小説の時代
すでにビラゴ・ジョップやレオポール・セダール・サンゴールなどのアフリカ人作家が目覚ましい活躍をしていたが、当時のヨーロッパ文壇は、リチャード・ライトやエメ・セゼールなど、アメリカ・中米の黒人作家たちがむしろ支配していた。
ヨーロッパ人はアフリカをあまりにも知らない。また、黒人文学と言えばアメリカ・北米のそれである。この自覚が、CGT(フランス総同盟)の活動家としての経験とも結びつき、1956年、4年間の辛い港湾労働の合間に書きためた原稿を、『黒人沖仲士Le Doker noir』として自費出版する。当時の黒人労働者の生活と、人種差別の状況をリアルに描いた黒人アフリカ最初の小説とし注目された。
1949年以来、マルセイユ港で働いていた経験が、かれの小説家としてのデビューを助けたことにもなる。

この小説は、ヨーロッパ文明の偽善性の暴露、人種差別に対する抗議、民族的平等をめざすたたかいへの呼びかけをその内容としている。今まで、アフリカの小説において、移民のテーマは稀にしか存在せず、作品のテーマとして扱われることがなかったことも新鮮であった。表現や構成の未熟さを指摘されながら、翌年早速『プレザンス・アフリケーヌ』誌の書評で取り上げられるなど、黒人社会の問題を告発する書として、大きく注目された。
この本の献辞にセンベーヌは次のように記した:
「本書を、読むことを知らないとはいえ、わが母にささげる。
…..母がこの本を指でなでる事を思うだけでわたしはしあわせである」
この献辞には、多年にわたって虐げられてきた祖国の人民、いや全アフリカ人民への愛がこめられている。この人民への愛こそがウスマンの創作活動と生き方との根底をなし、原動力となっているものである。(藤井一行『セネガルの息子』)
後年、センベーヌは次のように心情を吐露している:
「私はこの本を母に捧げましたが、母は表紙をなでて喜びを表しました。なぜなら、母はフランス語が読めず、私たちが誇る伝統的な口承文学がわが国にあっても、書き文字がなかったからです。つまり、私がいちばん読んでもらいたいと願う母を代表とするアフリカの大衆は、私の小説を読むことができないということなのです」
翌年1957年,『黒人沖仲士』に自信をえたセンベーヌは、『ああ、祖国よ、わが素晴らしき民衆よ O pays mon beau peuple』(邦題『セネガルの息子』)をパリの書店から刊行する。

これは、セネガル農民が民族解放のたたかいへとめざめて行く過程を描きだし、人民が団結した力で植民地主義者とのたたかいに立ちあがることを訴えた作品。
1950年前後のセネガルを舞台にして、セネガル国民が民族解放闘争へとめざめていく姿を描いた作品。
小説の中で、主人公のウマ―ルは妻にこう語っている:
「自分の民族の尊敬を受けるにあたいし得ないとしたら、おれの名誉などどんな値打ちがあるだろう?人間が生きる意味は子どもをつくることだけじゃない。ましてや、高価な衣服を着ることではない。人間は自分の祖国の息子でなければならない」
(『セネガルの息子』センベーヌ・ウスマン 藤井一行訳)
物語は、長年の不在のあと、22歳の若いフランス人妻をつれて故郷カザマンスに帰ってくる。ウマ―ル・ファイというセネガル青年の行動の軌跡と周囲の人びとに投げかける波紋をめぐって展開する。
独立前夜のアフリカで抗い難くおしよせる新しい世代の波を敏感に肌で感じとり、時代に先がけてその波に身を投じた青年の生と死の物語である。
牧歌的な明るさをもつ読みやすい小説であるというにとどまらず、独立以前のセネガルにおける農民の闘いと農村解放をテーマにした傑作である。
センベーヌは創作にたずさわるかたわら、社会運動にも積極的に参加しており、第6回世界青年学生友好祭(1958年、モスクワ)、第1回アジア・アフリカ作家会議(1958年、タシケント)、第2回黒人作家・芸術家大会(1959年、ローマ)などに出席している。1957年には、西アフリカ最初のマルクス主義政党としてセネガルにアフリカ独立党が組織されるが、センベーヌもその一員である。
1958年、センベーヌは中国を訪問し、毛沢東と周恩来と会い、その後、北ベトナムでホー・チ・ミンと出会っている。
その後、荷下ろしの際に背骨を骨折。回復まで時間がかかり、重労働を続けることが不可能となったため、構内作業員の職を与えられた。このことが肉体労働から頭脳労働者へと変わるきっかけとなり、病床に伏しながらも長編第三作に取り組んだ。
この時の状況をセンベーヌは片岡幸彦教授に次のように説明している:
「この年、マルセイユ港での荷役作業中に事故にあって大怪我をしてしまったからです。積荷が落ちてきて腰のあたりが大きく裂けてしまいました。入院して手術を受け、六ヶ月というものベッドを離れることができませんでした。しかしベッドに座ったままで小説を書くことはできたわけです。
退院後デンマークの友人たちがわたしを呼んでくれました。向こうではみんなのおかげで恵まれた生活の中で、時間を忘れて小説に専念することができました。たしかに幸運だったといえるかもしれません」
1960年、こうして『神の森の木々 Les Bouts de bois de Dieu』(1960年)が生まれた。前作『セネガルの息子』が農村解放を中心に据えた小説であったのに対し、都市労働者の解放の闘いをテーマにした本格的な長編小説だった。

