資金で賄われ、セネガル国内ではなく国際映画祭で上映されている。

しかしセンベーヌはその後も長編映画を数本監督し続けたが、それはニューヨーカー・フィルムズなどのアメリカ映画会社による継続的な資金提供があったからに過ぎない。2000年には『ファート・キネ Faat Kiné』を監督し、現代のポストコロニアル・セネガルと、その社会における女性の役割について重要な批評的洞察を提供した。本作は婚外妊娠や不倫といったテーマを扱い、中産階級と下層階級、貧困と富の不均等な分配、近代化、そしてセネガルにおける過去と現在の価値観の葛藤といった対比を考察している。センベーヌは2004年、最後の長編映画『モーラーデ Moolaadé』を監督した。本作はカンヌ国際映画祭とブルキナファソ・ワガドゥグで開催されたフェスパコ映画祭で受賞を果たした。ブルキナファソの小さなアフリカの村を舞台にした本作は、女性器切除という議論を呼ぶ主題を探求した。

セネガルの映画産業は、1980年代から徐々に衰退していった。民間および公的機関の撤退に伴い、映画館は次々と閉館した。制作本数は激減した。2000年代には、制作本数は年間約2本にまで落ち込み、その作品も観客に届きづらくなっていた。実際、セネガル映画の大半は、セネガル国内ではなく海外で上映されていた。当時、ダカールにある映画館は5館未満と推定されていた。その後、民間および公的事業者が映画館を再建したが、映画の収益性を確保するには不十分であった。

地方には、天井の無い、星空の見える小さな映画館がまだ存続している。

夜空の星が見える映画館

《セネガル映画の復活の兆し》

しかし、近年、制作本数は回復し、現在では年間10本前後に達している。現代の世代は移民を経験しており、セネガル映画のテーマも変化している。もはや、セネガル社会における植民地主義や階級・宗教の変化よりも、なぜ、どこへ、そして誰が去り、誰が残って不在を生きるのか、というテーマが焦点となっている。2019年のカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞したマティ・ジョップ監督の『アトランティック』がその例である。

2010年代~現在:漸進的な復興

ユネスコによれば、セネガル映画は2010年代以降、復興の途にある。

セネガル政府は2015年、アラン・ゴミス Alain Gomisの『トゥデイToday』(2012年)、ウスマン・ウィリアム・ンバイOusman William Mbayeの『プレジデント・ディア』(2012年)、ムッサ・トゥーレMoussa Touréの『ラ・ピログLa pirogue』(2012年)がFESPACOやカンヌ国際映画祭で数々の賞を受賞したことを受け、映画・映像産業振興基金(FOPICA)への財政支援を開始した。(2012年)やムーサ・トゥーレMoussa Turé監督の『ラ・ピログLa Pirogue』(2012年)がフェスパコ(FESPACO)やカンヌ国際映画祭で数々の賞を受賞したことを受けてのことである。また、カティ・レナ・ンジャイイKaty Lena Ndiaye、マティ・ジョップMaty Diop、ラマ・チャウRama Thiawといった女性監督も台頭してくる。

この復活は、2022年に1,400人以上の観客を収容できるパテ・ダカール映画館などの新しい劇場の開設にも反映されている。新たな映画祭も創設されている。ダカール・コート、フェスティバル・フィルム・ファム・アフリカ、ダカール・シリーズなどが挙げられる。加えて、ラジ・リが設立したダカール映画学校「クルトラジメ」、アラン・ゴミスが設立した「イェンゲンガ・センター」といった映画学校の開設も進んでいる。

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