この小説は、フランス領西アフリカにおいて1947年10月1日から翌48年3月19日まで続けられたダカール=ニジェール鉄道の労働者の歴史的なストライキ闘争を下敷きにして、ドキュメンタリー風に書かれている。その長さ、叙述の豊かさ、視点の広さ、構成の周到さにおいて、はるかに前2作を凌いでいるばかりでなく、この時代に書かれた黒人アフリカの他の小説と比べても出色の出来栄えと言える。
悲劇の描写と並行して、センベーヌは風景の美しさと気候の優しさを非常に誌的な文体でで謳っている。しかし、彼の視線には、心理的、社会的、政治的、歴史的、哲学的な価値が込められている。
女性解放の問題は、センベーヌの作品において常に重要な位置を占めている。彼はアフリカにおける女性の解放の先駆者の一人であると良い。『神の森の木々』では、アフリカの文学史上初めて、女性が公の場で発言する。
緊迫した当時のストライキの状況を伝えるために、センベーヌ・ウスマンの臨場感あふれる描写を(ちょっと長くなりますが)そのまま引用する:
この本を翻訳した藤井一行氏は『神の森の木々』という題名についてこう解説している:
「原題は、『神の木のきれはし』というほどの意味で、西アフリカでは、人間を数えるときに一人、二人と数えると、数えられる人の寿命がちぢまるという迷信があり、そこから『一人の人間』というかわりに『一本の神の木のきれはし』と数えるのである。ただ、『神の木の切れはし』ということばはいかにも通りが悪いので、原意からそう離れていないと考えて、題名でも本文中でもあえて、『森』という言葉を添えて『神の森の木々』と訳出した。原書の副題となっているウォロフ語の『バンティ・マム・ヤル Banty Mam Yall』にも『森』という言葉はないが、ほぼ同じ意味である」
ビートルズの『ノルウェイの森Norwegian wood』という曲があるが、『wood』とう言葉は、『the wood』と定冠詞がつく場合以外の単数では、『木材』という意味となり、『森』という意味は無い。『ノルウェイの森』という訳は間違いで、『ノルウェイの木材』が正しい訳となる。
パリで脊椎の治療を受けに来ていたセンベーヌは、セネガル映画第1号と言われる『セーヌ河畔のアフリカ』を制作したポーラン・スマヌ・ヴィエイラと雑誌社《プレザンス・アフリケーヌ》で運命的な出会いをした。センベーヌは映画が持つ⦅表現手段の魅力⦆を彼から学んだ。ヴィエイラとセンベーヌの親交はその後も続き、ヴィエイラは映画評論家の傍ら、センベーヌの多くの作品のプロデューサーになっている。
パリ滞在中には、敬愛する『ネイティブ・サン』の作者リチャード・ライト、ネグリチュードの提唱者エメ・セザール、詩人のアラゴン、ポール・エリュアール、実存主義者のシモーヌ・ド・ボーヴォワール、ジャン=ポール・サルトルなど、多くの作家と出会った。
1960年8月20日、セネガルは独立を宣言した。センベーヌはマルセイユで13年間を過ごした後、故郷セネガルに帰国する。彼はフランス国籍を捨て、フランス共産党および所属していた他のすべての政治的・文化的組織・団体から脱会した。しかし、共産党の党員証を返上した後も、基本的に彼はマルクス主義であり続けた。
彼は、マルセイユで過ごした13年間に感謝し続けていた。
「労働者たちは私に多くのものを与えてくれました。自己意識、物事への意識、誇り、フランスに来る前に持っていたプライド….これらの感情を再認識しました」
後日、ウスマンはそう語っている。
1962年、短編集『ヴォルタ川Voltaïque』がプレザンス・アフリケーヌから出版された。

この短編集は13の魅惑的な短編で構成され、アフリカ大陸の複雑な現実を描きだしている。
この短編集の中心となっている『ヴォルタ川』は、アフリカ史の暗い時代、すなわち奴隷貿易を背景としている。白人奴隷商人の残酷さと貪欲さが、主人公アモオの激しい抵抗に合い、胸が張り裂けるような人狩りの物語になっている。
独立後のセネガルで、村人たちは村の広場の木の下に集まり、アフリカに関するさまざまな話題について話し合っている。その中で、サエルは「身体切傷Scarification」の由来について質問をするが、村人から満足するような答えはなかった。そこで、サエルは、奴隷制の時代にさかのぼる「身体切傷」の出現の物語を語り始める:
「当時、アモ―という男が、妻が奴隷商人の手におちるのを防ぐために妻を殺害した。そして、娘を奴隷商人から逃がすために彼女の体を切りつけた。こうして、アフリカの社会では、高貴さの象徴である「切り傷」が抵抗の証となった」
スリリングに展開するこの物語は現代アフリカの現実を浮き彫りにしている。
センベーヌは、自由のための闘争、迫害、強制的な亡命など、今日のアフリカ人が直面している課題を鋭く描いている。アモ―の目を通して、アフリカの痛ましい過去と、尊厳と正義を求める現在の闘争との類似点が見出される。
アモ―の容赦ない追跡を描写することで、センベーヌは今なおアフリカ大陸に蔓延する社会の不正を浮き彫りにし、今日の権力者たちが、自由を夢見る者たちを追い詰め、抑圧し、不法移民に期待せざるを得ない運命に追い込んでいる現状を告発している。
小説『ヴォルタ川』は、時間と空間の境界を越え、人間存在についての普遍的な考察へと昇華している。センベーヌは、その印象的な物語と忘れがたい登場人物たちを通して、過去と現在の課題に勇敢な決意をもって立ち向かうアフリカの人々の、不屈の精神、尊厳、そして闘争を私たちに思い起こさせる。
アフリカの自由と活力の象徴であるアモオは、奴隷狩りのモムトゥに執拗に追跡される。しかし、アモオは自らの生存と自由、そして仲間たちの自由のために闘い、アフリカの荒野を駆け抜ける息もつかせぬ逃亡劇となっている。
ヴォルタ川は、西アフリカにおける主要な川の一つで、ブルキナファソ国内に源を発し、ガーナを通過してギニア湾に注ぐ、全長1600kmの大河。サハラ以南のアフリカ6ヶ国にまたがる。
『母』や『黒人女 La Noire de …』の短編は、『ヴォルタ川』に収録される前に、それぞれ1957年と1961年に雑誌プレザンス・アフリケーヌに発表されている。
【あらすじ】
この物語は、カザマンス出身の若い女性、ジョアナ・ゴミスDiouana Gomisが、フランス人家庭の使用人として働く難しさを描いている。
彼女はダカールを離れ、この家族とともにフランスのアンティ―ブに渡る。独立前のセネガルでは、彼女は《子供の世話係りGouvernante》として働いており、アンティ―ブでも同じ仕事をするものと思っていた。しかし、フランスに到着すると、雇い主のフランス人夫婦は、家事を行う女中を雇う余裕がないので、彼女に「何でも行う女中」として働かせようとしていることに気づけ始める。頭の中で思い描いていた美しいフランスを夢見ていた彼女は、小さなアパートに閉じ込められ、一日中同じ家事をこなす羽目になった。落ち込んだ彼女は、最後には自殺してしまう。彼女の自殺のニュースは、地元紙で「アンティ―ブで、ホームシックにかかった黒人女性が喉を切った」と報じられた。
タイトルの原題は、直訳すると「….の黒人女」と言う表現になっている。『黒人女』の前にある『…』には何が省略されているかは謎である。どんな言葉をセンベーヌが暗示しようとしていたのか、それを探ろうといろいろな文献にあたったが結局、解明することはできなかった。多分、この小説の本質的なテーマを表す、象徴的な言葉が来るのであろう。例えば、『奴隷の黒人女 La Noire de l’esclave』など….
1966年、センベーヌは短編集『ヴォルタ川』の中の短編小説『黒人女La Noire de …』を映画化した。
1964年、4作目の大作『ハルマッタン(熱風) L’Harmattan』を出版する。
西アフリカで実際に起きた、1958年の国民投票がこの小説のきっかけとなっている。
この小説は3部作として構想されていたが、この時発表されたのは第1部にあたる『国民投票』だけで、最終的に未完に終わった。この作品を境にセンベーヌは長編小説からしばらく離れることになる。

2年後の1966年、プレザンス・アフリケンヌ社から、短編小説『ヴェヒ・チョサンVéhi Ciosane』と、短編小説『ル・マンダ Le Mandat』(邦題『消えた郵便為替』)が一冊に収録された本が出版された。
このあと1965年に書かれた中編小説のひとつが、『郵便為替 Le Mandat』(邦題『消えた郵便為替』である。この小説が発表されて以来、センベーヌの文学がいよいよ多くの人たちに親しまれるものになった。ユーモアとペーソスが織りなされた傑作である。この中編小説から、小説の舞台が1960年の独立以降のセネガルという設定に変わる。

主人公のイブラヒマ・ディエンは、郵便為替を現金にするため、ダカールの街を動き回るが、そこで出会う状況・風景は、正に「ダカールあるある」で、ダカールの人びとの人間模様を巧みにそして忠実に描いている。ダカールの代表的な生活風景が凝縮されている。
古い父権的伝統と無関心で貪欲で非効率的な官僚制の間で揺れる新ブルジョアジーを、鋭く、時にユーモアに富んだ風刺で描いた作品。
1966年、短編小説『ヴェヒ・チョサン Véhi Ciosane・Cosaan』あるいはブランシュ・ジュネ―ズBlanche Genèse (白き創世)が発表された。
サンチュウ・ニアイSantiou Niaye村の高貴な家系の家族が、父親が娘に対して犯した近親相姦をきっかけに悲劇に陥っていく物語である。
この小説は、1964年に制作された短編映画『ニアイNiaye』を小説化したもので、1966年にプレザンス・アフリケンヌ社から、短編小説『マンダビMandabi』(邦題『消えた郵便為替』)を収録した一冊の本として出版された。

【あらすじ】
サンチュウ・ニアイの村は、セネガルの農業地帯で、村人は農業で生計を立てている。この村で、高貴な家系に生まれたハール・マジャガ・ジョップは妊娠しているが、ハールの母親であるンゴネ・ワール・チャンドゥムは、娘の妊娠を心配している。というのも、高貴な身分の家族にとって、家系は大変重要なものだからである。村人たちはこの娘が近親相姦の関係から生まれたことを知ってしまう。実は、村の長であるギブリル・ゲジュ・ジョブが、自分の娘が身ごもっている子の父親だった。この恥辱に耐えかねた、ハールの母親ンゴネは自殺する。
村人たちは、ハールを追放することを決めたが、インドシナやアルジェリアの戦場で狙撃兵として戦ったハールの兄のタノールが狂人となって帰還したので、ギブリル・ゲジュ・ジョブの兄のメドゥーン・ジョップは、王位継承権を得るために、彼に銃を渡し、父親を殺害させる。父殺しの血により近親相姦の罪が洗い流された。
母親の自殺と父親の殺害の後、ハールとその娘ヴェヒ・チョーサンは村から追放され、ダカールに旅立つ。旅の途中、ハールは娘を見捨てしまうか迷うが、結局、見捨てないことを決める。
「ヴェヒ・チョーサン」とは、ウォロフ語で「白き創世」という意味で、「生まれではなく、行いによって得られる高貴な家族の復活」という概念に由来し、「新たな秩序の始まり」を象徴している。
小説の中のグリオは言う:
「アラーよ、この娘が高貴な家の生まれでなくても、その行動によって高貴な者になれますように。彼らから新しいものが生まれるでしょう」
1973年『ハラXala』(呪い)を発表。

1973年のポストコロニアル時代に出版された小説である。この小説は、独立後にアフリカの大衆を搾取するアフリカの新興富裕層やエリート層を批判している。彼らは抑圧された大衆を犠牲にして富を蓄え、その富を利用してアフリカ人口の大多数を占める貧しい人々を抑圧している。
独立後のセネガルの中産階級の世界を鋭く描いた作品である。
外見と権力が、誠実さや道徳よりも優先される社会で成功した実業家のアラジ・アブドゥ・カデル・ベイは最初の二人の妻たちの暗黙の反対や社会の噂にもかかわらず、三番目の妻を迎えることを決める。
しかし、栄光を象徴するはずの結婚式の夜、アラジは「ハラXala」と呼ばれる「呪い」にかかり、突然ED(勃起障害)になってしまう。この機能不全状態は、アラジの単なる肉体的な問題にとどまらず、彼が人生、権力、責任をコントロールできないという壊滅的な機能不全の比喩となっている。
侮辱的な状況に直面したアラジは、マラブーや治療師を訪ね、彼の評判を破壊しかねないこの呪いを解こうと、惜しみなくお金を費やした。
しかし、機能不全が続くにつれて、彼の人生は崩壊し始める。
最初は同情していた友人たちは、嘲笑し、やがて軽蔑して彼から離れていく。かつては従順だった二人の妻も、彼に対する憤りを口にし始める。銀行は彼に耳を貸さず、事業は破綻し、破産に陥る。そのすべては、彼を襲った呪い(ハラXala)に因るもので、かつて貧しい人々に対して犯した過ちの罰だった。悪しき富裕層の情熱の最後の瞬間である、この本の結末は、スペインの映画監督、ルイス・ブニュエル的であるという指摘もある。
センベーヌは、一人の男の人生の陥落を語るだけにとどまらず、植民地時代から受け継いだ慣習に囚われたままの新エリート層の偽善と腐敗を容赦なく暴く。
小説では、センベーヌは新植民地アフリカの商工会議所のビジネスマンたちの生活を描いている。彼らは、アフリカの民衆を犠牲にして、至る所で大きな家を購入・建設し、高級車を乗り回し、女性を囲っている。センベーヌが非難するこの傾向は、アフリカでは今も続いている。彼によると、アフリカの指導者たちは公的資金で富を蓄え、国民の共有財産を盗み、ヨーロッパの様々な銀行口座に偽名で送金をしている。
フラッシュ・バック(回想)について
この小説では、センベーヌの作品でよくみられるフラッシュバック(回想)が使用されている。この回顧的な手法は、過去の出来事を思い起こさせるために頻繁に使用される映画技法で、小説をより深みのあるものにしている。
センベーヌのフラッシュバックについて、ベストマンは次のように述べている:
「小説家であり映画監督でもある彼にとって、フラッシュ・バックの手法は常套手段であり、芸術的効果のために用いられている。回顧的な物語は、断片的な物語のほぼすべての要素を把握することを可能にし、小説の冒険の時間をより深みのあるものにする。フラッシュ・バックは現在と過去を結びつけ、小説の理解を深める。時には、現在をよりよく理解するために過去が必要になることもある。過去と完全に断絶すると、現在は理解不能で無意味なものになってしまう。だからこそ、歴史の知識は人間社会の発展にとって重要なのだ」
フランスの哲学者ジャン・プイヨンは、フラッシュ・バックについて次のように述べている:「人間とは、その人が作り上げた過去そのものであり、その人が今日行うことは、その人が行ったこと(または経験したこと)によって決定されるものである。さらに、現在に影響を与えるのは過去であり、過去は一つの塊を形成している」
小説におけるフラッシュバックの例として、 アラジの第一夫人のアジャ・アワ・アストゥが結婚式から戻ってきた時の場面が挙げられる。彼女は、アラジが第二夫人のウミ・ンドイと結婚した時に感じた嫉妬を思い返す。ウミに感じた嫉妬は、第三夫人に対する嫉妬よりも激しいものだった。なぜなら、アジャとアラジとの愛の関係を直接的に壊したのは、第二夫人のウミだったからである。
一夫多妻制は女性の感情をまったく尊重していない。男性は、女性の感情をまったく考慮しないで、二人以上の女性の間でまるで王のように振る舞う。
この小説は、独立後にアフリカの大衆を搾取するアフリカの新興富裕層やエリート層を批判している。彼らは抑圧された大衆を犠牲にして富を蓄え、その富を利用してアフリカの人口の大部分を占める貧しい人々を抑圧している。
アラジも大衆を犠牲にして富を築いている。彼が奪った乞食の土地が、彼のEDの原因となっている。それについて乞食は言う:
「何故かって?単にお前が我々の土地を盗んだからだ!表向きは合法的に盗んだのだ。土地の権利書にはお前の父親の名前が記されていた。だが、お前は、この土地がお前の父親や家族だけのものではないことを知っていた。お前のような連中は盗みで成形を立てているだけだ」
乞食はアラジにため口を使い、彼のグループの新富裕層に対して敬意も払わず侮辱する:
「新富裕層は詐欺師であり、公的資金を盗み、横領し、大衆を貧困の状態に陥らせている」
新植民地主義のアフリカの新富裕層は、アフリカの大衆の利益を心にかけていない。彼らは身内の家族の欲望を満たすために権力の座につく。アフリカ社会では、汚職が絶え間なく増加している。別の乞食がこう言う:
「お前の過去の財産は、もうないけど、それは詐欺で築き上げたものだ。お前も仲間も、謙虚で正直な人々の不幸の上にしか築き上げられないのだ」
センベーヌは、まず女性たちを殻から解放し、発言権を与えることで家父長制の支配に疑問を投げかけ、アフリカ女性の解放への第一歩を踏み出した。
一夫多妻制
アラジの娘ラマは、解放されたアフリカ女性を象徴している。彼女は父親の三度目の結婚に激しく反対する。彼女は、父親のこの三度目の不必要な結婚に対する憤りを次のように明確に表明している:
「私はこの結婚に反対です。一夫多妻制の男性は決して誠実な男性ではありません。」
アラジの最初の妻で、ラマの母親であるアジャ・アワ・アストゥと三度目の結婚について話し合う中で、ラマは次のように主張する:
「私は将来、他の女性と夫を共有することは絶対にありません。むしろ離婚します…」
センベーヌも一夫多妻制を嫌っていて、常に「私は一夫多妻制に反対だ。しかし、私が出会った人びとの多くは一夫多妻制に賛成だった」と言っていた。
アフリカの女性は従属的な立場に置かれている。アフリカの伝統やイスラム教も女性解放のブレーキになっている。女性は男性に従属するように教育されていて、女子は母親というよりも、むしろ「物」として見られることが多い。
アラジが三度目の結婚式に出席するよう娘のラマに求めたとき、ラマはこう答えた:
「行きません、父さん。なぜかって?私はこの結婚に反対ですから」
ラマのこの立場は革命的で、アラジは娘に対してこう言う:
「お前の革命は、大学でも街頭でも構わないが、私の家では絶対に許さない」
アラジが娘の革命的な傾向に対して嫌悪を示すのは、彼がまさにブルジョワであり、新植民地主義者であることを示している。彼は伝統的なアフリカのものを犠牲にして、西洋のあらゆるものを認めている。
1981年、『帝国の最後の男 Le dernier de L’Empire』を発表。初期4作に比べると創作期間がずっと間遠になっている。1960年代後半から70年代にかけて、センベーヌの創作活動はむしろ映画の製作の方に重点が移っている。

センベーヌは、1976年に映画『チェド』を制作するが、当時のサンゴール大統領により上映禁止となった。この措置に対し、反骨精神が旺盛なセンベーヌが、サンゴールの政治姿勢を痛烈に批判し、逆襲に出て書いた長編小説が『帝国の最後の男』である。奇しくもサンゴールが、自らの後継者として育ててきた当時のアブドゥ・ディウフ首相に、大統領職を譲った年でもある。その7年後に、映画『チェド』の上映禁止処分は解除された。
物語は、セネガルと思われる共和国の大統領が、突然、行方不明になるところから始まる。大統領の失踪をめぐり、長期独裁政権の腐敗と不安定な経済に対する民衆の不満が爆発し、政情が不安となる。クーデターが起こり、政府首脳の不正があばかれ、行方不明だった大統領も逮捕される。この小説は、推理小説にも似たミステリーとサスペンスに引っ張られ、最後まで一気に読んでしまう。
この小説についてセンベーヌはこう語っている:
「たしかにこの小説はわたしの作品の中でひとつの独自性をもっているといえるでしょう。まず第一にセネガルではこの小説は無視されています。ジャーナリズムも沈黙を守っています。この作品はセネガルの歴史、とくに植民地時代のセネガルの社会を知っている人たちにとっては歴史小説のように思えるのではないでしょうか?作品はあくまでもわたしの創作ですが、その人たちにとっては登場する人物や事件に思いあたることがあるからです。この小説がセネガルの歴史をふまえたドキュメンタリー小説であることは事実です」(『アフリカ 顔と心』片岡幸彦)
センベーヌの作品は、サンゴール派のネグリチュード理論とはまったく縁もゆかりもない。ネグリチュード文学が、一面で民族の消極的自己主張であったとすれば、あらゆる面での民族の積極的・戦闘的自己主張といえる。しかも、作品の芸術性において、その感動力において、いわゆる先進国のすぐれた文学作品にまさるとも劣りはしない。
(『セネガルの息子』センベーヌ・ウスマン 藤井一行訳)
1977年、『ニーワム Niiwam』を発表。
ダカール市内で起こった実話をもとにしている。
この作品は映画化されたが、センベーヌによって制作されたのではなく、セネガルの若手監督トマス・デルカドによって映画化された。

【あらすじ】
田舎に住むティエルノには、ニーワムという名の生後まもない赤ちゃんがいたが、原因不明の病気にかかり重体だった。家庭療法や民間医療やマラブーの祈祷を試みたが効果はなかった。妻のアワが赤ちゃんを無料診療所に連れてゆくと、赤ちゃんをすぐに入院させる必要があると言われ、ダカールのアリスティッド・ル・ダンテック病院に運ばれる。しかし、小児科の病室は満室で、母親と赤ちゃんはむしろをコンクリートの上に敷き、何の治療も施されることなく一夜を過ごすが、翌日、赤ちゃんは息をひきとる。
ティエルノは子どもを失うことは二度目だったので、この赤ちゃんはダカールにあるイスラム教徒の墓地に埋葬したいと思っていた。
ティエルノは、息子の遺体が引き渡される霊安所の前で、死者の体を清める「古着屋Chiffonier」と知り合いになる。古着屋は、病院の使い古しのシーツをティエルノに与え、遺体をその布で包ませた。さらに、古着屋の協力を得て、乗客に知られずに息子の遺体と共にバスに乗り、イスラム教徒の墓地に向う。ブラック・アフリカのイスラム教徒の伝統で、女性は埋葬に参加できない。そのためティエルの妻は埋葬には行かず、先に村に帰った。
ダカールを東から西へ移動するバスの中にさまざまな人が乗ってくる。その中で豪華なブーブーを着てサングラスをかけたおしゃれな女性が、ティエルノの横に座る。ティレーン市場を過ぎる頃に、青色のハエの大群がバスに侵入してきて、遺体を包んだシーツの上を這いまわる。そのうちに、婦人が「死体だわ」と叫び声をあげる。それを聞いて乗客たちはティエルノから離れ、混乱する。しかし、同じバスの中にいたマラブーが乗客たちに説教し、運転手に墓地の入り口まで行くよう提言すると、乗客たちは一斉に賛成する。最後には、乗客たちはティエルノに心から同情し、彼が墓地に行けるよう協力するようになる。
センベーヌはこの小説について、「私はこのバスという社会と、そこに出入りする人びとを通して、宗教の力の不思議さ、人びとを結びつかせる人びとの強い絆として、今も現代社会に深く根を下ろしている宗教を描いてみたいのです」と述べている。
(『センベーヌの世界―インタビュー』山本玲子・山本真弥子訳)
センベーヌは小説の題名について、翻訳者の山本玲子氏に以下のような説明をしている:
「ウォロフ語の『ニーワン』の『ニー』は、『死体』で、『ワン』は『彼の』ですから、『彼の死体』という意味です。でも、この場合、日本語で『彼の死体』と訳さないで『ニーワン』とそのまま音で残しておいてください。ちょっと謎っぽく残しておきたいので…..」
「標準ウォロフ 語/フランス語辞典Dictionnaire wolof-français」によると、「死体」を意味するウォロフ語は「ネーウnéew」で、「彼の」は「アムam」となっている。従って「彼の死体」は、「ネーウ・アム」⇒「ネーワム」となり、この発音の方が「ニーワン」より正確な表記だと思われる。センベーヌ自身も片岡幸彦教授とのインタビューで小説の題名を「ネウアム」と発音している。
尚、この小説では、主人公ティエルノの息子の名前も「ネーワム Niiwam」となっている。
1986年、『タアウTaaw』(長男) 発表。
『タアウ』は、もともと、1970年にセンベーヌが書いたオリジナル・シナリオをもとにつくられた30分の映画で、センベーヌはこの主題を十数年来あたため、構想を練り、小説にした。
1986年、アフリカの現実と希望という同じテーマを扱っていることで、『ニーワム』と共に一冊の本にして出版した。
「タアウ」は、ウォロフ語で「第1子」を意味する。従って、男の子の場合は「長男」、女の子の場合は、「長女」と訳される。この小説では主人公が長男であるため、本の題名は「長男」となる。センベーヌによると「タアウ」には「誇り」という意味もあり、希望の象徴でもあるという。
ダカールに住む若い失業者の一日。母親は懸命に働いているが、家族を養うことは叶わない。伝統を重んじる父親は、子供たちをマラブー(イスラム教の指導者)に預け、コーランの教育を受けさせる。しかし、マラブーは子供たちを物乞い送り出し、少なくとも100フランを稼がせるために盗みをさせることもある。
失業中の20歳のタアウは、都市部セネガルにおける道徳観の変化と雇用市場の停滞がもたらす結果に対処しなければならない。一方、11歳のウマンは、宗教教育の矛盾と向き合わなければならない。自然主義的な手法で描かれた本作は、変化する社会が突きつける現実に対し、二人の兄弟がいかに無防備であるかを劇的に浮き彫りにする。物語自体は単純ながら、力強く描かれ、胸を打つ作品である。
センベーヌは、インタビューで小説になるまでのいきさつを次のように語っている:
「映画を作り終えると、台本などすべて整理して、片づけてしまいました。
しかし、私はこの台本がたいへん気に入っていましたので、ちょくちょく出しては、書き入れをしたりしていたのです。それがある時、私の長男の話をしていて、ふと、この題材をもとにして小説を書こうという気になったのです。
そう、ちょうど息子はそのころ、いろんな意味で不安定な状態にありました。新しいアフリカ、父親、家族、自分自身、そして自分の将来について、現実とのはざまでいろいろと悩んでいました。動揺していました。私はそんな彼の姿を見て、思わず言ったものでした。
「『タアウ』の映画を覚えているかい」
「うん。よく覚えている」
そう答えた息子に、私は言いました。
「あの題材をもう一度練り直してみようと思うんだ」
これがこの『タアウ』を書くきっかけでした。それから時間をかけ、ゆっくりと小説『タアウ』の構想を練ったのです。
若い世代と社会との関わり方、世代間、文化間の衝突、そのなかでも夫婦間、父子間の衝突に焦点をあて、新しいアフリカのかかえる多くの問題を浮き彫りにすることができればと思ったのです。
映画の主人公は、教育を受けたインテリ青年で、ほかの者よりずばぬけて頭のよい、資格を持ちながらも職につけない失業中の若者でしたが、小説『タアウ』では、ただ普通の一人の若者、どこにでもいる若者が、資格があるなしにかかわらず、だれもが多かれ少なかれ出会う現代社会の問題を描いています
映画『タアウ』のなかでは、母親の存在は大切ではありませんでした。むしろ、父親の存在が大きな位置を占めていました。しかし、小説の『タアウ』のなかの母親の存在は大変に大きいのです。彼女こそ価値のかくれ家なのです。
そして、母親の存在こそ、社会を揺るがし、現代社会へ痛烈な問いかけをするものなのです。母親には、父親にない強さと勇気があります。社会を相手にまわしてでも、父親から追い出された息子とその嫁を、温かく受け入れるだけの大きな勇気があるのです」
(『センベーヌの世界―インタビュー 』山本玲子・山本真弥子訳)
センベーヌ自身が言っているように、小説では後半は、母親の物語に重点が置かれ、タアウの存在がかすんでしまっているような気がする。
タアウが、恋人のアストゥに対し「おれには関係ない。おれはきみの子の父親じゃない」とうそぶく。タアウは誠意のない青年として描かれている。
小説では次のような状況設定になっている:
・タアウは、学校に行っていた時、親戚の家で昼食をしていたが、親戚の人にいじめられていた。
・第一夫人は、一夫多妻の家庭から独立したいと思っている。
1996年、『ゲルワール Guelwaar』出版。

『ゲルワール』は1992年にまず映画が制作され、その後1996年にセンベーヌ自身によって小説化された。
ある村でキリスト教徒が誤ってイスラム教徒の墓地に埋葬された。それによって引き起こされた、現代アフリカの道徳的、宗教的、行政的な混乱を風刺的に描いた作品。
イスラム教徒とキリスト教徒の対立と葛藤が描かれている。
センベーヌは、著書『Guelwar』の中で、「『ゲルワール』という言葉は、マリンケ語の『ケレ・ディアワルKélé Diawaru』(戦いの戦士)が変化したもので、貴族の家系に生まれたマンディンガの戦士を意味する」と注釈している。
(一方、「ゲルワール」は、元来、セレール語で「セレール社会における母方の家系の貴族」という意味である。14世紀の王朝の名前に由来している、という説もある)
【あらすじ】
国際援助に反対するカトリックの活動家、ピエール・アンリ・ティウヌは、アフリカの自主独立の偉大な擁護者で、人びとから《ゲルワール》と呼ばれていたが、援助米引き渡しの集会で、国際援助を非難する過激な演説をしたため、襲撃を受けて死亡する。
葬儀の朝、彼の遺体が消えていることに気づき、空の棺を囲んで弔辞が捧げられた。
遺体安置所の事務上のミスにより、彼の遺体はイスラム教徒の墓地に埋葬され、イスラム教徒とキリスト教徒の間に深刻な軋轢が生じる。
センベーヌは、この物語を通して、腐敗、物乞い、服従、恥といったテーマを取り上げ、アフリカが苦しんでいる悪を糾弾している。
この小説は、宗教的な緊張や社会的な不公正を浮き彫りにし、アフリカ大陸の政治的・経済的状況に対する鋭い批判を投げかけている。
『ゲルワール』の巻頭の 「著者の覚書」で、センベーヌはこの作品が書かれた状況を以下のように説明している(筆者訳):
「通常、私は小説を出版した後、その作品に着想を得たり、原作を脚色したりして映画を制作してきました。原作から着想を得る脚本家(脚本執筆には2、3人が携わることもあります)は、その本に込められた素材をすでに仕込んでいます。登場人物の状況や台詞といった、土壌が肥沃な場所では、脚本家の《地質学者》的な作業は容易なものです。映画監督は、自らの欲望に従う道具を手にしています……俯瞰、逆俯瞰、トラベリング、ショットの長さ、地平線を表現する沈黙。映画において、貧しい住居のセットは、アフリカの画家たちが描く肖像画と同じくらい美しい。それは、海のように移ろいゆく、魂の果てしない地平線そのものなのです。視線(目)に関しては、それは開かれた扉のようなものです。映画監督が行うこの一瞬の視覚的描写は、『覗き見』という効果であり、作家の描写と比べると確かな優位性があります。
しかし、この一点に限っては、文学者にも切り札があります。彼は言葉(その道具)を用いて顔の輪郭を彫り上げ、描き出し、対象の心理を深く探求します。映画(その監督)がスペクタクルと壮観さを重視する一方で、文筆家は一文一文、その輪郭を削り出し、刻み込んでいきます。見識ある読者はそこに喜びを見出し、映画愛好家は感嘆します。
私がスクリーンで愛した偉大なるローマ人たちは、私をひどく失望させたが、彼らは何人いるのだろうか?
映画の規準を恣意的に決めることは危険です。今回は、いつもとは違ったやり方をしました。『ゲルワール』の映画化を終えた後、その脚本を小説執筆の素材として活用したのです。私は脚本の骨格を尊重しました。この創造的な二重構造は実り多いものであり、私を豊かにしてくれました。私たちが『夜間学校』としての映画学校を設立する際には、テーマ別授業の中で、この手法を明日のアフリカの作家や脚本家のために活用するでしょう」










「そうだ、ストライキだ、ストライキだ!」会場の労働者たちはこぶしをつきあげて、叫んだ。
「ストライキばんざい!」かれは相棒の背中にとまってそう叫ぶと、バンバラ語で群衆に演説を始めた。
そのとたん、兵隊が襲いかかってきた。
たちまち、乱闘がはじまった―銃尾でなぐりつける、銃剣の先で突く、短靴ですねを蹴とばす、催涙弾を投げる、憤怒と怒りと苦痛の叫喚が、ただ一つの喧騒と化して、朝の空にたちのぼっていった。群衆は後退し、恐れをなしてばらばらに散らばってはまた集まり、動揺し、ためらい、そしてまた後退した。女商人のディエナバは市場の女たちを呼び集めた。伝説の勇婦のように、彼女たちはつえや鉄の棒やびんを武器にして、応援に駆けつけた。マガットと見習い工たちは踏み切りのところからまさに小石の弾幕射撃を開始した。手当たりしだいに拾い上げたものが空を飛んでいった。分遣隊を指揮していた士官の兵隊が一団の労働者たちに捕らえられて悲鳴をあげた。乱闘はいたるところでいっせいに起こっていた。市場には、ちゃんと立っている小屋が一つもなくなった。
1938年のストライキでも、チェスの広場には死体が横たわり、風で血だまりが干あがり、トルコ・スリッパ、サンダル、テニス靴、白やカーキ色の帽子、トルコ帽、軍帽などが散乱していた。今また、あのときの連中のせがれたちがストライキをやっている。痛みつけられ、なぐられ、飢えさせられながらも、がんばっている。なにかもなんとふしぎなことだろう、まったくふしぎなことだ!
そのときバシルが民警に追われて逃げてきた。バシルは身軽に自転車をとびこえたが、兵隊の重い軍靴がフレームと後輪を踏みつけ、子供の頭が車輪の下敷きになった。傷ついた子供のかぼそいうめき声を聞いて、人々は悲鳴をあげた。マイム―ナはそのうめき声を聞くと二人めの赤ん坊を片手にしっかりかかえ、べつの手を前にさしだしたが、その瞬間、だれかがが走って来て彼女を突きとばした。彼女は子どもをしっかりとお腹に抱きしめながら前に倒れ、赤ん坊を下にしてひざと手をついた。彼女は、背中を弓なりにして、子どもをかばった。
マガットと見習い工たちは、道床の上から規則正しく小石の一斉射撃をつづけていた。乱闘はいまやチェス中にひろがっていた。市場からは他の男たちが鉄道の労働者の応援にはせ参じた。しかし、航空隊や地区警備隊の営舎からも、武装した連中がやって来た。午前もなかばを過ぎたころ、たたかいはやっとやんだ。しかし、興奮はさめなかった。労働者たちは市場、踏み切り、駅前広場、それに機関庫周辺に陣どっていたが、当の機関庫と駅は銃をかまえた歩兵隊に守られていた。
騒ぎがおさまると、めくらのマイム―ナは手探りでわが子を捜して歩いた。死傷者が収容されたとき、小さな遺体もいっしょに運び去られたことを、彼女は知らなかった。マイム―ナはなぐられたり、突き倒されたり、踏みつけられたりのめにあって、からだが自由にならなかった。着物はずたずたになり、肌着は真っ二つに裂けて、かろうじて首にひっかかっていた。あらわな胸から腰巻の結び目にかけて、赤いしずくがしたたり落ちていた。その腰巻も腿のつけ根のところまで前がはだけていた。頭巾を失くしたので、短い髪が暴風のあとのフォニオ(きびの一種)畑のように乱れていた。彼女は残った子どもをしっかりだきしめ、ときどき顔を近づけて不規則な息づかいに聴きいっていた』
(藤井一行訳『神の森の木々』より)